第4話
“一世一代の大芝居”をやらかすからには、もうちょっと気合いの入った場所の方が、と。
これでも私は忠告めいた事をいったつもりなのだ、17歳の小娘なりに。
だけど、ほんの数年しか歳の変わらない彼女は――この年頃でほんの数年、といったら、後の数十年に匹敵する差があるんだという事はずっと後に知るわけだけれど、その時はわからなかった――時に私よりぐっと幼いようにも見えたあの不思議な彼女は。
「いいの。どんな場所だって、あの人は誤魔化せないから」
と、殺す相手の事を評するにしては何の迷いもなく、むしろ信頼に満ちた口調で言い切った。
そんなわけで、彼女の選んだ毒殺の舞台は、某イタリア料理系ファミレスとなる。
私は母にメールして、今夜は塾の居残りが遅くなる――と、多分わかりきった嘘をつく。
塾なんて、ここ3日間すっぽかしてるんだ、それよりもっと大事な事があるからって心に言い聞かせて。
「王子」が毒を飲んでも、飲まなくても。
彼女はすぐに「幸せ」になれるわけじゃない事を知っている。
夕方に垣間見た、ほんの些細な断片を覗き込んだだけに過ぎない私でさえ。
あの変わった「王子」の想いが、彼女に匹敵「しないわけじゃない」事を知っている。
それでも――それがすぐさま二人の「幸せ」には結びつかないことを……
ハッピーエンドなんて、そう簡単には手に入らない事を。
碌な恋愛経験もない、頭でっかちの私みたいな「ちびちゃん」ですら、知っているのだ。
それでも彼女は賭けるのだという。
「王子」が毒を飲む瞬間、彼女だけを見つめる瞬間を(あるいは見捨てる瞬間を)――
見据える為なら、彼女の全ての才能を、賭けると。
店に入った彼女は、窓際の一番奥から二番目の席を取る。
私はソファを挟んで一番奥の席。
込み具合は、まあ普通――というとところで、同い年くらいの男女が数名と、会社帰りのOLのグループがひとつ、サラリーマンの組が数名、etc……
安っぽい“最後の晩餐”を背中に、きっと来る「王子」の面影を浮かべつつ、何故か私が死ぬほどドキドキしている。
彼女は――頬杖をついたまま、窓の外をぼんやりと眺めている。
特に切羽詰まった感じもしない、ほんの少しの退屈と期待感を滲ませたような白い顔。
ガラスに反射してみえるその横顔を、私は改めて観察する。
長い黒髪――まっすぐではない、少し癖のあるそれは、きっと普段のケアには手を焼く方だと思う。
右の額の上の後れ毛がちょこん、と跳ねているのが可愛らしい。
豊かな髪の毛に囲まれた顔は驚く程小さい。
子供のような骨格に、控え目な目鼻立ち――黒目勝ちな瞳は大きく、それが最大の特徴といえるかもしれない、
けれど、何故だか“美少女”とはいえないのだ、きっといい意味で。
マネキンのような“美少女”と違い、彼女の見かけの美しさは、一見目立たない。
それは彼女の持つ控え目な、俯き加減な、ともすると卑屈にも見える、その姿勢のせいかもしれない。
彫が深い訳ではなく、真正面で見据えられた時に初めてわかるようなその瞳の色の深さ。
鼻も高すぎず、低すぎず、唇も薄く、控え目に引き結ばれている。
癖がない、といえばない顔立ち。だけど。
今日、彼女の演じる幾つもの人格を目の当たりにしてつくづくと思い知る。
地は平凡そうなその顔が、実は絶世の美女にも、狂気の女にも、気配を感じることない黒子に徹することも出来る、
千も万もの仮面を自在に操る事の出来る可能性を秘めているのだと。
私は見据える――その顔に、指先に、魔法がかかるその瞬間を。
ソファひとつ隔てた、全ての空間にそれぞれの人生の“舞台”がある。
誰しもがその主役たり得、また脇役として通り過ぎるだけの舞台が。
あと数分か、数十分後か――その舞台の上で、紛れもなく、彼女は唯一無二の輝きを放つはずなのだ――
その登場は、劇的だった。
