第1話


さらさらと、気持ちのいい音で目が覚めた。 こんなに、心ゆくまでぐっすりと眠ったのは久しぶりだ。 体温で心地よく温められた布団の中でぐっと丸くなり、 それから弾みをつけて半身を起こした。 隣で寝ているはずの麗の布団は、既に足元にきちんと折り畳まれている。 日曜日だが、もうバイトに出かけてしまったのだろう。 そもそも、劇団員に曜日の感覚はあまりない。 今日から、マヤにとっては久々のオフが始まる。 とはいえ、大きな事務所や劇団に属しているわけでもない、フリーの女優なのだから。 次の舞台が見つからない限り、いつまでもフリー、つまり職なしの状態だ。 大いなる自由と同時に、常に先行きの見えない不安。 それでも、芝居ができるという喜びは何物にも替えがたい。 あの速水真澄との賭けに乗るような形で挑んだ先の舞台『ふたりの王女』は、大方の予想を覆す大反響で、 ミスキャストと揶揄された「可憐なる光の王女」を見事に演じきったマヤの元には、 公演中から次の舞台のオファーが後を絶たない。 昨夜も、ある劇団から渡された台本に目を通しながらあれこれ検討しているうちに遅くなり、 泥のように眠ってしまったのは多分午前二時過ぎだっただろう。 (信じられない…ちょっと前まで立てる舞台さえなかったのに) 枕元に折り重なった台本や契約書の束を見ながら、ほっと溜息をつく。 (みんな、速水真澄との賭けに勝ったから…思いっきり、花束贈らせてやるって) 千秋楽、それこそ山のように真澄から贈られてきた花束。 他の共演者を圧倒する豪華さでもって、「あの」速水真澄からの贈り物だ。 「凄いわね、ホント。あの速水氏からこんなに…」 「再契約の話とか来てるんじゃないの?売れっ子だったもんね」 様々な関係者から好奇の目を寄せられたが、 その度に顔をしかめて否定した。 「これは単なる賭けなんです!  ちょっと、嫌味ですよここまでされたら」 …嘘だ。 確かに驚いたけれど。 「よく化けた」なんて言われた時は「ザマミロ」ってすうっとしたけれど。 「最高だった」 あんな風に、じっと見つめて言われたら。 …反則だと思う。 ああ、でも、赤くなってしまったのは何も浮かれてたとか、 嬉しかった…のかも、しれないけど…それでも。 ああいう台詞は誰にでも、女優とか俳優と名のつく人には「商品」の価値がある限り いくらでも褒めちぎるような男、それがあの速水真澄なんだから。 あんな風に花束を贈ったのも、私との賭けに半端な決着をつけるような人じゃないからで。 (…結果よければ全てよし…!!もう、いいや) 何だか自分でもよくわからない感情を追い払いうように、勢いよく起き上がる。 サラサラという音は、雨の音だった。 カーテンを開き、そっと細めに窓を開ける。 さあっと、冷たい空気が流れ込んで、火照った頬をくすぐる。 一度ひどく降って、それから小雨になったのだろう。 赤錆だらけの狭いベランダには、一センチあまりの水溜りができていて、 物干し竿にぶら下がった洗濯バサミの先からポタポタ滴り落ちる水音と、 パラパラ落ちては消えてゆく静かな雨音がアンバランスなリズムを奏でている。 暫く目を閉じてそのリズムに耳を傾けた。 そうか、いつのまにか梅雨入りしていたのだ。 数ヶ月、舞台にかかりっきりになっていると、外の世界の微妙な変化に疎くなってしまう。 この降り続く雨が止めば、夏がやってくる。 そして秋になって、その先は…その先自分はどうなっているのだろう。 ――全日本演劇大賞か、最優秀女優賞。 一年以内にとることができなければ…『紅天女』は消えてしまう。 (次の舞台が、勝負…) ほっと、大きく溜息をついて、それからぐっと背伸びした。 兎に角、焦っても仕方ない。 今日は久しぶりの休みなのだから、ゆっくりしよう。 それからまた、考えたらいい。 さっきより鮮やかに耳の中に飛び込んできた雨音を、窓を閉めて遮った。 時計は9時10分過ぎを指している。 たっぷり眠ったはずなのに、案外早めに起きたのだ。何だか得した気分になる。 (何しよっかな…) とりあえずおなかが空いたので、冷蔵庫を開けてみた…が、 生憎今日の麗はよほど急いでいたのだろう。 いつもならばマヤの分の朝食を準備して出かけてゆくのだが、 今食べられるものといえば卵が三個しかない。 「うーん…卵かけご飯だけ、ってのは流石にね…」 自分が料理をすることなどほとんどない上、不器用さにかけては自信がありすぎる。 少し憂鬱だけど、雨の日のお買い物も、まあ悪くない。 一日くらいかければ、いくら自分でも結構まともなものが作れるかもしれないし。 (よし、今日は麗に私がご飯つくったげよ) そう決めると、急いで着替え、ちっぽけなお財布を抱えて飛び出した… ところで、バッタリとある人物に出くわす。 「あ、岩間さん!」 「ああ、マヤちゃん!ちょうどよかった、あなたか青木さんしかいないのよ〜」 「はい?」 岩間、というのはこの築40年以上の超古風な木造アパートの大家であり、 隣の屋敷に住む老婦人である。 