第1話






   

祝福? 何を祝福しろというのだ、マヤの幸せを? 女の幸せとは何だ? 綺麗に着飾り、綺麗なものに囲まれ、 あらゆる苦しみや悩みから遠ざかり、 退屈しない程度の刺激、そして…永遠の愛…? 馬鹿馬鹿しい。 そんなものはただの女、いやマヤ以外の女にくれてやればいいのであって、 何故なら彼女は女優なのであって、 しかも唯の女優ではない――「紅天女」なのだ。 俺の、「紅天女」でないことは確かだ、それは認めよう。 だが他の男――例えばあの桜小路という男のものだと―― どうやら世間は認めてしまったようだ。 だが俺は認められない。 認めてたまるものか、天女は誰のものでもない。 彼女が他の男のものになったら気が狂う。 かつて俺は自分自身にそう断言した。 そしてそのとおりに状況は日々悪化してゆく。 そう、何気ない日常をやり過ごしながら、俺は確実に狂ってゆく。 誰も気づかない、一番近い所で俺を見ている水城ですら、 勿論「妻」ですら気づかない。 十数年の時を重ね、俺の仮面は完璧に整ったようで、 その裏で俺が何を考えどう動こうとしているかなど… ああ、聖がいた、彼以外は誰も知らない… 「本当にこれでいいのですね」 カードを手渡すと、俺の影が静かにそう呟いた。 その隻眼は責めるでもなく諭すでもなく、 ただそのままに俺を映し返す。 その眼差しから視線をずらして軽く顎を動かす。 聖は浅く一礼して立ち去ってゆく。 その足音が、地下駐車場の中に反響して消えるまで、 俺はただ立ち尽くしたままに動かない。 指先が冷たくなってきたので口元で静かに摺り合わせてみる。 何かを考える時、また何も考えたくない時は 冷たさの中に身を置くのが一番だ。 その痺れるような感覚は、指先からだんだんに身体の芯まで侵食する。 この無感覚を完全にものにしたら、 それから初めて動き出す。 紫の薔薇、という唯一の武器を手に、俺は全てに背を向ける。 5センチ四方のちっぽけな紙片、 そこに羅列するほんの一行の言葉、 それで何もかも一瞬にして色を失った。 幸せのようなもの、をもしかしたら手にしたのだろうかと、 そう思い始めた矢先のことだった。 「ねえ…ねえ、桜小路君」 真っ青な私の顔を見て、 彼は一瞬にして全てを悟ったようだった。 たぶん、あたしよりも私の言いたい言葉を知っていたのだろう。 失望がありありと浮かんで、 それを何とか穏やかさで包もうとする苦悩を、 やはりあたしも彼自身の言葉より先に悟ってしまう。 「…どうして?」 信じられない、というように桜小路君は首を振った。 あたしたちは婚約して、それをみんなに祝福されて、 事実幸せかもしれない日々を過ごしていた。 互いに限られた時間を縫っては約束を交わし、 公園を散歩したり遊園地で笑い転げたり、夕食を共にした。 手をつないで歩き、悩みを打ち明け、真剣に議論したこともある。 そして…軽いキス。 本当に、触れるくらいに軽い、キスを。 「何もかも、これからじゃないかって  少なくとも僕はそう思ってる。そうじゃなかったのか?  だから僕と婚約したんじゃなかったの?」 彼が責めるような言葉を使うのは初めてだった。 そう、彼は正しい。 あたしだって信じていたのだ。 少しずつなら、幸せになれる。 時を重ねていけば、この喪失感もきっと薄れてゆく。 思い出は思い出のままに、宝石のように輝いていて、 たまに胸の中から取り出して眺める、それだけでいい。 それでもいいから、とこの人はあたしを求めた。 拒むことなどできようもなくて、 考えるだけならもう嫌になるくらい考えあぐねていた。 だからその愛を受け入れた。 ゼロから少しずつ幸せになるはずだったのに… 「…理由を聞く権利が、僕にはあるはずだ」 桜小路君がひとつひとつの言葉を噛み締めるように言う。 あたしはかさついた唇でそれに応える。 「薔薇が…紫の薔薇が、届いたの…」 web拍手 by FC2

前サイト時代の初地下作品!リクしていただいたのは『甘露をすくう指先』のみくう様でした!
いろんないみで…ういういしい…かっ!!?

    

last updated/05/01/30

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