だって、気付いた途端に全ての人が例外なくざわめいたから。
ルックスがいい、というだけなら正直な所、特に珍しくもない。
顔がいい、とかスタイルがいい、というのは勿論目立つ美点に違いはないけれど、大抵の場合一瞬のうちに観察され、消費されてしまうものだから。
ただその「王子」の場合は――
オーラ、と一言で片付けるのはとても簡単だけど、確かに、オーラと呼べるものがあった。
本人の意図せずして人目を引く人物、とでも言えばいいのか。
一度その鋭い視線に射抜かれたら、男だろうと女だろうといろんな意味で震えあがりそうだった。
整いすぎたその顔は、男性のものとも思えない程美しかったし、かといって決して女性的、という訳ではない。
口元は皮肉っぽく油断ならない印象を与えたけれども、軽薄には程遠い。
油断なく、真正面から相手と向かい合う――戦う時も、愛する時も、きっと全力で相手を焼きつくし、滅ぼしてしまうような――
そんな強い、意志と力を湛えた眼をしていた。
つくづく――彼女は、凄い人だと思う。
私なんか、こんな圧倒的な人を目の当たりにしただけで疲れちゃうもの。
ほら……見られてもいないのに、何となく視線が泳ぐし。
他の人だって大差ない。
その人が入ってきた瞬間、大きく眼を瞬かせたような受付のギャルメイクの女の子も。
席を案内すべく一歩前に踏み出したその時、すぐさま”彼女”の姿を認めた彼が軽く右手を上げた。
それだけで、その子は動けなくなった――文字通り、一歩も。
その気持ちはよくわかる、と思う。
彼は迷うことなく、その長い脚の2、3歩でこちらにやってくる。
私は彼女を凝視する――黒い窓ガラスに彼が映り込むよりずっと前から、もう気づいていたかのように……微笑を浮かべる、彼女を。
「こんばんは」
彼女が笑う。
昼間はきつく眦を寄せて、決して緩むことのなかった口元も柔らかに。
「こんばんは――電話、取ってくれてありがとう。
昼の様子じゃ、捜索願いでも出さなきゃならないか、と思ってたが」
これでも冗談のつもりなのだ。
長い付き合いなんだから、察してくれ――と思う間に、密かに期待していた彼女の微笑が唇に浮かぶのを見て――
俺は、今宵の面会の成功を密かに期待し始める。
「いろいろ、考え直したんです。これでも、オトナですから、一応」
その言葉の意味を――
一瞬のうちにあらゆる方向に向けて解釈し、望む方向へと舵を取るのは簡単かもしれない。
だけどそれでは――多分、彼女は捕まえられない。
自惚れでも何でもなく、事実。
俺のほんの些細な態度一つで、彼女を永遠に手の内にするも、指の隙間から取りこぼすも自由なのだ。
「で――考え直した結果は?」
「……あたし、頭悪いんです。速水さん、十分知ってると思うけど。
あたしの為を思って言ってくれてるんだってのもよくわかってます――けど」
窓の向こうに向けていた視線をゆっくりとこちらに向けて。
ここ数年の間に――俺が苦しめている間に――すっかり、大人の苦さ、が隅々までしみついたかのような顔で、彼女は小首を傾げた。
「上演権をあなたにあげる事でしか、あたしの気持ちは収まらない。
あなたはあたしの為に、それを受け取らない。
あなたの「あたしの為」は――結局、あたしを拒んでるんです、って言ったら……
怒りますか?」
「君に憎まれるのは慣れてるとはいえ――
怒る訳なんてない、ってのも知ってるんだろ?そこまでわかってるなら」
真っ直ぐに見据えて伝える――言葉以上の、強い想いを込めて。
ここ数年、決して彼女が両手を差し伸べて受け入れる事のなかった想いを込めて。
彼女は眼を逸らさない――代わりに、微笑む事もない。
聞き漏らしている訳でもない、受け入れたまま、ただ静かに俺を見据えている。
どこかチリチリとした苛立ちを感じながら、俺は次のカードを切る。
その想いも、この想いも、とっくにご存知なはずだろう?
