第1話


白いレースのカーテンが音もなく揺れる。 その隙間から零れた光がフローリングの上でゆらゆらと戯れる。 薄暗い部屋、その先にはぽつんとラタンのソファーが置かれていて、 敷き詰められたクッションの上から、つい今しがた小さな手が滑り落ちた。 手はそのまま動かず、静けさもそのままで、穏やかな時間は夢のように留まり続ける。 ――と、光が一際大きく、ゆらりと瞬いた。 ――否、カーテンをかき分けて・・・誰かが部屋の中にするりと入ってきたのだ。 影のように静かに、フローリングの上を滑る。 ソファの端に広がった、柔らかな黒髪、滑り落ちた手の滑らかな白さ。 側に寄ってやっと聞こえるほどの寝息をたてながら、少女は穏やかに横たわっている。 いや・・・少女だった時代は少し前に過ぎ去ったはずだった。 だがここにこうして眠る姿は…あの頃とまるで変わらない。 その頃の彼女は―― 同じように華奢で、おまけに目も見えず耳も聞こえず、全身傷だらけだった。 ――紫の影を感じて、全身で駆け寄ってきた。 ――思わず抱きしめずにはいられなかった。 あの瞬間から、運命の歯車は違う方向に噛み合い始めて・・・ 単調に続いていたはずの一枚のドアが、無数に増幅し交差していくのを呆然と眺めていた。 どの方向に開ければよいのか、開けたその先に果たして何があるのか。 自分は臆病で不器用なただの人間であること、それを何度となく思い知らされた少女が・・・ここにいる。 速水真澄はゆっくりと屈みこんだ。 少女の寝顔に薄く影が落ちる。 少し汗ばんだ額に、黒髪が数本張り付いている…それを人差し指でそっと払った。 マヤの眉が微かに歪む。 胸の上にはまどろむ寸前まで読んでいたのだろう、 真新しい台本が・・・このオフが過ぎた後すぐに始まる新しい舞台の台本が開きっぱなしだ。 「マヤ」 小さく、名前を呼んでみる。 音の欠片を微かに唇に浮かべるように、 それだけできゅっと切なさに押しつぶされそうな――その名前を、 ただ一度囁いただけなのに。 「・・・」 ふっと、 魔法のようにマヤは目を開いた。 ぱっちりと開いた黒い瞳の中に、自分の顔が小さく映りこんでいた。 「速水さん・・・!」 「・・・遅くなりまして」 「遅いよ・・・もう、今日中は無理かと思った」 満面の笑みを浮かべた瞬間、ふと歪んだ眉根。 小さなその顔を引き寄せ、そっと唇を重ねる。 ゆっくりと――柔らかく、確かめるように、そっと。 ここにある、唇が・・・彼女が、マヤがいるのだ、この腕の中に。 「んん・・・」 長い長い、穏やかなキスでも。 愛おしさと切り離せない、切なさは胸の内で耐え難いほどに渦を巻く。 その息苦しさに、マヤは思わず首を傾げる。 その唇を唇で追いかけ・・・絡めとる。硬い小さな羅列を掻き分けて、 舌先で確かめて、それから絡めとる、奥の奥まで。 「四時半か――なかなかいい感じに間に合ったんじゃないか?」 「・・・うん、ギリギリOKです・・・」 ふいに唇が離れる。 小さな顔を両手ですっぽりと包み込んだまま、真澄は穏やかに笑った。 マヤの上気した頬も、つられてふっと緩む。 柔らかなその感触に、再び幸せな疼きが真澄の胸を突き上げる。 そのまま、半身を起こしたマヤの隣に腰を降ろした。 車から降りて、庭を突っ切る間にネクタイは解いていた。 シャツの襟元を緩めながら、ふう、と軽く息をつく。 「でも・・・無理してきた、よね?疲れてるみたい」 床に落ちた台本を拾い上げて真澄の顔を見上げ、マヤはおずおずと呟いた。 「まあ、確かに。無理して片付けてきたからな、暫く水城君には頭が上がらない」 苦笑しながら、ドサリとクッションに身体を埋める。 今日は5時起きの6時出社、必要最低限の指示だけを出してこの軽井沢の別荘に直行してきた。 マヤのオフに合わせてこの時期に休暇をとるのはかなり至難の業なのだ。 数週間前からの準備と水城の強力サポートがなければ決して実現しなかったはずの時間。 だが疲れている暇なんかない、こうやって顔をみるのも触れるのも・・・ 本当に本当に久しぶりのことなのだから。 ――と、もう一度マヤに触れようとした時。 床に落ちた上着の中から振動が聞こえた。 「しまった・・・切り損ねたな」 腕を伸ばし、二つ折りの携帯電話を開くと、案の定水城からの着信だった。 