第6話


祈りが通じたのか、それから朝までマヤは一度たりとも悪夢にうなされて起きるようなことはなかった。 眠れなかったのは俺自身で、紳士然として彼女の枕元に佇んでいたものの、明け方頃流石に眠気を催してリビングのソファの上に移動した。 日付が変わったその日は土曜日で、大都の速水真澄にとっては週末も平日も然程変わらないスケジュールとはいえ、朝には多少の時間の余裕があった。 マヤの撮影が午後1時開始なのは把握していたし、水城に連絡するにしてもあ二時間程度は待っていいだろう。その間に少しばかり仮眠を取ろうと身体を横たえる。 寝不足に重い頭の底で、薄い扉一枚向こうで寝息を立てているマヤについてもう一度考えてみる。 夜通し見つめたその姿はもはやいついかなる時にも鮮やかに網膜に再現できるようになった。 今、幾つだといったっけ──初めて会った時が13歳だったか。 紫の薔薇の力で高校に入れたのが半年前。 この数年の間、出会えば敵対してばかりの彼女と俺の関係。 いや、少なくとも出会ったばかりの頃はそうではなかったはずだが── そしてこの、奇妙にしてかけがえのない関係に変化が訪れたのが1ヶ月程前。 いつものように俺に対する怒りをぶつけていた彼女が、ふいにその弱さを曝け出した瞬間。 俺の腕は常の自制心など全く無視して彼女を抱き竦め、唇もいとも簡単に彼女に舞い降りた。 そしてこの手は── ……ふいに身体の奥があの時の熱を思い出し始めたのを察知し、慌てて打ち消す。 昨夜彼女を捉えた時は、二人の関係はどう崩壊してゆくのかと恐れる程熱く興奮していた(と、思う)のに、 同時に冷静この上ない態度で彼女を扱うことのできる自分が我ながら可笑しくて仕方なかった。 いい年した男が眠る少女を夜通し見守るだけの図──どちらかといえば笑えない光景だけれど。 振り子のように揺れる、自分でも理解し難い想いの扱い方。 それに耐えかねたのは精神よりも身体の方が先だった。 眼を伏せがちにからかいながら、自分より遥に小さな彼女を隅々まで観察するのは至福の時だった。 水城に指摘されるまで努めて意識することは避けていたが、夜、眠りの世界で僅かに自己規制を緩めた時、 浮かび上がるのはそうやって見つめていた彼女の様々な断片であることが多かったのだ。 ふと流れた眼差しや、怒りに満ちた眼、上気して赤くなった頬、舞台の上で弾ける汗の煌めき── 目が覚めた時、自分の肉体に残る反応に驚愕したのは一度や二度ではない。 その度、さっきのように慌ててその残像を打ち消し、様々な理屈を引っ張りだしてはお馴染みの”速水真澄”の仮面で誤魔化すのが常だった。 それにしても── 過去を振り返って厳しく問い正してみても、自分の内壁に所謂”少児愛癖”が潜んでいたとは思えないのだが、 そういう類の爆弾は予兆なしにある日突然現れるとでもいうのだろうか? 仕事柄ティーンエイジャーのアイドルやその卵達と接触する機会は少なくない。 馬鹿げたことだと自覚しつつ、一度だけ、彼女達を隈なく観察してみたことがあった。 マヤに対するような想いを持てるものかどうかと、擬似的な感情を作り出しての上だ。 が──やはり商品は商品、子供は子供に過ぎないのであって。 商品は大事にすべきものとはいえ、こうした世界に飛び込んだ子供とは大人の思惑付きであることがほとんどで。 そんな彼女達に僅かな哀れみこそ感じつつも、特別な庇護欲や、まして情欲など感じられるはずもなかった。 幼い頃からああいう世界で生きてきた彼女達は、概して頭がよく、言い換えればスレていて、それでいて驚くほど幼かったりする。 だがあの子はどうだろう。 この俺に無邪気に楯突く所などとても”頭がいい”とは言えないし、 自分の名前と顔を売らねばならない場面においての消極性といったらこちらが溜息をついてしまいそうな程。 何もかもが未成熟で危なっかしいようでいて、それでも”幼いが故に愚か”だと決めつけることのできないのがあの子の不思議な所なのだ。 母一人、子一人で逆境の中育ってきた中培ってきたであろう、芯の強さ。 たった13歳で女優という自分だけの道を求め、一人健気に歩いている。 たった一人で。 誰に支えられることもなく。 そして芝居に対する野性的な直感。 こう演じなければならない、とは考えず、そうあるべき役の仮面が憑依する、天性の女優。 やはり、彼女は他の少女達とは全く異なる──他の、どんな女優、どんな女とも違う。 それにしたって──やはり、大人になるのを待つべきだったのだろう。 いつか恋を演じられるような大人に──彼女の心がゆっくりと変化する時まで。 キスなんてすべきじゃなかった。 ましてあんな触れ方をするべきでは──絶対になかったのだ。 それなのに。 こうしていて尚、今すぐにでも扉を開け放ち、眠る彼女の上に倒れ伏して全て曝け出したい── あの青白く嫋やかな身体に深く沈み込みたい、という想いにかられてどうしようもないのだ。 眠ろうとすればする程に。 簡単に手が届くのに、永遠に手の届かない存在を主張するかのように。 重く胸を押し潰す、華奢で小さなマヤ。 息苦しさに、狭いソファの上で何度となく寝返りを打ち続けた。 そしてようやく、望んでいたものが訪れる。 彼女の幻像の現れない、真っ白なスクリーンのような眠りの世界が。