ならどうして今更――
そんな風に、やけに冷めた目で俺を見るんだ……マヤ?
「では聞くが、俺は、君の気持ちの「収まり」とやらがつく為だけに、
君が人生を賭けて掴み取ったものをただ委ねられるのか?それとも――」
「あたしがあなたにあげられるのは『紅天女』だけだから。
あなたが心から欲しいと思ってる、只一つのものだから――だから委ねたいんです。
理由、知りたいですか?ずっと伝えてきたつもりですけど、わからないなら――」
「そんな投げやりな言い方をしないでくれ――頼むから。
マヤ、真実を言えと言うならどんな風にだって言ってやる。
俺は君だけを愛してるし、君も俺を愛してくれているはずだ――
だからこそ、何よりも大切な上演権を俺に委ねたいという気持ちは……わかってるつもりだ、誰よりも。だが、それでも」
やや芝居がかってる、と頭のどこかで思いつつも――
そうするしかなかったから、俺はマヤの手を取った。
酷く冷たい指先――握りしめても、何の動揺も伝わってこない様な、細い指先。
ファミレスの、広いテーブルのあちらとこちらで。
彼女は精一杯俺に腕を引っ張られたまま、ほとんど表情を変えることなく俺を見つめる。
その静かな視線が――やはり、俺を落ち着かない気分にさせる。
これ以上――何を言えばいい?
これだけ愛して、きっと愛されてる――なのに、この心許なさは一体……
「君は、君一人の力で、北島マヤとして立って生きてゆかなくちゃならない。
勿論、俺は全力でサポートするし、俺以外にそれができるとも思えない――とさえ思ってる、その位の自惚れは許してくれ。
だけど、俺に君の才能の象徴ともいうべき上演権ごと、何もかもを委ねる事が――
俺と君の為に果たしていい事なのかどうか、正直自信がない。
何といっても俺は既婚者だ。君と人生の何もかも、全てを共有できる立場にある訳じゃない――
そんな男に、君は、心どころじゃない、過去も未来も何もかもを投げ出そうとしてるんだ……正気の沙汰とも思えない」
握りしめた指先にようやく力がこもる。
じゃあどうして、と切なく潤む瞳に――ゾクゾクと、肘先から駆けあがってくる、興奮なのか何なのか、濁流のような感覚に飲みこまれてゆく。
油断するな――ふとした隙が彼女を失う事に――頭の片隅の警告も瞬く間に消し去って。
俺は――
その時の俺は、本当に、馬鹿だったのだ。
ただそれだけで全てが丸く収まると……自惚れていたのだ、どうしようもない程に。
愛されているという自信と釣り合いの取れない、自身の身勝手さを慮る余裕は、その時の愚かな俺にはまるでなかった。
緊張をひた隠しにし、胸元から折り畳んだ二枚の薄紙を取り出す。
「そこで――少なくとも、“立場”くらいは他の男と釣り合いが取れるようにしてみた。
そうすれば――君のその、狂気の沙汰といっていい申し出を受け入れてもいい、と俺自身に言い訳する為だけの、せこい一手だが――これでも結構、手間取った」
何を言っているの、と訝しむ目の前に、まずは緑色の薄紙を。
「――何ですか、コレ」
「見ての通り、離婚届けだ。
が、残念ながらこいつを届けて即こちら――という訳にはいかないらしい。
なので、明後日の少なくとも昼過ぎまでは君を拘束するつもりだ。
その間に、こっちの方に署名、捺印を頼む。印鑑はこの通り」
「……あの、紫織さんと離婚して――あたしと結婚する、って事ですか?」
「その通り。それなら君ごと上演権を受け取って何ら問題はないし――
っておい、ちょっと!何してるんだ!!」
「――バカ……」
少しだけ――
ほんの少しだけでいいので、俺という間抜けな男の心中を察して欲しい。
その、緑色の方の相手に捺印させるまで、どれ程の時間と労力をかけたか――
いや、勿論、当然、最初の俺の決断からして間違っていたのだから全て身から出た錆なのだと、それは認める。
だが――目の前でそれを粉々に引き千切られ、揚句こちらの署名・捺印を済ませた茶色の方まで引き裂かれては……