劇団員という多少素性の怪しい店子に文句ひとつ言わず、 (以前のアパートも半ば追い出されたように、この条件で部屋を貸してくれるところなどそうそうない) それどころか時折食事の差し入れに来たり、家賃の滞納にも目をつぶってくれる、 マヤと麗にとっては全く頭の上がらない人物であった。 「あら、でもどこか出かけちゃうかしら…」 「いえ、ちょっと先に買い物に行くだけですから…どうなさいました?」 「あのねえ、本当に申し訳ないんだけど…」 人の良さそうな顔をくしゃくしゃにしながら、多少オーバーな身振りを交えて彼女が言うところによると。 たったひとりの孫が、親戚の結婚式のために東京に来ている、 式のほうは昨日済ませて、今日まで東京見物をしてから帰る予定であったが、 案内をするはずの自分に急な契約の用事があり、どうしても出かけられない。 「本人はそれなら一人でって言うけど心配で… よかったら代わりに案内してくださらないかしら?」 「ええ、それはもう私でよければ…」 「今日のご予定は?」 「えーと、ないです、全然!」 「本当?じゃ、お願いしていいかしら?  ほかに頼る人が思い浮かばなくて」 「あの、でも本当に私でいいんですか?  どこに連れてって欲しいとか…」 「ああ、それはもうみんなマヤちゃんにお任せするわ!  本当に助かったわ〜有難う!」 「いえ、こちらこそ、いつもお世話になってますもの!」 矢継ぎ早に説明し、手早く了解を得たとたん、 では孫に連絡するからとバタバタときしむ廊下を走りぬけ、岩間婦人は隣へ去った。 その間、部屋を出たマヤと遭遇してから僅か5分足らず。 ――あっという間に白紙の休みに予定ができてしまった。 一瞬あっけにとられたものの、すぐに笑いがこみ上げてくる。 踊り場の窓から外を見やれば、小雨もついに止んで、 薄い雲の切れ間から朝の日差しが垣間見える。 あの大家の孫ならば、きっと明るくて楽しい子だろう。 男の子だろうか、女の子だろうか。 やはり東京タワーに行きたがったりするのだろうか…? 実は一度も上ったことがないし、自分も行ってみたい。 そういえば浅草や神田などで下町見物をしたこともなければ、原宿で買い物をしたこともない。 お台場は某テレビ局に撮影に行ったことしかないし、行ってもすぐ帰ってくる。 レインボーブリッジだってどう行くのかわからない…車?免許なんて持っているはずがないし… 「…私って、ホントに案内なんかできるかな…」 多少不安が過ぎるものの、すぐに思い直す。 自分だってもう20歳なのだ(実年齢相応に見られたためしはないが)。 相手は多分自分より年下の、東京なんて全く初めての子なんだから。 「大丈夫、大丈夫」 心の中で言い聞かせ、再び、外出用に着替えた後、隣の岩間宅を訪れた。 「えーっ、マヤちゃん、今時携帯電話持ってないの?」 「す、すみません…」 「まあいいわ、マヤちゃんの人相と今の服装伝えとくから。  東京駅の東口で11時に待ち合わせね、お願いします」 「はい、まかせてください!  えーと、あと、お孫さんのお名前は…」 「あ、そうそう。比嘉智文っていうの。 私の娘の嫁ぎ先で…沖縄の子なのよ」 「わあっ、それはまた凄い遠くから」 「そうなの。ふふ、マヤちゃん会ったら驚くかな〜多分」 「え?」 「じゃ、東京駅の東口ね。多分一目でわかると思うけど…  全身真っ黒で、背の高い子なの」 「わかりました。じゃあ、行ってきます!」 手を振って外に出る。 少し迷ったものの、また降るかもしれない、と右手には傘を持った。 念のため、鞄の中には地図を放り込んである。 雨上がりの独特の匂いがアスファルトの道路から立ち上る。 雲はだんだんと引き始め、すっかり姿を現した太陽に一瞬目を細めて、マヤは出発した。  web拍手 by FC2

2005年の梅雨時に全歴サイトにて頂いた4万ヒットキリリク作品。
ゲッターは今もステキに輝く某サイトマスター様でしたが・・・もう忘れてらっしゃるだろうなぁ;;
再開に際してご挨拶だけ申し上げたのですが、お元気でいらっしゃいますでしょうか、とこんな所で呟いてみます〜
改めて読み返すと、所々に当時の嗜好の影を見出して赤面してしまいます。「岩間さん」は元彼んちの大家さんでしたよ。ええ。
4月の東下りで当時のマンションも撮影してきましたが変わってなかったですね〜
エロとかエロ、とか特に意識してなかったこの頃の方が二次らしい二次、というかパロらしいパロを書いていたんだな〜っとしみじみ。
良くも悪くも、今こういったお話は書けませんもん! でもってここに来てオキナワンボーイですよ。まさか沖縄に戻ってコレを再録する事になるとは去年の今頃は露ほども想像してなかったなぁ・・・ああ、久々に口ずさんでしまいますよ、せーの、じ〜んせぇえって〜えええ〜ふしぎ〜なもの〜ですねぇ〜♪ (´∀`*)

    

last updated/11/06/01

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