第1話


カーテンコールの後のことはいつも曖昧だ。 頬は熱く、頭の奥がじんわり痺れて、指先は凍ったように冷たい。 誰に何を話しかけられても上の空で、 「舞台」が終わったこと、「役」がもうここにはいないこと、 「わたし」は「北島マヤ」であるということ・・・何もかもが遠く曖昧で、 やり場のない哀しみと同時に沸き起こる充足感、 そして新たな現実感が徐々に足の裏から立ち上るのを、どこか不思議な面持ちで見つめている。 そんな時の彼女に出合った人は皆――一様に戸惑いを隠せない。 あれが? あの子があの役の? 嘘みたい、 ああしてると全然わかんない。 ・・・そんな囁きは勿論彼女に届かない。 さっきまで立っていた、暗闇の中の光の世界に幕が降りると。 そこは突然、まばゆすぎる照明に溶け込み、非日常は日常へとうつろい、 興奮の名残だけが空っぽの観客席の隙間に漂っている。 そのゆっくりとした変化を感じながら、少しずつ「わたし」に戻ってゆく。 わたしは、北島マヤ。 女優の、北島マヤです。 大きく息を吐いて、深く自分を確認すると、それからようやく腰を上げた。 メーキャップを落としきらないままで外に出てしまったり、 芝居と同じ調子で共演者に声をかけてしまったり・・・etc、etc。 「役」が抜けきれないままにしでかした失敗は数え上げればキリがない。 こうして舞台が終わった後に、人目につかないところで 静かに感覚を取り戻す習慣がついてしまったのは自然なことだった。 『ふたりの王女』千秋楽。 公演中は劇場の中も外も大変な騒ぎだったのだが、今日はまた一段と凄かった。 何度となく繰り返されるカーテンコールに、 舞台裏にまで押し寄せるファンの歓声、スタッフの叫び声、駆けつける報道陣、光の洪水・・・ 狂ったような喧騒の中、アルディスの微笑みを浮かべたままでマヤは人から人へと流され、 引っ張られ、こづきまわされ、賞賛と驚嘆の声に包まれながら・・・ ようやく最後にここに辿り着いたのだ。 舞台裏から上手の袖に出る。 そして観客席横のスピーカーと壁の隙間に身体を押し込めて、誰にも見つからぬようにじっと。 と、ポケットの中でさっきから携帯電話の振動が続いていることに気づく。 液晶画面を確認してあわてて出ると、何やら騒がしい所から もっと慌てた馴染みのスタッフの声が飛び込んできた。 「もしもし、マヤちゃん?」 「安藤さん!ごめんなさい、今気づいて・・・」 「もう、どこにいるのよ〜!打ち上げ行くからって、みんな探して」 と、ふいに安藤の声が途切れる。 ざわついた背景の向こうから、よく通る涼やかな声がとびこんできた。 「せっかく可能性が見つかりそうだってのに、  付き合いくらいちゃんとこなせよ、チビちゃん」 「・・・速水さん!」 すまない、ちょっと貸してくれ、 と真澄が安藤に向かってかけた声がさらに遠くなる。 向こうの周囲が騒がしいのに加えて、今マヤがいるのは劇場内だ。 電波の具合と声の通りは甚だよろしくない。 マヤは文字通り飛び上がり、奇妙に跳ね上がる鼓動と同じリズムで駆け出した。 重い扉を開いてロビーに出ると、一瞬ドキリとするほど鮮やかな声が再び耳をくすぐる。 「今日は、ラク日なのに・・・行けなくてすまなかったな」 最初のからかうような調子は一転、 心底申し訳ない、というよりも悔しさの滲むような声で呟く。 「そんなこと、全然だいじょぶですよっ  毎日・・・ものすごい沢山、バラの花、贈ってもらったし・・・  今日もほんとに、ありがとうございました!」 しどろもどろになりながら、 多分スタッフ達のいるのは広いこの建物の出入り口のどこかで、 そしてそこには真澄もいるはずで・・・ときょろきょろ辺りを見回しながら走る。 