どれ程思慮深い男であろうと多少なりとも憤慨しようというものだ。
ばん、と机の上に片手を置いて――粉々の紙が舞い散った――もう片方の手で掴んだグラスの水を、マヤは思いっきりぶちまけた。
瞬き一つしない俺の前髪から鼻先まで、冷たい氷と水が滴をつくる。
「冷血漢は改めます――あなたって人は、ただのバカです」
「……それは十分わかってる。だがそのバカの言うなりになってもらうぞ」
「この三年間――あたしが、どれだけ苦しんできたか……わかってますよね、速水さん?
当てこすったりとかしてるんじゃないんです、あたしはあなたの為に、あなたの幸せだけを願って――それで、身を引いたつもりでした。
けどあなたって人は……あたしの気持ちがどうしようもないって知って、それであたしを振り回した。こんな事言いたくないけど――
あたし、この三年間すっごい泣いたし、きつかった。
あなたに会ってる時は本当に幸せだったけど……けど、名前も知らない紫の薔薇の人に見まもられていた時代と、
あなたの身勝手な愛情に振り回されてたこの三年間と、どちらの方が幸せだったと思うか、答えてみてくれませんか?」
「マヤ――」
目の前のこの女は――
昔も今も、ただ一人愛し続けてきたこの女は、いつだって俺の憧憬と驚嘆の頂点に立つ。
慈しむべき、庇護すべき「ちびちゃん」でありながら――何もかもを知り尽くしたと思ったその瞬間、
あっという間にそんな俺を手放し、未知の領域へと飛び立ってしまうのだ。
それは今まで、芝居という世界に於いてのみみられた現象で――
その才能に震えながら、少しばかり切なさを抱きながら、それでも、舞台を降りた彼女は完全に俺だけのものだという自負があった、だがしかし。
この、目の前で俺を燃える眼で射抜くこの女は――一体誰だろう?
憎しみでも軽蔑でもなく、淡々と真実を抉り出し、突きだして見せるこの女の意図は。
「わかってる……酷く身勝手だと思ってる。だが――」
「わかってません、全然。
結婚したら全部解決、なんですか?
あなたのいうとおり、あたしはあなたを愛してます――あなたも、きっと。
けどそれで幸せになれるなんて――本気で思ってるんですか?」
「俺は君さえいれば――結婚も、どうだっていい、実際はな!
だがどうすればいいんだ――?何か形で示す事もできない、言葉も約束も曖昧、ああ、全部俺が悪いってのは十分わかってるが――
じゃあ、一体……バカだからわからん、わかるように教えてくれ」
「……死ねばいいんですよ」
――その瞬間の俺の顔は。
多分、ソファ一枚隔てた向こうで聞き耳を立てているらしい女子高生の唖然とした顔から推察するに、かなり笑える顔をしていたのは間違いない。
彼女の――マヤの口から、死ね、とは。
遠い遠い、それこそ遥か昔に一度だけ、本気で投げつけられて以来、さしもの彼女も決して口にする事のなかったその台詞。
マヤは、何を驚いているの、と言わんばかりに、落ち着いた口調で二度言った。
「死んでください、今、ここで」
「――どうやって。そのグラスを砕いて手首でも切ったら気が済むのか」
「そんな面倒なコトしなくていいです――薬、用意しましたから」
淡々とした口調でそういって、彼女が取り出したもの。
小さな、香水瓶くらいに小さな瓶に詰まった、琥珀色の液体。
この馬鹿馬鹿しくも切ない会話の狭間に、恐る恐る注文を取りに来て、カップを置くなり脱兎のように駆け出して行ったウエイトレス――
が、置いて行った、冷めきった二つのコーヒーカップを、マヤはすっとテーブルの中央に寄せた。
少し眉根を寄せたその顔。
最近、急激に体重の減った彼女――芝居の稽古の間も、徐々に情緒不安定な様子が見受けられ――
だがそれは俺との関係に苦しんでいるからだと、だからこそ一刻も早く“解決”せねばと、俺も必死で――いや、俺の事はどうでもいいのだ。
彼女だ、今の彼女の状態を見ろ。
一体マヤは――俺に何を求めてる?
