第2話






   

マヤの行動は早かった。 一度はかなり詳細に立てられた結婚に向けての彼らのスケジュールに 「何らかのトラブル」が生じているらしいことを聖が報告してくる。 …流石は「紫の薔薇の人」だ。 彼の前では桜小路の存在などさほどの意味を持たないらしい。 では俺の存在は…? もう直接会うことなどないままに3年の歳月が流れている。 最後に会ったときの彼女は… まだ、舞台の上の女優・北島マヤのままで、 俺は舞台裏に薔薇を届けることもなく日本を離れた。 今では俺の存在など、昔の苦い思い出に過ぎないのだろう。 そう、最後に言葉を交わしたのは… 俺の結婚披露宴の会場で、俺はかなり動揺していたはずなのに 彼女は驚くほど落ち着いて…美しかった。 見事「紅天女」を継承し、 もうチビちゃんなどと呼ぶのは憚られるほどに成長した少女。 女優としても、女としても。 それが長年の俺に対する嫌悪感すら変えてしまったようで、 彼女はあくまで優しく、穏やかだった。 あの祝福の言葉は決して偽りでも形式上のものでもなく、 「幸せになってくださいね、絶対ですよ」 と囁くような声が今も耳の底に残っている。 どうにか忘れてしまおうと…大都を離れ、日本を離れ、 ギリギリ生きていけるラインで仕事に没頭し続けた。 だがあの声はふとした瞬間に残酷なほどリアルに蘇る。 その度…決して幸せなんかではない自分が突きつけられるようで、 こんな惨めな思いをするくらいなら… いっそ彼女にとことん嫌われたままなら…諦めることもできたのに、 と憎しみに近いような感情すら湧きあがる。 何故あの時微笑んだ。 何故俺に祝福の言葉を捧げた。 残念ながら、俺はお前の祝福など認めないのだ…マヤ。 …愛されたいのか、それとも憎まれたいのか。 俺がこれからしようとすることは…まあ確実に後者だ。 お前のその優しさが、こんな俺にすら向けられる天女の慈しみが、 再び恐怖と嫌悪に変わってしまうのと… 他の男のものになるのをじっと見ているのと。 どちらかを選ばねばならないというなら、仕方がない。 マヤ、お前が悪い。 お前が…あまりに俺を魅了するから… 俺が狂ってしまうのは、お前のせいだ。