ロビーにはまだ数人の関係者が残っており、皆のいそうな場所を身振り手振りで聞き出した。 多分南口あたりです、と指差さされた方向に向かって必死で走る。 劇場の外へと繋がる最後の扉を肩でこじあけて飛び出す。 「全然大丈夫か、俺が来なくても?」 そんな様子が目に浮かぶのか、真澄は小さく笑いながらも 少々面白くなさそうな調子で応えてみせる。 マヤは慌てて声を詰まらせながら叫んだ。 白い息が、一歩足を踏み出すごとに口の端に消えてゆく。 「え、その、ち、ちがいますよっ  速水さんだって・・・忙しいんだし」 「そんなに急がなくていい、転ぶぞ」 「だいじょ・・・きゃっ」 「馬鹿、」 ほらみろ、という声が濡れた地面の上を滑ってゆく。 どんより曇った空からはまたちらほらと雪が降ってくるのが、ぼんやりと見えた。 いや、雪というよりは・・・みぞれのようだ。 マヤは涙目で起き上がり、どうしていっつもこうなんだろ、 と小声で自分に悪態をつきながら、慌てて落とした携帯電話を拾い上げた。 ・・・電源が切れている。 ふと顔を上げると、目指す場所に数台の車が止まり、人が集まっているのが見えた。 その端に突き出した背の高い影――も、こちらに気づいたようだ。 マヤは息を整えながら、汚れた服の端を掌で擦り、小走りで進んだ。 隣の影に携帯電話を返し、速水真澄が大股でこちらに向かってくる。 「怪我はないか?」 「だ、大丈夫です・・・」 また同じこと言ってる、他に何かあるでしょ、 と頭の中で自分自身に突っ込みながら、恐る恐る見上げてみた。 初日――初めて、初めて「あの人」として招待することのできた、 そして彼として手を叩き、花束を贈ってくれた・・・ 「よくやったな」 と、そう、今と同じ声で言ってくれた、その人の顔を。 返答に詰まって薄く笑顔を浮かべてみると、 「また同じ台詞だって顔するなよ」 「え?」 「いや・・・」 自分の睫の先にとまった氷の粒を指先で払いのける。 そんな何気ない仕草が、淡い照明の下で浮かび上がるこの人にかかると・・・ ゾクリとする程に完璧な仕草に見えてしまうのだ。 この、速水真澄という、得体の知れない男は。 どうか赤面しませんように、と念じながら、なるべく何気なさを装いつつ、 マヤは自分の肩のはるか上から覗き込むその瞳を見つめ返した。 ふと、公演中は何とか思い出さないようにしていた―― それでも絶対に消し去ることのできない、いつかの夜の記憶が蘇る。 (あなたが、紫の薔薇の人ですか・・・?) なんて恐ろしい瞬間だったことだろう。 そう、怖くてたまらなかった。 何と応えるのか、またいつものように笑ってはぐらかされるのか、それとも・・・ だけど、そして遂にその人は認めたのだ。 (そうだ) ・・・と、一言で。 その一言で・・・何もかもが、全く違ってしまったのだ。 信じるものも、愛するものも、目指すものも、何もかもが急に色を変えたのだ。 ああ、そして、そして・・・ 背後で、一体あの速水真澄が北島マヤと何を話しているのか、 と好奇心に溢れた視線が飛びかうのを目の端でとらえる。 「・・・もしかして速水さんも打ち上げに?」 「まさか、俺は無関係者だよ。  これからまた・・・このとおり、行くべき場所に行かなきゃならない」 成る程、コートの下からはスーツではなく、 真っ白なカラーに漆黒の夜会服が覗いている。 「カーテンコールには間に合うかと思ったんだが。  滅多に拝めないお姫様を拝める最後のチャンスだったのに」 「ちょっと・・・なんか馬鹿にしてるような気が」 「とんでもない、素晴らしい化けっぷりだ、初日も言っただろ」 何と抗議しようか、と考え込んだ隙に、 真澄はするりとコートの下に手を差し入れた。 一瞬、「あの花」かとマヤの体が強張る。 だが取り出したのは一枚の薄い封筒だった。 