第10話

 


パタパタパタ……と、どこか長閑な機械音が小さく響いている。
昨夜から上空でホバリングするヘリの音――煩い程ではないが、一体何事だろうか……とぼんやり目覚めながら、ああ、そういえば明日から東京でAPECが開かれるのだっけ、と水城冴子は思い出した。
実は自分の会社の仕事とも関わりがないわけではない、どころか大ありなのだが、ガッツリと1週間の年休をとっている身としてはあまり考えたくない事柄だった。
だから小さく欠伸をすると、再び布団の中で丸くなった――頭の片隅では、自分の不在で物事が円滑に進まない事に苛立ちを隠しきれない上司と、それを取り巻く側近の青筋を浮かべる顔が浮かんだ――が、どうしようもない、社用携帯の電源はオフにして三日目だ。

2週間前に開かれたその上司の記者会見を機に巻き起こった騒動はちょっとしたもので、以降あらゆる方面からの取材、質問、大小細々とした対応に追われて水城の疲労はピークに達した。
元来おめでたい事、それも長年の懸案事項が何とか収まりを見せた事による安堵感や達成感の方が大きいはずで、決してそれ自体がストレスとなった訳ではないと思う。
が、並行して行われるプロジェクトの大きさ、それに伴う仕事量の増加は、1か月の激務をこなした後ということもあって彼女の体調に著しい不調をもたらした。
今週の始め、社長室に現れた水城の顔を一目見るなり、まだ浅黒いままの肌をした上司――まるで人が変わった、と誰もが口を揃えて噂するその人は鋭い声で言った。

「今すぐ年休を取れ」
「は……ありがたいことですけど、既に先週頂いておりますし」
「……今君に抜けられるのは非常に痛手ではあるが、再起不能に陥られるよりマシだ。
本当に酷い顔色だぞ、念のために医務室に行ってから帰れ」

貴方のプライベートに関する無理難題は楽しんで対応しているのでお構いなく――と軽い口調で断ろうとしたが、目の前の真澄の心から心配そうな顔をみて、ふと気が変わった。

「――本当に、大丈夫ですか?今回のプロジェクトは……彼女も多少関わってますし、あなた方の電撃入籍直後ですからいろいろと面倒な事も多いと思いますけれど」
「確かに、全ての事情を把握している君でないと完璧な対応はできないだろう――が、今はその面倒も楽しめる節があるからお構いなく」

自分の脳裏に浮かんだ言葉と寸分違わぬ口調で言い放つ真澄に、水城は思わず噴き出した。

「何だ――藪から棒に」
「いえ……わかりました。その代り、後で泣きついてこないで下さいよ、絶対に。
 それがお約束できるなら、1週間頂きます」
「わかった。何なら本当に1か月とるか?」
「まあ、怖いくらい太っ腹ですのね。それは私の結婚祝いの時にでもお願いしますわ」
「……予定は?」

僅かに眉を上げつつも、まるで仕事の話でもするかのように手帳を広げ出す男に、思いっきり嫌味な微笑をくれてやる。思った通り、真澄はさも面白そうに高笑いを始めた。手帳の裏で口元を覆って、肩を震わせて――成程、素顔の速水真澄という男は思った以上に子供っぽく、笑い上戸なのだな……と、これではマヤがしょっちゅう怒りを爆発させるのは無理もない、と水城は思った。

「ああ、それから。ハミル氏の撮影の件、その後何か連絡は来ましたか?」
「一応、取材への礼の電話は来たが、それくらいだ。
 会見に絡んで何かするかと思ったが、結局それもなかったし。
 マヤはマヤであんな調子だったし――本当にボツになったのかもな」

どこか安心した様子も見受けられるその言葉に、やっぱりマヤちゃんの素顔を世間に曝け出すのはご不満だったんですね――とからかおうとして、やめておいた。
それから軽く一礼して――そのまま年休に突入して、三日目になる。

一度目覚めた頭はなかなか眠りに落ちない。
諦めて、水城はベッドの中から身を起こした。
肉体的な疲労は二日も寝て過ごせばそれなりに解消されるものだ。
今日くらいは外に出かけるのもいいだろう――休暇とはただ寝て過ごすだけでなく、何か好きな事をこなしてストレスを発散させるのが本来の使い方のはずだ。
リビングへと歩きながら、途中でテレビのリモコンを押し、コーヒーを淹れる。
ソファに座り、たまった新聞の束をチラシと選り分けながら、ふとテレビから漏れる耳慣れた名前に反応した。

『――と、大変注目されていたP・ハミル氏の写真展が、写真集の発売日の今日、都内のギャラリーにて開催されます。今回関係者の間でも話題となっているのは、やはり日本人女優初のモデルとなった北島マヤさん――』