「今度のあたしのお芝居、どんな役か知ってますか?」
「ああ、大正時代を代表する作詞家、西條八十の『女妖記』。
自殺の道連れに西條を呼び出して毒を盛ろうとするストーカーの女の話だ」
「そう――あたしね、初め全然わかんなかったんです。
自分とほとんど何の関係もない人を、どうして自殺の道連れなんかにできるのかなって。
たぶんね、彼女は寂しかったんだろうなって思うんです、そんなに西條の事を思いつめてたわけでも何でもなくて、ただの気紛れで――
ただ、一人死ぬのが怖かった、それだけ。
人って、たったそれだけの理由で人を殺そうと思えるんですね」
す、っとマヤの指先が伸びて、俺の右手の人差し指に触れる。
その瞬間、痺れるような――まるでそこに小さな傷口でもあって、彼女がそこから強い毒を流し込んででもいるような――錯覚が起こる。
「だからあたしも思ったんです。あなたの事を愛してる――けど、それだけじゃ幸せになれないって思う自分がいる。
どうしたらいいのか、あたしにだってわからない、勿論あなたにだって。
この気持ちを抱えたまま生きるには――あなたを愛し続けながら一人で生きるにはちょっと、キツいんです、これ以上は……もう。だから――」
「要するに、心中しろ、という訳だな」
「――して、くれるんですか?」
「バカはやはり君の領分だな。今更俺がその程度で怯むとでも思ったか?
離婚、結婚でこの先の紆余曲折の人生を分かち合う方がどれだけ面白いかと思うが――
まあ、君に生きる気力がなく、俺に叱咤激励以外の道も与えてやらぬというなら、いいだろう、死んでやる。さっさとその怪しい薬を寄越せ」
「ち……ちょっと、速水さん、軽い!」
「今更軽いも重いもあるか。ちょっと君、水持ってきて」
もしやとんでもない修羅場では、と興味半分、恐怖半分で辺りをうろうろしているウエイトレスを掴まえて、新しい水のグラスを要求した。
マヤはぽかんと呆気にとられた顔で俺を見つめている。
「分量は公平に半々だぞ、1、2、3で同時に飲む事。
ああ――ちょっと御嬢さん、さっきから聞き耳立ててるんなら立会人になってくれ」
「は……え?」
マヤの背中でぎょっと身を竦めた眼鏡の女の子。
が、指一本でビクッと立ち上がったかと思うと、恐々、俺たちのテーブルの横に寄ってくる。
今や店内の全ての視線が俺たちに集中している様だった。
「俺たちは今、ここで同時に心中する――どっちもズルがないよう、見張っててくれ。
少しでも吐いたり、飲んだフリして誤魔化すのはナシだ。
どっちかが先に死んだ場合はさておき、もし運よく二人同時に謎の死を遂げた場合は……
君が立会人としてこの場で俺たちが毒をあおった事を証明してくれ――その必要があればな。
じゃあマヤ、君のカップに半分、俺のに半分――入れたぞ」
「ほんとの、本気で飲むつもりですか?それ、トイレの水だったりしたらどうするつもりですか!?」
「知るか――じゃあ、1、2の、3」
俺があおると同時に――
慌てたマヤも同時にカップに口を付け……
そして、二人同時に、盛大に噴いた。
飛び出した街中は、キンキンと耳が痛む位に冷え切っていた。
空は澄み切っていて――珍しく、小さな星まで見えるくらいだった。
あたしは――未だムカムカする口の中をどうにかしたくて、でも流石に隣に速水さんがいる状況でツバを吐く、
なんて行為はできなかったから、ひたすら頭の中で冷たい水の事を考えていた。