「後で開けて、気が向いたら来い。  だが熱烈なファンとしては・・・すっぽかされたら多分傷つくな」 小さく呟くなり、背後からは窺えないほど素早い動作で マヤのピーコートのポケットにそれを差し入れ、くるりと振り返った。 何かと問い返す間もなく、そのままスタスタと歩く後ろ姿を慌てて追いかける。 スタッフたちも我に返ったように、突然現れた大手芸能プロダクション社長に挨拶を繰り返し、 その何人かと軽く握手を交わしてから、真澄はそこにとめてあるテールランプが点いたままのレクサスに滑り込んだ。 運転席には水城の姿が窺え、軽くマヤに向かって会釈したようだったが、 車はすぐに音もなく発車し、街の光に流れて消えてゆく。 その一連の様子をぼんやりと見つめながら、 すぐに現れ、消えてしまうのはいかにも真澄らしいのだが・・・ あれが、あの人こそが「紫の薔薇の人」なのだという実感はやっぱりどうしても湧かなくて、 手持ち無沙汰な感情の行き場を求めるように、マヤはただ立ち尽くしている。 あの夜のことは・・・もしかして、夢だったのではないだろうか。 夢は時に、全く思いもよらない登場人物が全く想像もつかない言葉で主人公を戸惑わせることがあるではないか。 ああ、その方がどれだけ現実感があることだろう? 全ては何かの冗談だった。 速水真澄が、北島マヤのファンであるはずがなかった。 だって彼は自分を嫌っているはずだった、誰よりも『紅天女』を欲しているはずだった。 ――だが、ポケットの中には確かに何かが収められている。 そしてさっきの呟きも覚えている。 ――熱烈なファンとしては・・・って、嘘みたいな、あの声で。 「・・・マヤちゃん、マヤちゃんってば」 「あっ、安藤さん・・・ゴメンなさい、遅れちゃって」 「ううん、でも大丈夫?」 辺りは妙な緊張感から解き放たれた安堵感と、 ようやく姿を現した主役の片割れに喜びのさざめきを交わしながら、次々と車内に乗り込んだ。 マヤもその流れにのって大きなバンの後部座席に乗り込む。 出発してから、マヤは話の続きを安藤に求めた。 「大丈夫って、何がですか?」 「速水社長よ、さっき何か言われてたでしょ。  やっぱり、早速オファー?」 「えっと・・・」 小さな女優・北島マヤと大都芸能、というよりは 大都芸能の速水真澄との「確執」は芸能界では公然の事実だ。 だが一度はこの世界から追放を余儀なくされたマヤが こうして『ふたりの王女』で奇跡の復活を果たした事実は、 芝居の成功は元より、初日からこの千秋楽まで欠かさず贈られ続けてきた「速水真澄の花束」が十分に知らしめている。 「再契約の話なんでしょ?一度くらいのスキャンダルは・・・ああ、ゴメンね。」 「ううん、いんです」 「うん、それくらいは今のあなたの価値には響かないってことかしら。  花束もスゴかったし。あんなの初めてよ。よかったじゃない、マヤちゃん」 「はあ・・・」 マヤは曖昧に首を振ってみせる。 安藤はそれを戸惑いと不審と受け取り、小さな声で続けた。 「イロイロあるとは思うけど、でも受け入れとく方がいいと思うわよ。  何ってたって大都だもの・・・そりゃ前みたいな路線で売り出すわけにはいかないでしょうけど。  女優として再出発するなら事務所の力はどうしたってね」 今まで自分が見聞きしてきた様々な俳優・女優の挫折とサクセスストーリーを とうとうとおしゃべりする安藤に適当に相槌を打ちながら、 マヤはポケットの中に指を入れ、封筒の端を触り続けていた。 一体何だろうか、開けて、必ず来いとは・・・? そして、冷たい車窓にはっきりと映りこんだ顔を空ろに見つめ返しながら、 ようやく自分が物足りない気分でいる事に気づくのだった。 そう、何かが足りなかった。 「よくやったな」、でもない、いつもの他愛無い喧嘩でもない。 