遠くで、凛と張った少女の声が響いている。 ここは──俺の部屋か……あの有り得ない声はどこから聞こえているんだろう。 テレビの中──のはずがない。 はっと身体を起こす。 反射的に時計を確認するが、思った以上に時間が経過しているわけではない事を知り、安堵する。 『向島の祥子お姉様がご結婚なさるのよ、相手はエゲレス人のお医者様ですって──  何でも素人離れした音楽愛好家で、オルガンは特にお上手だとか』 あれは沙都子の声か。 『ああ、新、私も聴いてみたいのよ、西洋の音楽というものを──  ベェトォベン、モォツァルト、それからメンデルスゾォン……話でしか聴いたことがないの、どんなに素敵な調べなのかしら?』 昨夜、あれ程酷いショックを受けていながら、朝になれば台詞を紡がずにはいられない、という訳か。 ゆっくりと頭を降り、窓の外に広がる朝の空を見上げる。 一秒ごとに変化し、みるみるうちに薄紫色から淡い水色へと移り変わる様はまるであの子の心模様。 できればこのままずっと眺めていたい──この美しい声と共に。 が、暫くすると沙都子の声はぴたりと止まった。 そろそろ「北島マヤ」が目覚めたのだろう。 俺もソファから腰を上げ、ふと顔に手をやって昨夜からそのままの姿の自分に気がついた。 確か1、2着の着替えくらいはベッドルームのクローゼットの中に入っていたはずだ。 「ちびちゃん──入るぞ」 深く深呼吸をしてから、ドアを軽くノックして。 そう声をかけ、たっぷり3秒数えてからドアを開けた。 どうせ返事をする気などないだろうと見当をつけたからだ。 案の定、ベッドの上で膝を抱えるようにして座り込んでいたマヤは──ワンピースはすっかり皺くちゃだった──こちらを呆然と見上げたまま、僅かに肩を動かした。 「おはよう」 「お──はよう、ございます……」 「よく眠れたか?」 「あの──えっと、ここは……?」 「俺の部屋」 「え──えええっ!?」 「何だその露骨に嫌そうな顔は。  あのまま眠りこけて起きないから、わざわざ寝室を提供してやったんだぞ。少しくらい感謝しろ」 「な……え、あ、本当に速水さんの家、なんですか?」 「家というより、俺のマンションだ。ほとんど住んではいないが。  君のあの部屋はもう使えないだろうから、落ち着き先が見つかるまで暫くここを使うといい」 何が何だかわからない、といった風のマヤだったが、ようやく昨夜の記憶が蘇ってきたのか、はっと顔色が青ざめてゆく。 「心配するな──あんなくだらない脅迫犯はすぐに捕まえてやる。  君は今のように、ただ演技に専念していればいい」 とはいえ、連中がなかなか尻尾を出さないのには正直苛立ち始めていた。 水城からの報告だけでも、巴麻里に山崎竜子、それから熱狂的な里見茂のファンの少女達。 その他にも何人かマヤに恨みを持ちそうな人物の見当はつけているが、昨夜ような思い切った犯罪行為にまで及ぶ動機と力を持つ人物となると── これ程までになると、マヤ個人というよりも彼女の背後にいる大都芸能、つまり俺が狙われていると仮定を広げた方がいいのかもしれない。 何にせよ、彼女の身辺はこれまで以上に配慮しなくては。 「で──申し訳ないが、この部屋には本当に何もなくてね。  今水城君に連絡して君の着替えと身の回りの物を持ってこさせている。  その間に朝食はどうだ?腹は減ってるだろう?」 「っと──もう、何でそう次から次へと勝手に……」 と、その素晴らしいタイミングで彼女の腹の虫が鳴り響き、俺が高笑いを爆発させたものだから、 緊張しきっていた彼女はたちまちいつものように真っ赤になって怒り出した。 よかった──これで何とか、いつも通りだ。今の所は。 彼女の前では珍しく、昨夜と同じ出で立ちで襟元を緩めた状態の俺の姿が物珍しいのか、マヤはしきりにこちらを伺うような顔をしている。 「どうした?」 「え?いえ、その──別に。」 苦笑しながら、彼女の座るベッドの脇のクローゼットを開けた。 「パジャマくらいならあるから着替えさせてやりたい所だったが──」 「冗〜談じゃないです!!」 「──と言うと思ったから、放っておいたんだ。  だからその無残な姿になったんだろ、ワンピース。すまないな」 「い、いえ。何で速水さんが謝るんですか」 「悪いが先にシャワーを使わせてもらう。一緒に入るか?」 勿論、最後のは必要のない冗談だった。 どう反応するかと思ったが、いかにも嫌そうに舌を突き出されたので、ただただ笑うしかない。 そうやって怒る元気があることはいい事だと思った。 15分後── 支度を済ませてバスルームから出てみると、リビングのマヤは皺だらけのスカートの裾を何とか元に戻そうと四苦八苦しているところだった。 その後姿は、何ともいえず微笑ましい。 それでいてとてつもなく扇情的なのだ──信じ難いことだが。 裾からまっすぐに伸びた、しなやかな脹脛。 少女らしく固く滑らかそうなその曲線は、踝でつんと尖り、床に敷かれたラグの中に柔らかに沈む。 そうした曲線の全てが、朝日を浴びて金色に縁取られている。 本当に──俺は頭がどうにかしてしまったに違いない。 先ほどとは比べ物にならない程の息苦しさに、思わずその場に身を屈めて溜息をついた。 web拍手 by FC2

last updated/11/03/05

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