そしてそんなあたしの考えなんて、いつだってすぐにお見通しなのだ――この人は。
「……ありがとうございます」
ガンガンに冷えたペットボトルを直に持たない様、慎重に気を付けて。
あたしは手首をひっこめたコートの裾で蓋を開けると、必死で口を付けた。
3分の1程開けた所で、ちょっとだけ目の上にかざしてみる。
速水さんは無言でそれを受け取ると、ほとんど底まで空にした。
魔女と、魔女の弟子が作った毒薬は――それまでのシリアスな気分なんて一発で噴き飛んでしまう程の、恐ろしい破壊力があった。
勿論、あたしは真剣に速水さんを「殺そう」としたつもりだった。
速水さんがなんだかんだでそれに付き合ってくれることも、承知の上で。
紫織さんと離婚する事も、あたしと結婚すると言ってくれた事も――
決して、「嬉しい」わけじゃなかったけど、でもそうしなければ、という彼の気持ちは、何か目に見える形であたしに「幸せ」を届けたいという気持ちは痛い程にわかっていた。
「愛している」と何度となく囁かれたけれど、その言葉だけで、気持ちだけで、満たされない心の隙間がどんどん大きくなってゆくあたしを――
どうしたらいいかわからないと、胸を痛めながらそれでも見つめてくれたのは……
やはり、彼しかいなかったからだ。
冷たく乾燥した大きな掌が、同じように冷たく、ひび割れそうなあたしの右手を包み込む。
触れ合った瞬間だけ仄かに温かい――その温もりが欲しくて、思わずぎゅっと握りしめてしまう。
指と指の間に絡めて、親指の付け根の膨らみを擦って、甲の上に浮き出た血管を辿って。
あてもなく夜の街を歩きながら、ほんの僅かな温もりを奪い合うようなその時間が――
今は何よりも心地良くて――
「おい……寝るな。今夜は相当疲れてるんだぞ――
いい加減にしろ、とキレても文句言うなよ、毒殺魔」
「あたしだって――疲れたよ、いっぱい……考えすぎて、もう考えたくない……」
よろ、っともたれかかった頭を肩で押し返しながら、繋いだ掌がするりと離れる。
その代わりに、いとも自然に、腰に腕が回って、引き寄せられる。
その身体に全部委ねてしまえばどれ程楽かって――わかってるのに。
どうしてあたしはいつも、変なところで身構えてしまうんだろう……
本当の幸せがどんなものかも知らないくせに、変に理想ばかり高いんだろうか。
ただこうやって傍にいるだけでいいって、心の底から願える瞬間はいつだって手に入るのに。
「俺も君も、恐ろしく我侭、だよな」
「え――?」
ぼんやりと見上げたそこに、見慣れた角度の先に、綺麗な顔が真っ直ぐあたしを見つめている。
「ただこうやって一緒にいて、奇跡的にお互い好きでいられてる。
のに――満足できなくて、もっともっと欲しくなって……いつも遠回り、だ」
ぎゅ、っと涙が浮かびそうになるのを必死で堪える。
そんなあたしの頭ごと、速水さんの胸が包み込んでくる。
あっという間に圧倒されて、覆い尽くされて、あれだけ軋んでいた胸の隙間がみるみるうちに満たされてゆく――
こんな単純で、わかり易くて、いいんだろうか。
「ごめん――三年間、辛い想いばかりさせた。
どんな形で君のその隙間を埋めたらいいか……まだわからない。
本当に死ね、というならいつでも死ねる、けど。
けど俺はまだ君の演じる姿を見ていたいし……君の突拍子もない企みにまんまと嵌ってみたいし、
君と一緒に――いつまでもいたい。