あの人の言葉は勿論いつだって心を騒がせる・・・けれど。 違う、ほんの些細なことかもしれないけれど、とても大切なこと。 紫の薔薇だ・・・ 紫の薔薇を、わたしは待っている。 それがこないから、どこか物足りない気分でいる。 薔薇ならそれこそ山のように贈られてきた。 それも「速水真澄」として。 それはつまり、正体を認めた今となっては 「紫の薔薇の人」その人からの薔薇であることに変わりはないはずで、 だけどあの花束の中には・・・紅や白、黄色にピンクと、 色も種類も様々の薔薇が贈られてきたけれど・・・ どうしたことか、一輪だって「あの紫の薔薇」は見つからなかったのだ。 自分が少なからず失望しているのもわかっている。 同時に、無理もないような気もする。 北島マヤを援助し続け、紫の薔薇を贈り続ける人物がいることは 一部の関係者の間では知られていることでもあるし、 それが大都芸能の速水真澄から贈られたとなっては、 真澄の立場を考えると慎重にならざるを得ないのかもしれない、かもしれない、けれど。 (もう、速水さんの・・・ばかっ) 自分でもよくわからない感情に人知れず赤くなり、 それを打ち消すように心の中で叫んでみた。 指先の封筒の中身を、見ないままで破り捨てたいような・・・ そんなつもりは微塵もないくせに、そんな想像までしてみた。 ふと、もっと彼方においやっていた記憶がまた蘇った。 ――俺は君のファンだ ――君への薔薇だけが、俺の真実だ。 ――マヤ、俺を支配しろ・・・ 支配・・・? 何のこと? スキか、キライかって、そんなことも言ってた。 けど、わかんない、そんなの知らない。 じゃあ、どうして紫の薔薇はこないの? どんな贈り物よりも、どんな言葉よりも、 ただあなたから渡される紫の薔薇だけを待っているって、 どうしてそんなこともわかんないの・・・? 私の、ファンだっていうなら。 花びら一枚だっていいから、あの薔薇が欲しいのに。 ふうっ、と溜息をついて。 それから、この悩みは欲張りなものなのか、紫の薔薇の人への甘えなのか、 はたまたその人が速水真澄であったことへの戸惑いがなせるものなのか、 わからないままにマヤはもう一度心の中で叫んだ。 (ばか、もう、ホントに・・・ばかっ!!) その勢いでつい唇を噛んでしまい、顔をしかめた拍子に車が急停車したので、 思いっきり窓に鼻の頭をぶつけてしまった。 それを見た車内のメンバーからはマヤちゃんのいつものアレだ、と大笑いされたのだが・・・ 周りに合わせて笑ってみせながら、ちっとも落ち着かないのだった。 ただ、一刻も早くポケットの中身を確かめたくて、 早く目的地につくことだけ考えている。 今夜は・・・今夜中に部屋に帰ることはできるだろうか。 そして少しだけでいいから。 真澄のことを、紫の薔薇のことを考える時間は・・・あるのだろうか? web拍手 by FC2

レクサス。懐かしささえ感じます、なんでレクサスなのかって・・・本作連載してた2005年当時、高級ハイブリッドカーってことでしょっちゅうCMやってたから。
そして実は隠れファンのレオ様(笑)御用達カーだから、だったはず!でもレクサスのCMには出てないんですよねレオ〜
んじゃプリウスかな、と思ったんだけどプリウスには近頃の痛い失恋の想い出しかないのでアウト〜( ´∀`)
ま、免許とって1ヶ月未満の分際ですのでクルマのことなどサッパリわからんのですが、皆様社長にはどんな車がお似合いだと思います??
毛皮が似合いそうなやつかな、やっぱ??(笑
last updated/11/02/25         

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