食い入るように見つめた画面に映るその表紙に、水城は一瞬目を瞬かせ、それからコーヒーを吹かないように含み笑いを浮かべた。

『先週、所属する大都芸能の速水社長と入籍会見を行い、何かと話題の彼女。
 これまで長年に渡る確執が取り沙汰されてきた二人ですが、写真集の中では思いがけない生き生きとした素顔が切り取られ――』

内容の一部しかテレビでは公開できない、という事で画面には数枚の画像しか現れなかった。
だが、その数枚で十分だった。
『アクトレス・モーニング』第3集には、過去最多の女優達、年齢層も国籍も活躍ジャンルも様々な彼女達の素顔が収められている。
そしてその表紙を飾るのはマヤだった。
正確には――マヤと真澄が。

モノクロの画面。
フローリングの床の上に横たわって眠る、二人の男女。
背の高い、健康的に焼けた男の、引き締まった腕が女の腰に回されている。
男の胸の中で小さく丸くなった女の姿は、まるで抱きかかえられた子猫のようで。
互いに安心しきったその顔は、恋人同士でもあり、見ようによっては親子のようにも見え。
窓から差し込む陽の光とカーテンの端が織りなす影の戯れの中に浮かび上がったその姿を一言で表現するなら、「幸せ」としか言いようがなかった。


APEC本会議が開かれるコンベンションセンターの一角。
大ホールへと至るエントランスロビーの下、星空をモチーフとしたステンドグラスを見上げつつ、激務の狭間に星の世界を漂い始めている自分に気づき、誰の悪影響なのかと真澄は苦笑を浮かべた。
明後日に閉会する会議、その晩餐レセプションで行われるイベントの全てを統括するのが大都芸能である。
正直なところ、この一大イベントを前に一か月もの休暇を取るのはかなりのハイリスクだった。
が、今まで真澄という絶対的ボスの指先一つで動いていたような会社が、彼抜きでも回るような新体制に変化してきたのは喜ばしいことだといえる。

と、背後からフランス訛りの残る英語で話しかけられ、振り返る。
一目で大物とわかるその物腰、雰囲気に周囲には僅かに緊張が走った。
一般的によく知られた顔ではないが、数多いる政府関係者、イベント関係者にはすぐわかるその人物は、フランス外務省の高級実務官、その側近中の側近にあたる男だった。
SOM会議は先日終了したばかりであるが、特に取り巻きも連れず一人で現れ、それも裏方であるはずの真澄に親しげに声をかけている。――一体何事だろうかと、周囲は興味津々の様子であった。

『髪を切ったのかい?一瞬誰だかわからなかったよ』
『ええ、あのままの姿で仕事をするにはなかなか受け入れられない国ですから、此処は』
『確かに、あの時の君と彼女ときたら――酷かった。彼女は元気かな?』
『お蔭様で。本日帯同させますので、局長には宜しくお伝え下さい』
『楽しみにしているよ、あのアコヤに会えると知ってからこの方、本来の来日目的が疑わしい程浮かれているからね、彼は』
『恐縮です。来年の今頃には再演を予定しておりますので、是非また観にいらして下さいと』
『勿論そのつもりでいるよ。彼も、私もね。
 ああ、ところでさっき知ったんだが、写真家のP・ハミルが日本に長期滞在しているらしいが、ご存知だったかな?』
『ええ、彼の妻はうちの事務所に所属していますし、よく知っていますよ。彼が何か?』
『彼とはグランゼコール時代の旧知でね。今日から日本で個展を開くらしいんだが、ちょっと時間が出来たので覗いてみようかと思っていた所なんだ。もし君に差支えなければ案内してはもらえないかと思ったんだが――難しいだろうか』

ハミルの個展の件は知っていたし、確か亜弓の名で招待券も社に届いていたはずだ。
だが、旅行中に偶然知り合った目の前の男が彼と旧知である、というのは初耳だった。
頭の中で素早くスケジュールを確認する――勿論、超過密であることはあるが、一見フランクな中年男性にしか見えないこの人物が、国際政治的にも少なからず影響を持つ要人である事を考えればコネクションは太いにこしたことはない。

『僕の方は構いませんよ、今すぐ参りますか?』
『そうだな――15分後に出よう。突然悪いね』
『いえ、危うく野宿しかけた所を救って頂いたご恩がありますから』

二人が快活に笑って別れると、その会話を目を丸くしながら聞いていた副社長が尋ねた。

「驚いた、ジュペ氏とお知り合いだったんですか、社長」
「泥と埃と排気ガスまみれで国境を彷徨っている所を拾ってもらったんだよ」
「はあ……?」
「そんなわけで、2時間程抜ける。後は任せたぞ。車を表に回しておいてくれ」