死ぬ、ギリギリ手前までは、絶対に離すつもりはない。
死後、があるならその先も。だから――もうちょっとだけ、傍に居てくれ、お願いだから」
「――それで、ハッピーエンド?」
「……終わりにしたいのか?」
「ううん――もうちょっとだけ……」
だから、もうちょっとだけ、抱き合う事にした。
お互い、この季節にしては大分薄着の方だったけど――それでも、身に纏う衣服や、いろいろなものが邪魔だな、って少し苛立ちながら、
もっともっと、不確かな身体の在り処を確かめるために、きつく、ずっと。
それからようやく思い出したように顔を上げた。
夕方、あたしが切ってしまった唇が少しだけ青くなっている。
その唇が開いて、もう今日何度目かの台詞を、飽きることなく、少しのブレもなく、彼は呟いた。
あたしも――今度こそ、迷いなくそれを受け止め……
舌先から喉の奥、お腹の底まで、二度と吐き出さないようにしっかりと飲みこんだ。
苦い、毒交じりの――
甘い甘い、愛の言葉を。
あれから――五年の月日が流れた。
あの時の彼女と、あまり変わらない歳になった私は。
無事受験を乗り越え、人並みの女子大生生活を送り、目下就活に明け暮れている。
その間、そこそこに恋をして、そこそこに凹み、まあそれなりに、「オトナ」になった。
あの夜、まるで舞台の上のお芝居みたいに目の前で繰り広げられた、どこかおかしな、でもちょっぴり切ない「心中劇」は、勿論いつまでも記憶の中に残ってはいたけれど……
でもそれも、信じられない事に月日と共に段々と薄れてゆき、思い出すこともほとんどなくなっていった。
勿論、彼女は女優として更なる飛躍を遂げ――
去年の暮れには何やら世界的に有名な監督の映画に出演、世間の話題を集めている。
そうそう、あの「王子」とはあの騒動のすぐ後に結婚したのだ、そこまでは私も芸能ニュースを追いかけていた。
だけどそれが「王子」と女の子の「ハッピーエンド」ではない事は、あの夜のやり取りを見ていた私には何となくわかる。
彼らは今も必死で、傍から見ればとんでもない遠回りと行き違いを繰り返しながら、それでも共にある道を探し続けてゆくんだろう。
殺したい程好き――な人に、巡り合うのが幸せな事なのかどうか、今も私にはわからない。
碌な恋愛なんてしてないんだろ、お子様が、って。
碌な人付き合いもできない癖に、最近ようやく定職に就いた兄貴はそうやって私を笑う。
そんな人に巡り合う人生もある――巡り合わない人生もある、きっと。
それはそれで精一杯生きるしかないじゃない?
寂しいだけで人を殺してみようと思える程、夢に溢れた女の子じゃないもんね、私は。
だけど――
狂ったような夏が過ぎ、草木が紅葉してからゆっくりと朽ちてゆく――あの季節になると。
冷たい風、どんよりと曇った空、公園のベンチで一人膝を折ってうつむく黒髪の彼女……
その幻影は、全てを掻き乱すあの風の音と共に、今も鮮やかに私の瞼の裏に浮かぶのだ。
END.
うあ〜 丑三つ時UPの予定が…え、この時点で5時50分ですと…
昨夜は酔っ払いの戯言にお付き合いくださり(コメ欄でw)ありがとうございました!○○○様!○○様!そして飴色の極太様!!
お蔭様で楽しく…あれ…ボトルが空っぽ…おなかちゃぷちゃぷ、愉しく書かせて頂きました^^
後で読み返してビックリ――しそうですが、まあいいや!っというわけで『毒薬』、完結でございます(笑)
last updated/11/03/23