last updated/10/10/23
「熱愛」だとか「いいお付き合い」だとか「事務所はノーコメント」だとかいう言葉が、まさか自分に向かって囁かれる日がやってくるとは、マヤは一度たりとも想像さえしたことがなかった。 そんな訳で、未だ地デジ対応されていない白百合荘のアナログテレビの向こうで、会ったこともない芸能記者とやらが唾を飛ばして自分の恋愛歴を面白可笑しく喋っているのを、まるで奇妙なお芝居を観ているような気分でマヤは眺めている。 確かにそのボードに貼られた粗い写真に写っているのは一週間程前の自分であり、隣にいるのは現在放送中のドラマの共演者だ。 元々はモデル出身の美形だが、ルックスに反して中身はかなりお笑い寄りの性格で、そのギャップが受けて現在大ブレイク中のタレントだった。 だがその隣にも後ろにも、何人かのスタッフや出演者がいたはずで、楽しく飲んで別の店に移動しようとしている、ただそれだけに過ぎない写真なのだが、なぜこんな事になってしまったのか。 どうやら自分は数日前にもその俳優の自宅マンションから朝帰りする姿を目撃されているらしい。 もしや自分に姿形のそっくりな影武者がいるのか? 本気でその可能性について考えてみる。 もしそうなら、そんなことをしそうなのはあの人――話題作りのためなら多少強引な手段も厭わないあの男――かも、と妄想しかけて、大慌てでその面影を頭から追いやった。 ちょっと待って、落ち着いてよ、北島マヤ。 こんなことで話題づくりをしたところで、何のイメージが上がるっていうの?(ドラマの視聴率?) ヒャクガイあってイチリなしってやつじゃないかしら。 大体、普通に、ごくごく普通に考えて。 こういうことをあの人が許すと思う? 一応・・・・・・仮にも、一応、コイビトと呼ばれるその人が、自分以外の相手と噂されるのを画策する、とかあり得ないんじゃない、普通は! ・・・・・・ ・・・・・・ そうでもないかも。 と、思ってしまう自分が嫌になって、マヤは「はあああ」っと長く情けない溜息を吐き、ごろりと畳の上に転がった。 大体、あの人と自分が「恋人同士」かどうかなんて、当の自分にも疑わしいのだ。 「熱愛」「いいお付き合い」「ラブラブ」、どんな言葉も全然当てはまらない。 敢えて言うなら「秘密裏に関係」というところだろうか。 関係・・・・・・そう、冷たいその二文字しか、自分とあの人との奇妙な状況を表す言葉はないような気がする。 あたしはあの人の、星の数ほどいる関係者の一人なのだ。 ――と、超弩級のネガティブ思考に陥りかけたその時。 遠くの方で小さく、鈴を転がすような音がして、ビクリと起き上がる。 部屋の中は大小様々なダンボールに溢れかえっており、ソレは荷物の森のどこかでか細く震えているのだ。 「うわ、ど、どこ!?」 慌てて探すその間にも、華麗な音楽は鳴り続ける。 着信音が”トロイメライ”であることは口が割けても言えないが、言った所で「そうか」と流されるのはわかりきっている、ので、自分だけの秘密なのだった。 やっとその薄いピンク色の金属を発見し、少々汗ばんだ指先でパチンと開く。 「もしもし」 「――寝てたな」 「ね、寝てませんよっ!ふてくされてたんです」 「何に」 「別に」 受話器の向こうで、くつくつと忍び笑いをする気配がする。 甘く痺れるようなその声が届いた瞬間、耳元からぞくぞくと鳥肌がたって、心拍数は明らかに跳ね上がった。 それを抑えて、できるだけ何気ない調子を装うのはかなりの困難が伴う。 「あと10分程で着くが、準備はできてるのか」 「荷物は全部まとめてますから大丈夫――って、え、着くって?」 「最初の荷物は君一個だろ。時間があるから、俺が直接連れていく――と、君のマネージャーには伝えてあったが、連絡なかったのか」 ちらっと液晶画面をみると、上の方に受信メールのマークを発見した。 (しまった――) 昨夜から携帯電話の存在をすっかり忘れていたことにようやく気づく。 「また携帯放り投げてたな」 「う、あ、すみません・・・・・・」 「まったく君は――携帯するから携帯電話なんだぞ。 いい加減持ち歩くとか、せめて一日一回は確認するとか、習慣をつけろ。非常識だ」 常識だぞ、といわれるより、非常識だ、と言われる方がぐっと傷つく――と思ったが、確かにそのとおりなので何も言い返せず、マヤは押し黙ってしまった。 「一応、帽子か何かで顔は隠して降りてこい。 多分その辺に記者の一人や二人張り付いてるだろうから」 「え、嘘?」 「――だから引っ越すんだろうが。信号が変わったから切るぞ」 かかってきた時と同じ唐突さで、一方的に会話は終了する。 ほら、これのどこが「恋人同士」なのだ。 どこに甘い言葉のやりとりや、暖かで親密なやりとりがあるというのだ。 とはいえ、降ってわいたような彼の声に、どうやら彼自身が迎えにくるらしいという事実に、舞い上がってしまっている自分がいるのは確かで。 そう、直接会うのは多分―― 一ヶ月か、それを少し越えたくらい。 時折会社や撮影現場等で姿を見かけることはあったけれど、いつも沢山の人に囲まれて歩く彼は、声が耳に届けばラッキーというところで、目が合ったこともなければ挨拶を交わしたこともない。 ――いや、正確には一度だけその機会があったが、直接挨拶をしたのは隣にいた監督で、自分といえばただ一緒に頭を下げて爪先だけを見つめていたのだった。 携帯を広げたまま、しばらくボーッとして、それから弾かれたように飛び上がる。 まずい、10分?とてもじゃないけど支度が……いや、彼の言うのも尤もで、支度といってもさしあたりこの身ひとつで事足りるのは確かなのだけれど。 でも、まさか彼に久々に会うというのにこの恰好で? 普段着に近いワンピース一枚に、ばさばさの髪の毛、化粧っ気のない顔。 風呂場の壁に取り付けられた腐食だらけの鏡に写る自分を見て、絶望の溜息をまた一つ。 でも、身の回りの何もかもダンボールの山の中にあるわけで、今からひっくり返して支度するなんて不可能だ。 ワイドショーで騒がれるくらいには注目を集めるようになった若手女優が、セキュリティもプライバシーもあったものじゃない築○十年の木造アパートに住みつづけるわけにはいかない、というわけで、今日マヤは新居のマンションに引っ越すことになっていた。 ちなみに、同居人の麗は一足先に彼女のマンションに越してしまっている。 荷物は午後に業者が勝手に運び込んでくれるらしいので、マヤは鍵を持ったマネージャーと共に先に新居に向かう予定だった。 「せめて帽子、ね。どこに入れてたっけ――」 気を取り直していくつかのダンボールを選り分けた挙句、目的の箱を開けて帽子を取り出す。 再びガムテープで封をして、最後の戸締りを確認しようと窓辺に立った時、カーテンの隙間からこの下町の住宅街にはまるでそぐわない車がアパートの出口に横付けされるのを発見した。 「は、早っ!」 誰にともなく呟き、覚悟を決めると、マヤは帽子を目深に被ってドアを開けた。
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