第1話




私は王となってあなたという領土の
小川や町のはずれのすみずみまで
あまねく支配したいと願うのだが
実を言うとまだ地図一枚もってはいない
通いなれた道を歩いているつもりで
突然みたこともない美しい牧場に出たりすると
私は凍ったように立ちすくみ

むしろそこが砂漠であることを
心ひそかに望んだりもするのだ
支配はおろか探検すらも果たせずに
私はあなたの森に踏み迷い
やがては野垂れ死にするのかもしれぬが
そんな私のために歌われるあなたの挽歌こそ
他の誰の耳にもとどかぬものであってほしい

(「嫉妬 五つの感情・その四」/谷川俊太郎著『うつむく青年』より)


「駄目だ、この芝居は許可できない」 マヤは一瞬たじろぎ、それからまじまじと真澄を見つめた。 大都芸能の冷血社長は、緊張しながら自分を見上げている小さな専属女優に、何とも素っ気ない仕草で台本を突き返した。 自社ビルの最上階、社長室前の廊下。 深夜のこともあり、いつもは人でごった返している建物はガランとうら寂しい。 昼の間に真澄へのアポイントを何度も拒否された結果、マヤはかつての自分の常套手段を試みたのだった。 今や会社の生きる伝説ともなっている、”北島マヤの社長室突撃”だ。 「何故ですか?」 「何故も何も、自分で考えてみろ。」 「……私じゃ、役不足ですか」 「役不足の本来の意味は違うんだぞチビちゃん」 話は終わりだ、とでも言うように真澄は胸元から煙草を取り出した。 今にも社長室へと踵を返しそうなそんな態度にもマヤはひるまなかった。 「理由を教えて下さい。いくら社長だからって理由なしに命令するのは酷いと思います。」 あまりにも率直なその物言いに、真澄は思わず眩暈を起こしそうになる。 愚直といっていいほどの素直さ、それは間違いなく彼女の魅力の一つではある。 だがそんな言動が通用するほど世間は――特に芸能界という世界は甘くはないのだ。 いくら彼女だってそれくらい十分わきまえているはずなのに。 一度はスターの座に登り詰め、そしてどん底まで墜落したこの子なら。 「まったく、君という子は……よくもそんな呆れた台詞が吐けるものだな」 「わかってます、でも、速水さんだからこんなこと言えるんです」 何気なく言い放つ、と真澄には感じられたその台詞に、冷静な仮面の奥の感情が大きく動かされる。 やめろ、やめてくれ。 そんな顔で、言葉で、俺を惑わせるな。 「紅天女」のその声で。 「……いちいち手取り足取り説明しないとわからないのか?なら教えてやろう。  『紅天女』の後なんだぞ!?日本中が君の次の動向に注目してる。  姫川亜弓に”勝った”あの奇跡の女優の、北島マヤの次の舞台は何だ、と。  間違いなく今君は人生で最も重要な岐路に立っている、それ位わかるだろう?」 「ええ」 「なら話が早い。この芝居はあまりにもリスキーだ。  『紅天女』で確立した君のイメージとあまりにもかけ離れすぎる。  『紅天女』で君の世界に浸った観客、ファン達には酷といってもいい」 「紫のバラの人も、そう思うと思いますか?」 「何?」 紫のバラの人。 他ならぬ自分自身が創り出した架空の存在が、今やこの子と自分の運命に複雑に絡みついている。 ただ一つの強い絆であることだけは確かだけれど、その想いは二人の間でこうもすれ違っているというのに。 彼女は紫のバラの人に恋している。 姿形も知らない、どこの誰とも知らぬ影のファンのことを、いつの頃からか心から愛しているという。 その想いが強ければ強いほどに、真澄は出口のない袋小路に追い詰められてゆく。 自分の想いを伝えることすら叶わない、重い現実の中で。 彼女が純粋に紫の影を追えば追うほど、身が切り刻まれるような気持ちになるのだ。 「……それは、君の熱心なファン自身に聞かないとわからないからね。  俺から軽々しくどうこうは言えないさ」 「――私、どうしてもこのお芝居が演りたいんです。  確かに、『紅天女』の阿古夜とは全然違う役だし、正直理解できない部分もたくさんあって……  でも、今の私には必要な役なんじゃないかって、そんな気がするんです。  今この役をやらないと、きっと私、後悔する」 「馬鹿な……君にはまだ早い」 「まだ早い?何故ですか?」 「話は終わりだ、もういい。兎に角許可はできん、それだけだ」 「待って、わからない、速水さん逃げてます!!」 立ち去りかけた真澄の腕を、マヤは両手で掴んで引き止めた。 瞬間、真澄の中で何かが崩れた。 被りつづけた仮面が、もはや限界を訴えて剥がれ始める。 いや、あの試演の『紅天女』を観た瞬間から、崩壊の兆しはあったのだ。 こうなることは時間の問題だった。 あんなものを観せられたら――誰だって正気でいられるはずがない。 かつて『紅天女』が義父の人生を狂わせたように、今再び蘇った『紅天女』が自分を狂わせてゆく。 「……わかった、正直に言おう」 真澄はゆっくりとマヤの腕を振りほどき、向き直った。 「俺は、君が、『紅天女』の君が、その芝居に出るのが個人的に我慢ならない。  君の上司として、社長としての立場からじゃない。俺自身が嫌、それだけだ」 マヤは全身全霊で真澄に集中する。 決して本心を明かすことのないこの不思議な男の、言葉の奥の本心を、何としても逃すまいと。 だからこそ、その言葉に込められた真実の想いがマヤの心を戸惑わせる。 「……それだけの理由、なんですか?本当に?」 「それだけの理由だ。君の紫のバラの人程じゃあないが、これでも俺は君の……  君の『紅天女』の、そう、ファンといっていいだろうな。  馬鹿な一人のファンとして、俺は嫌なんだよ。君がこの芝居に出るのが」 「……」 ひと思いに言いきると、真澄は深い溜め息をついた。 これでいい。 俺なんかにファンだと言われて呆気にとられる彼女、きっと裏があるに違いないと不審の目で俺を見つめる彼女。 その視線を受け止めるだけの気力は残っていない。 今度こそこの場を立ち去らねば。 「マヤ、これだけは覚えておけ。  熱心なファンという奴はちょっとしたことで大きな敵にもなり得る。  君の『紅天女』の幻を追うファンは、きっとこの芝居に出た君を許さないだろう。  この芝居は失敗する、俺はそう確信している」 真澄は再びマヤに背を向け、社長室へと続くドアを開けた。マヤは慌てて叫ぶ。 「紫のバラの人も、そうでしょうか?  私がこの芝居に出たら、私のこと嫌いになると思いますか!?」 今度こそ、真澄は振り返らなかった。 ドアの向こうに消えてゆく長身の背中を見届けた後、マヤは胸に抱きしめた台本をじっと見つめ続けた。 web拍手 by FC2

last updated/10/11/10

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