第5話



ぐるぐると渦を描いて排水溝に流れてゆく。
その中に溶けた僅かな血の色など全くわからない、温い湯の流れをじっと見つめる。
鈍痛がマヤの腰から下を支配する、関節が軋んでうまく動かせず、怠い。
その痛みを与えた張本人は、脚の間に蹲るマヤを支えたままシャワーの水量を調節している。
やや勢いを緩めた湯が太腿の付け根に当たる。
背後から回された片腕が凹んだ腹の上を慎重に撫でてゆく。
何度となく抉り上げ、傷つけたものを愛おしむように、そっと。

「痛いか?」

「動くと……少し」

人差し指と中指がそろそろと動き、摺り寄せられた腿の隙間にこびり付いた血をこそげ落とす。そのまま隙間をこじ開けようとするのを、無意識に拒んでしまった。

「もうしないから安心しろ――洗うだけだから」

苦笑を漏らしながら、濡れたこめかみに口付ける。
そんな仕草も、甘いセリフも、つい先程までは死んでもいい位に幸せだと感じられた何もかもが、刻々と近づく別れを前にしてマヤの心を酷く痛めつける。夜が明ければ、彼は戻ってゆく。正しく認められた花嫁の元へと。
信じられないような一夜の逃亡劇は、これにて幕引き、終了だ。
舞台を降りればてんで不器用な自分にしては、上手く出来たかもしれない――やや捻くれてはいたけれど、真実の想いを伝えることが、全てを彼に捧げることが。
ほろっと、零れ落ちた涙を、背中の人に気づかれてはいけない。
必死で息を殺す。これはただシャワーの水が跳ねただけで。泣いてない。泣くわけがない。
一緒に飛び込んでくれた、それだけで十分なはずだから。
これ以上――求めらるはずがない、滅茶苦茶に、なんて心底願ってるはずがない。

「……何の涙だ?」

――なんで、そんなに淡々と聞くの?

「マヤ。今更だんまりはないぞ――何故泣くか、わかるように説明しろ」

「……いたい、から」

心も、身体も。
どこもかしこもズキズキ痛むから。
いくら撫でられても、なだめられても、その手はもうすぐ離れてゆくから。

「そうか」

何の感情も読み取れない声で呟いて。
開いた指先が全てを拭い去ってゆく。
その痛みも、汚れも、消えずに残ってくれればいいと密かに願っているなんて。
きっとあなたは気付かない、この胸の内に潜む愛憎の欲深さに、気付かれてはいけない。

カタン、とシャワーのノズルがタイルの上に滑り落ちた。
痛い程きつく抱きしめられ、息が止まりそうになる。

「っ……い、た……速水、さん?」

「マヤ――駄目だ。また……俺から離れようとしたな、今」

強引に引き上げられる。
燻りかけていた痛みが再び鋭さを増し、マヤは膝を震わせて蹲りかける。
真澄の腕はそれを許さず、マヤの両脇を抱え上げたまま浴室の壁に押し付けて立たせた。

「手を付け」

「え……あ、何――」

ゾクッと、背筋が震える。
腰骨に当たる熱く硬い昂ぶりに、抑えの利かない欲望が密やかに歓喜の声を上げる。

「う……あぁっ……いた、痛いよ――っ、はやみ、さん!」

「痛く……してるんだから、当たり前だ」

低く抑えた声に、憎しみと愛しさが危ういバランスを保っている、とマヤは思った。
壁のタイルに押し付けた掌、潰されそうな肘の間、興奮に硬く上を向き始めた胸の先――そのずっと下に、自分の小さな裸足と、真澄の大きな足が重なっている。激痛を与えながらその内の官能を毟り取る、残酷な蠢きに背中から揺すぶられ続ける。いつしか鼻に抜けるような甘酸っぱい泣き声を漏らしながら、血の涙を流している。つうっと、流れてゆく紅黒い筋が、濡れたタイルにマーブル模様を描いて消えてゆく。

痛い、痛い、痛い、痛い――

でも、好き。死ぬほど好き。好きで、好きで、大っ嫌いになる位――好き。

だけどやっぱり言えないから、それだけは。

スキ、の代わりに痛みを訴える、もっと痛くして、と甘ったれる。
彼は全部わかっている、だから片腕を引き掴んで捩じり上げる。
体重を支えられなくて沈みかけた膝を引き上げて、しつこい程に突き上げてくる。
いつの間にか血に混じり始めたおびただしい液に塗れながら、べとべとに濡れた二人の肌が間の抜けた音を立てる。立ち込める血生臭さに、痺れを伴う快感に、頭の芯まで蕩けてしまいそうだ――本当に、離れる事なんてできるんだろうか、この身が――これ程までに完璧な調和を手放して、これから先、一人で生きてゆくことなんてできるんだろうか――