思い出し笑いを浮かべながら颯爽と歩いてゆく後姿を、副社長始め周囲の会社関係者達は首をひねりながら眺めていた。この所の速水真澄ときたら、今までの彼と同一人物かと疑う程に行動、雰囲気、何もかもが変化している。
勿論、それで才覚が鈍ったというわけではなく、的確な指示や明快な決断力は以前にも増して切れ味がある。
何よりも変わったのは、関わる人に対する視線だった。
人をビジネスにおける駒としか見ていたかった以前に比べれば、彼自身の人間的魅力は間違いなく高まっている。
それもこれもあの休暇のせいだ。
見違える程の風貌で戻って来たかと思えば、突然の入籍会見。
それも、よりによってあの、北島マヤと。
どうせ『紅天女』絡みの思惑に満ちた結婚なのだろうと、流石親子二代に渡って並々ならぬ執着だと社内では揶揄する者もいる――が、近くにいる者程強く実感しているのだ。
その『紅天女』こそが彼を変えた張本人であるのだ、と。
そして世間一般にも今日から広く知れ渡るのだろう。
出会えば年も姿も身分も関係なく、互いを求めてやまない二つの魂の姿、真実のその姿が――


END.


〜エピローグ〜


『アクトレス・モーニング』

北島マヤ掲載ページ抜粋メモ


1ページ目。
ダイニングキッチンでコーヒーを淹れる男のカットが3枚。
無造作に跳ねた長い髪、ラフな部屋着といった姿から、恐らく朝の風景であろうと思われる。
手捌きは流暢で無駄がなく、それだけで何かの写真広告に通用しそうな雰囲気。

2ページ目。
出来上がった朝食をトレーに乗せた男がリビングへと歩いてゆく。
シンプルな内装、余計なものは何もない整然とした室内。
腰を屈め、テーブルの上にトレーを置く。
その手先にクローズアップしてゆく視点。
そのすぐ前に現れる、小さな爪先。

3ページ目。
正面から引いた絵。
ソファに膝を抱えて座り込む少女――何かの本に顔を屈めているので、年齢は不明。
男はその傍に長い脚を組んで座り、コーヒーを啜っている。
時折目の端で少女の様子を伺う、何か話しかけているようにも見えるが、聞こえていない様子なのか、彼女は身動き一つしない。
男がもう一つのカップを手に取り、手渡すように差し出す。
――が、やはり反応がない。仕方なしに、男がカップに口をつける。

4ページ目。
新聞を広げながら、男は少女の様子を眺める。
相変わらず、変わりがない。
サラダの上に乗ったプチトマトを手に取り、本の向こう側に手を差し込む。
恐らく口の中に突っ込んでいるのであろう――が、やはり変化はない。
諦めたのか、男はソファから腰を上げる。
画面から一端姿を消し、再び現れた手には数個のクッション。
彼女の脇に重ねられた本を一冊手に取り、ソファの脇に寝そべって読み出す。

5ページ目。
北島マヤの横顔のアップ。
寝起きのその姿は近くで見てもやはり少女の様にしか見えない。
長い黒髪を耳にかけ、夢見るような瞳で本の世界に没頭している。
小さな唇は僅かに開き、下唇の下あたりに指をかけて、何か呟いているようにも見える。

6ページ目。
斜め上、やや高い場所からの視点。
ソファの上に蹲る女優。
その脇で読みかけの本を開いたまま、眠る男。
穏やかな光と影の織りなす模様がモノトーンの画面に踊る。
静かで満ち足りた、朝のひと時。

7ページ目。
表紙に使用された写真。
ようやく夢の世界から目覚めた彼女が、眠る彼の胸の中に戻ってゆく――

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というわけで、長々だらだら続いた『休暇』、最終話です。
なんでいきなりAPECかって……まさに昨日、うちの近所で財務省会談が行われてまして。
まさに今もずっとヘリが上空をパタパタしてるので、何となく挿入してみたエピであります。
レセプション、本当は『紅天女』の舞台公演でもありかなあ、と思ったりもしましたが。
流石に帰国後2週間、ドタバタあった中でソレは難しかろうとボツに。
大体晩餐後に披露するのにガッツリ3時間近く(予想)の舞台ってのも現実的じゃないですよねー
ちなみにリアルでは13日、中村勘三郎親子による『連獅子』が披露される予定だそうです。

金土日の具体的な過ごし方。会見の模様。ハミル氏の個展で何が起こったのか。そしてレセプションでは一体何が。
…等々はバッサリ切ってみました(面倒ともいうw
一番書きたかったのは、「ラブラブも極まった状態の男女の心理状態」でありました。
幸せな気持ちがコップの淵からあふれて毀れそうな、ギリギリの、何故か不安さえ感じてしまうような感覚。
自分と相手の事しか考えられなくて、互いによって己が刻一刻と変化してゆく、めくるめく期間。

そもそものきっかけは、やはりいつものラクガキで描いた社長……の髪の毛が異様に長くなってしまい、影をつけてみたら「どこのサーファー!?」って感じになってしまったので、それも面白かろうと無理矢理設定したグレートジャーニーが冒頭のシーンでありますが^^;
ここまでお付き合い下さり、ありがとうございました!!

last updated/10/11/07

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