流石の桜小路君も、今度ばかりは穏やかなままではいなかった。 「ごめんなさい」 と呟いたあたしの、肩に思いっきり強くつかみ掛かり、 その痛さに初めて、ああこの人は男の人なんだ、とぼんやり感じる。 とても酷いことだと…思うけれども。 彼は優しい、痛いほどに。 だけど、日常の間に浮かび上がるあの影…! もう3年も、顔も合わせたこともなければ声も聞こえないあの人の 幻ばかり追っているのはどういうことだろう。 どこかであたしは狂ってしまったのだろうか。 「ふざけるな…」 桜小路君の抑えた声が飛び込んできた。 「三年も、三年も君を放っておいて…  いや、もう何年も君を縛り付けておいて、今更、  今になって、婚約するなだって…!?  君の紫の薔薇の人は…一体何を考えてる!!」 本当に、それはあたしにもわからないことで… 何か応えたいのだけど、 恐ろしいことにあたしの頭の中ときたら この本当に久しぶりに届いたカードの言葉の意味よりも まだあの人があたしのことを忘れていなかった、 その事実に囚われて痺れたままなのだ!! 真っ白なカードには、 ほんの少し…確かに薫る、あの人のコロンの薫り。 濃紺のインクの痕はまだ新しくって、 何年も何度となく読み返して色褪せてしまった 古い宝物たちでないことは確実で。 …たった一行だけど間違えることのない、よく見慣れた文字。 いつもあたしの心を支えてくれた言葉。 その言葉があたしに囁きかける。 「わからない、あたしにもわからないの。  でも…でも確かに紫の薔薇の人なの、この人は!!  それだけは…確かなの…」 困惑した顔のまま、 桜小路君は様々な言葉を口に乗せようとしては躊躇い、 どうしたらあたしのこの理解できない感情を掬い上げられるのかと 葛藤するその姿にあたしも懸命に応えを探す。 「何故今なのか、どうしてこんなこと言うのか、  本当にわからない。  でも…何か考えがあるのかも…しれないし、」 「考え!何の考えがあるってんだ?  君の事を…ずっと昔から見守ってきたからって、  いや、だからこそ君の幸せを願うべきじゃないのか!?  これでは…これじゃまるで…」 「でもね、桜小路君…  本当に馬鹿だって自分でも嫌になるけど、  でもあたしには…やっぱりダメなの、その…彼は…特別だから」 我ながらなんて残酷な台詞だろうと立ち尽くす。 あたしのことを愛しているといい、 婚約まで交わした人に向かって――彼は特別だから。 一瞬、桜小路君の表情が固く止まる。 「…君は、紫の薔薇の人が誰だか知ってるんだね」 「え」 「会ったこともない、正体も知らない人間に  どうしてそこまで囚われてるのか正直わからなかった。  君が紫の薔薇に長いこと恋してるのは知ってる、  君もそう言った、でも…それは…」 桜小路君の唇は引きつって、右手の指が忙しなく苛立ちを表す。 左手はあたしの肩を握り締めたままで、 その圧力が大きくなるごとに彼の息遣いも荒くなる。 「誰だ!?誰なんだそいつは!!」 あたしはただ首を振ることしかできない。 「無理なの…」 「何が!!!知っていたくせに、  何も知らない振りで嘘をついてたんだ、君はっ…!!  早く、言ってくれ、誰なんだその男は?」 一度両肩を大きく揺さぶられて、 それから突き放される。 苛立ちながら彼は自分の頭を掻き毟る。 そして、大きく息を吸って、目を閉じた。 「…言えよ」 ああ、言えたなら、その名前を口にできるのなら、 そうしたらどんなに楽だろう? でも駄目。 一度言葉にしてしまったらそれは真実になってしまう。 心にその名が刻みついて、もう忘れた振りもできなくなる。 知らない、あたしは紫の薔薇の人なんか知らない…!! もう一度、大きく首を振った。 既に溢れていた涙がぼろっと零れた。 瞬間、頬に熱い痛みが走る。 その拍子に、唇が歯にぶつかって擦り切れた。 互いに互いを絶望的な瞳で見つめていた。 鬱陶しそうにあたしの頬を叩いた自分の手を振る… 優しい彼に、こんなことをさせている自分がたまらなく嫌になる。 そうだ、もう駄目だ、謝ることすらおこがましい。 あたしは最低だ。 逃げよう、逃げてしまおう、この人から、何もかも全てから…!! 口を押さえながら、 堪らなくなって飛び出そうとした、その部屋を。 とたんに腕をすごい勢いで引かれる。 「もういい、もう駄目だから…ごめ…」 切れた唇に、彼の唇が重なる。 歯と歯がぶつかって、あたしは全身を捩って思わず床に座り込む。 その腕を彼が引き上げる。 首を横に振ることしかできない、なんて馬鹿なんだろう、あたしは。 「嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ…いやああああっっっ…!!!」 違う、桜小路君、貴方のことが嫌なんじゃない。 あたしが駄目なんだ、あの人にすがりながらあなたに甘えて、 そのくせ、どちらにもどうしたらいいかわからない。 「け…っこん、できない、ごめん、できない、もうできない!!」 気が遠くなりそうな痛みが胸を刺した。 言葉は人を生かすも殺すも自由自在だ。 あたしは私に楔を打ち込んだ。 たぶん、もう二度とはこないかもしれないあの人の薔薇を この先一生待ち続けることだけは確かだと遠くで思った。 web拍手 by FC2

うーん…若い…そして恥ずい…
       

    

last updated/05/01/30

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