「無理、だな……」

複雑な心の内をぴったり見透かしたように、真澄が呟いた。

「俺の人生を狂わせたいなら――今夜限りで終わらせるのは、間違ってる」

強引に顎を捻じ曲げられたかと思うと、深く口付けされる。

「愛してる、マヤ」

ああ――事もなげに言ってしまうなんて。
自分は「好き」でさえ、ギリギリのところで封印してきたのに。

「愛してる――もの凄く、自分勝手に。君の気持ちも幸せも思い遣れない、これからもっともっと痛めつける――だけど、止められない」

唇の端から零れた唾液を舐め上げられ、甘く囁かれているうちに、建前や常識、何とか取り戻そうとした健気な決意といった仮面がボロボロ崩れ落ちてゆくのをマヤは実感した。
痛みと歓びのままに、マヤは小刻みに顔を縦に振った。

「うん――いいよ……あたしも、それがいい」

あ、今あたし微笑ってる、と他人事のようにマヤは思った。

待ち望んでいた感覚に身を切り刻まれながら、今宵幾度目かの奈落に二人して落ちてゆく。



勿論、「その後」の事など考えての行動であったはずがない。
何だって受け入れる覚悟はあった。
一番欲しいものは強引に手に入れたのだから――愛している、という残酷な言葉と共に、たぶんこの先も。
それを失う以上の恐怖などない。
だから平然とした顔で舞い戻ってやった――一晩中、青ざめた顔で自分を待ち尽くしていたのであろう、花嫁の元に。

「お帰りなさいませ」

ゾッとする程嫋やかに微笑んでみせる、その姿に、些かの罪悪感もわかなかったとは言えない。だが、自分でもよくもここまで冷酷になれるものだと呆れながら、彼女に対する憐憫にも限界が近づいてきている事を自覚した。

「急な――お仕事だったのですね?
一言でも紫織に仰って下さればよかったのに」

「――僕の事など待たずに休んでおられればよかったのに、起きてらっしゃったんですか?」

「当然ですわ。私はあなたの妻ですから」

一瞬、殺気のようなものが柔和な顔に宿ったかと思えば、瞬く間に消え去る。
せめてその裏側を包み隠さず差し出したなら、憐み以上の何かを共有できたかもしれない。彼女の様に――愛情も憎しみも、全てを曝け出し不器用にぶつかってきたならば。自分もここまで冷徹な仮面で拒む事はないのだろうに――ああ、でも全てが遅すぎる。

「妻が夫の帰りを黙って待つ、なんて時代錯誤と思われましょうとも、私にとっては普通の事です。貴方のことを……愛していると、昨日皆様の前で誓ったこの身ですから」

白く紙の様に青ざめた顔だが、涙と隈の跡を押し隠し、しっかりと化粧を直した跡がうかがえる。
自身のマヤに対する執着と、紫織から寄せられる執着に一体何の違いがあるのだろう――と、その能面のような顔を眺めながら真澄はふと考えた。なりふり構わないのも、それを手に入れる為なら普段の自分からは思いもよらない程の行動をとるのも、呆れる程似通っている、と思う。
同じ穴の貉――という奴か。
そう思ったら、滑稽な芝居を一人で続けようとしている彼女に親近感さえわいてきた。
ならば平等にいこうではないか――本音を吐いた上で、尚俺と向き合う気概がこのお嬢様にあるのかどうか、試してみよう。
彼女に出会って初めて、積極的な好奇心を抱き、真澄は紫織に言葉をかけた。

「仕事ではありません。
個人的に、とても外せない大事な用事を済ませてきたんです」

「え?」

「既にお察しでしょう?北島マヤに会ってきたんですよ。
昨日の式での態度がおかしかったものですから――何を考えているのか、と思って」

「……嘘」

「貴女に嘘などつけませんよ、何しろ妻、ですからね、形ばかりとはいえ。
マヤに会って、彼女の気持ちを確かめてきました――案の定、相当嫌われていると判明しましたよ。同時に酷く執着されているらしいことも。僕の彼女に対する想いと同等か――もしかしたら、それ以上に。貴女には感謝すべきかもしれませんね。この結婚がなければ、彼女は俺なんかに執着してみようなんて思わなかったかもしれませんから」

紫織は僅かによろめき、喘ぎを押し殺すように胸に手を当てた。
まずい、この人は身体が弱いのだった――そんな思いが、残酷になろうと思えばいくらでもなれる真澄の脳裏をちらっと過ぎるが、その程度で倒れてもらっては困るとも思う。

「あの子に――会ってきた、ですって?私たちの……結婚式のその日に――」

「ええ。愛情深い夫の仮面をかぶり続けたまま貴女と初夜を共にする、なんてのは流石に耐えがたかったので。
この際ですから、正直に申し上げます。以前にも一度お伝えしたはずですが、あの時の貴女は聞く耳を持たれなかったようだから」

