第8話


午後10時6分── 山積みの仕事に強引に目処を付け、MBA本社ビルへと車を走らせる。 まだあちこちのスタジオで番組の撮影が行われている様子で、局内の人通りは忙しない。 昼も夜もない世界一面に広がる人工照明の白々しい光が、興奮と疲労のない混ぜになった彼らの顔を隈なく照らし出す。 105スタジオで進行中の『天の輝き』の撮影はやはり押しているとの事で、 ディレクターに確認した所マヤの出番までは早くても2時間は待たねばならないという。 「で──その北島は?」 「ええっと、あれ、マヤちゃん何処行ったか知らないかな?」 周囲のスタッフの一人が、少し前に台本を持って出てゆく姿を見た──と答える。 すると背後から水城が声をかけてきた。 「あら社長、本当にいらっしゃったんですね。あの子なら控室にいますわ」 できれば付いていて欲しいんだが──と言いたいところだったが、ただでさえ彼女には四六時中マヤ付きで苦労をかけている。 マヤの方にも、常に監視されているような状況で息苦しい思いをさせてしまっている事だろう。 そんなこちらの胸中を素早く察知した我が有能は秘書は、近づくと声を潜めて続けた。 「──本当は下のフロアの倉庫にいます。  スタンバイ中の場所は随時変えるようにしておりますのでご安心を」 「ああ──稽古中か?」 「ええ。すみません、流石に逐一ドアの外に張り付くのは彼女も嫌がるので──」 「いや、君は十分やってくれている。  今夜の撮影は遅くなるそうだな──後は俺が見てやるから、君は先に帰りたまえ」 「は──でも宜しいんですか?」 構わん、と首を振った俺に水城は微かに口元を緩め、何か言いかける。 が、そのまま「恐れ入ります」と頭を下げて去って行った。 それから何人かの関係者が俺の周囲に集まり出し、話しかけてくるのを曖昧にかわして外へと出る。 人気のない長い廊下を、やや大股で歩いた。 最後にマヤに会ったのは一週間前──会った、というよりも通り過ぎるのを見た、という所だが。 相変わらず、俺の存在に気づくなり一瞬眉をしかめて、それから足早に遠ざかっていった。 前より、少し顔色が青白くなったように感じられたのは気のせいだろうか。 ともかく、早く彼女の姿を確認したかった──文句でも何でもいいから、彼女の生の声を聞きたい。 エレベーターを使うよりも階段で行った方が早いだろうと、そのまま廊下の端の扉を開ける。 薄暗い照明に導かれながら階段を下り、二回踊り場を数えて階下のフロアへと続く扉を開けた先には、上階と全く同じ風景が続いていた。 撮影で使用される大道具等を一時収納しておく倉庫の扉が冷たく立ち並び、人通りは皆無。 一枚目のドアには鍵がかかっており、二枚目は抵抗なく開いた。 その中に、彼女はいた。 午後11時40分。 壁にかかった時計の針の音だけが小さく響く、冷たく静まり返ったカビ臭い部屋。 その片隅の木箱の上に、倒れ伏すようにして眼を瞑っている。 この寒いのに、薄手のロングTシャツにジーパンを履いただけの姿で。 伸ばされた右手には台本が握られていた。 台詞の練習をしながら、疲れて眠ってしまったのだろう。 足音を立てないよう、そっと近づいてみる。 投げ出された手足と同様に乱れた髪の毛が一房、青白い額にかかっていた。 やはり思い過ごしではない──以前見たときより明らかに痩せている。 ただでさえ痩せっぽっちなのに、これ以上痩せたら小枝になるぞ──と心の中で小言めいた言葉をかけてみる。 伏せた睫毛の濃さが、肌の白さを際立たせる。 決して美少女ではないはずだが、整った骨格に配置された控えめな目鼻立ちは角度によっては驚く程艶やかに、大人びて見える── 僅かに動いた瞬間、たちまち幼さを増すその顔もまた、彼女の不思議な魅力の一つ。 無防備にそこにあるのなら、触れてみずにはいられない。 そっと差し伸べた自分の指先が震えていることに気がつき、苦笑する。 目覚めて欲しいのか、欲しくないのか── どっちつかずの緊張に張り裂けそうになりながら、それでもこの身体はいつでも意思の少し手前で勝手に動く。 人差し指と中指が、湿った小さな唇の上に辿り着く。 触れるか触れないかの絶妙な距離で上唇の淡い線をそっとなぞると、彼女の眉が微かに動いた。 だが眠りは深く、それ以上身じろぎさえしない。 この唇に──里美茂はもう触れたのだろうか? 驚く程プラトニックな交際だと水城は言うが、それでもそんな空気くらいは共有する仲なんだろう。 (付き合ってどうしたいとか、どうなりたいとか考えてるわけじゃありません──) あの夜、決死の覚悟で俺に言い放ったマヤ。 でも、好き、なんだろう? 好きならば──触れたくなるんじゃないのか? もっと近くにいて、その姿を見たいと思えば、次はその身体に触れたいと願う。 だから──君と里美は、いつか、もしかしたら既に、キスをしてる。 だが俺は。 彼女に嫌われ、憎まれているこの俺は。 そうだ、汚い大人は”好き”じゃなくても、好かれてなくてもキスができる。 やめてくれと懇願されても、人でなしだと嫌悪されても、キスすることができるのだ。 自分の人生を情熱のままに生きる彼女への嫉妬。 あまりの輝きに見惚れ、薔薇を贈らずにはいられない憧憬。 決して手に入れることのできない存在への尽きることない欲望。 ”好き”に程遠い、汚い大人の諸々の感情を持て余して、俺はお前にキスをする。 (俺だって、目覚めた君とどうしたいとか、どうなりたいとか考えてるわけじゃない──) ただ、心のままに。 そうせずにはいられないから、する。 ふたひらの薄い肉は、俺のそれと触れ合った瞬間、僅かに引き結ばれる。 眠りの縁からの、明らかな拒絶。 だが目覚めていようといまいと、もうどうでもいいんだ── マヤ、今夜はただお前に会いたかった。 ふと、隅に毛布が重ねてあるのに気がつき、そっと薄い肩にかけてやった。 それから入ってきたのと同じように、ゆっくりと扉を閉めて出てゆく。 彼女に気づかれないように、そっと。 それなのに── 彼女は俺の名前を呼んだのだ。 小さな声で、でもはっきりと。 web拍手 by FC2

last updated/11/03/10

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