「もしもし」 「あ、申し訳ありません真澄様、これで最後ですので」 「ああ・・・他に何かあったか?」 「ええ、とうとう――嗅ぎ付けられてしまったようですわ」 その一言が何を意味するか。 水城の含み笑いにつられて、思わず薄い苦笑が広がる。 「成る程、戻ったら大騒ぎか」 「まあそのつもりで対処してましたから、でも覚悟しておいて下さいませ」 「ああ、本当に――君にはどう言ったらいいやら」 「何を今更。その代わり、今度は私の休暇に協力していただきますわよ。  ・・・いつになるかわかりませんけれど」 水城は珍しく打ち解けた調子で笑い、それからすぐに二、三の用件を付け足したのち電話を切った。 そのまま電源を切る――あと4日、暫くこの厄介な代物からはおさらばだ。 両足を投げ出して、ぐっと腕を伸ばした。 隣のマヤが、微笑を浮かべてその様子を見ている。 真澄はクスリと笑うと、 「・・・とうとうバレたってさ」 「え。う、嘘!」 「帰ったらちょっとした騒動だぞ。頑張れチビちゃん」 と、ポン、と軽く頭を叩く。 いや――実際のところ、自分らしくもなくはしゃぎたい気分を抑えていたりするのだ。 つまり、遂に、マヤと結婚することができた。 ほんの数週間前のことだ。 とはいえそんな実感なんてまるでない。 互いに多忙もいいところだし、できることなら発表はもう少し後がよかった。 婚姻届を代理提出したのは水城だし、式やら披露宴の予定もほとんど白紙の状態だ。 兎に角、早いところ決めてしまってからその後のことは考えればいいと思った。 一緒に住んでいるわけでもなければ、頻繁に会えるわけでもない。 ましてマヤは女優であり、それも近頃ちょっとお目にかかれない実力派の人気女優ともなれば、 自分の忙しさも放っておけば際限なく続く――と、先に焦りまくっていたのは真澄の方だった。 「結婚」という形にこれ程自分が囚われてしまっているのは滑稽だが、愉快でもある。 「でも速水さんの方が・・・大変じゃない?」 「別に。俺はそれなりに準備してきたし。  ただ君の今後のスケジュールと方向性の方が問題なんだが・・・その辺りは覚悟できてるか?」 「うん・・・でも・・・まだ何も変わったわけじゃないけど」 「変わるさ。大騒ぎだ。“あの”大都芸能の速水真澄が――よりによって、よ〜り〜によって・・・」 「ちょっ・・・何、何ですかその馬鹿にした顔はっ!!」 「よりによって、この、チビちゃんが相手だとは誰でもひっくり返るさ」 「いちいちイジワルな言い方しないでくださいっ、もうっ!!」 クッションを投げつけると、そのままそれを抱え込むようにして真澄が笑う。 膝を折って、全身を揺すって笑うその姿は――およそ普段の「速水真澄」からは程遠く、 スーツを着ていることでやっとその面影が感じられるものの・・・ (ホント、嘘みたい) 怒ったフリと他愛無い笑いの間に、マヤはふと不思議な気分になる。 くすぐったいような幸せな気持ちが、抑えても抑えても喉の奥から溢れ出る。 ――ただ側にいるだけなのに。 ――それも、この人が、紫の薔薇の人である・・・この人が。 と、ふいにピタリと真澄の動きが止まる。 「嘘みたいだな・・・」 今同じ事を思っていた、と言う前に・・・ぎゅっと、抱きしめられた。 ちょっと汗かいちゃったから、と身体を離そうとしてみる。 だが真澄はすっぽりと包み込んだマヤの上半身を片腕で支えたまま、反対側の手でそっと髪を撫でる。 体温がじんわりと伝わってくる。 暑さのせいだけではない、ひどく熱い衝動や何かと一緒に。 肌の上、服一枚を隔てて伝わってくるその熱。 web拍手 by FC2

2005年の7月に前歴サイトにて頂いた5万ヒットキリリク作品。
つか前歴サイト、ほぼキリリク作品だけで成り立っていた様な気がする^^;
この度再開させて頂いたはいいものの、なんと最初の1万ヒットすらリク仕上げ切っていないこの有様――
とかいうヘタレ台詞はさておき、当サイトにしてはごくごく珍しい夏パロです。
前歴時の裏ページ第3弾、最初っから最後までマスマヤがいちゃついてるだけ、という実にパロらしい(笑)作品。

    

last updated/11/06/27

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