「いいえ――いいえ、聞きたくありません、何も、仰らないで――私は……」

「そうやって都合の悪い事実は全て遠ざけるおつもりですか?
僕のような人間と一生を共にしようなんて誓ったからには受けて立つべきですよ」

真澄は微笑みながら一歩前に踏み出した。
紫織はそのまま後ずさり、今まで見たこともない夫の豹変ぶりに青筋を立てる。
冷酷な男だと世間で取り沙汰されていても、その内に宿る優しさを自分だけは理解していると思っていた。その厳しさも、戦場を生き抜かなければならない企業人としては必要な資質なのだろうと曖昧に思っていた。
――だが、今その速水真澄の冷徹な笑顔が、容赦なく相手の弱点を攻め立てる言葉が、妻の尊厳を踏みにじる卑劣さを全く押し隠すことなく自分に突きたてられている。

「僕は今までも、そしてこの先も彼女に執着し続けます――貴女の事は妻として最大限に配慮して接するつもりではいますが、世間一般の夫婦としての関係を築くつもりは毛頭ありませんのでご承知下さい。また万が一、それが原因で北島の進路を阻んだり、心理的に脅迫するような行為を察知した場合、予告なしに報復しますので、あしからず。更にいえば、鷹宮との事業提携についての予定を変更するつもりもありません。少なくとも2年後には大都の傘下グループとして統括するつもりでいますが、その頃には貴女の大切なお爺様の影響力もそのご健康と同じように衰退されておられる事が予想されます。そうなれば貴女が如何に拒もうとも、僕は貴女ごと鷹宮を切り捨てるつもりでいますが――」

すらすらと淀みなく紡ぎだされるセリフの途中から、紫織の様子が変化してゆくのを真澄は訝しげに見守った。初めは驚愕、次いで猛烈な嫉妬と怒りの後に――落ち着きを取り戻したのか、爪先が白くなるほど握りしめたハンカチの皺を伸ばしながら深く息を吸い、こちらを向いた。
その真っ直ぐな視線に、受けて立つ彼女の意志の強さを感じ取り、真澄は背筋を伸ばした。
これは一種の戦いなのかもしれない。
絶対に負ける訳にはいかない、そして彼女を侮るつもりもない――徹底的に向き合ってやろう、と思う。
最初に彼女を欺いた自分への戒めとする為にも。

「2年以内に、鷹通の全てを手に入れる、ですって?
そして用済みになった私を切り捨てて――あのちっぽけな女優と一緒になる、というご算段ですか」

さもおかしい、という風に、紫織は笑った。
無理な微笑というよりも、真澄を憐れんでいるような笑みだった。

「真澄様――確かに祖父は貴方の事を気に入っておりますし、ゆくゆくはそのおつもりでしょう。貴方にその才覚がおありである事は、私も家族の者も皆存じ上げておりますわ。でも物事はそんなに簡単には進みません――貴方は何といってもまだお若いし、この結婚を加味しても、たった2年で全てを掌握するなどとは――まして祖父の健康をあてにしての曖昧な予想など、何の説得力もありませんわ。あなたはあの女優の事で頭が一杯――都合の悪い事に背を向けているのは私ではなく、貴方だとお思いにはなりませんか?」

全く、嫌になる程的を射ている、と真澄は苦笑する。
姑息な策略を巡らせるだけのお嬢様かと思いきや、とんでもない。
彼女は恐ろしく現実的で、理知的に状況を判断している。
その上で躊躇いなく選ぶのだろう、この俺と共に添い遂げる、という彼女の野望を、彼女の強い意志で。

「この事は誰にも言いませんわ――父母にも、勿論お爺様にも。せいぜい思惑通り行動なさるがいいわ。それでも、私は貴方の妻であり続けます――そうすれば貴方は絶対に私を忘れることができないでしょう?あの女優とどれだけ懇ろになろうとも、貴方がたの心の片隅にはいつも私が居ることになる――素晴らしいわ」

それだけ言うと、紫織は柔らかく微笑んだ。
いつもの、彼女らしい、上品で優しい微笑だった。

「流石にお疲れの様ですわ、真澄様――少しはお休みになられて下さいね。
今日ばかりは誰も私たちを邪魔する者はいないはずですから」

「そうでしょうね――ですが、遠慮させて頂きます。
早速ですが、思うように行動させてもらいますよ」

「お気に召すまま――いってらっしゃいませ」

軽く一礼し、去ってゆく。
その潔い後ろ姿に感嘆さえ覚えながら、真澄は閉まりゆくドアを眺めた。
その向こうで彼女が如何なる感情を抱えて蹲るか、容易く想像できそうだった。
だが戦いの火蓋は切られたのだ――自分と、マヤと、紫織と。
誰もが自らの欲望と執着のままに互いを傷つけ合い、求め合う。
最後に残る愛憎の遺骸がどのような形と成り果てるのか、今は全く想像もできない。
だが逃げてゆく彼女を、落ちてゆくあの腕を掴んだ瞬間から、底知れぬ闇への転落はもう始まっている。
今更、欠片程の後悔もない。

それに身を委ねるのも、いとも簡単――

だが、その中で抗いながらも生きている、自分という人間が、マヤが、そして紫織さえもが。

馬鹿馬鹿しい程惨めで、でも哀しい程美しいのかもしれない――と、真澄は思った。
END.

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若干語り過ぎの後書きはコチラ。

last updated/10/11/21

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