第1話



誘惑から逃れる唯一の道は、誘惑に屈することだ。

──オスカー・ワイルド 「ドリアン・グレイの肖像」

ふと時計をみれば、いつの間にか深夜と呼んでいい時間帯に差し掛かっている。 俺は大きく溜息をつくと、凝り固まった首筋をゆっくりと左右に動かした。 途端に、長時間パソコン画面を睨みつけていた目の奥がズキズキと痛みを訴える。 まだ中年、というには充分間がある歳のはずだが、こうも仕事漬けでは身体が鈍りきってしまうな── と溜息をつくと同時に、意図的に意識の外に押し込めていた少女の姿がクリアに浮かび上がってくる。 若く、健康で、生きる情熱に満ち溢れたあの少女。 みるみるうちに彼女の顔が、声が、生き生きと動く肢体が、色と形を成して俺の目の前に立ち現れる。 演劇にかける恐ろしいまでの情熱を秘めた大きな瞳。 若さ故、と笑い飛ばすことのできない真摯さの底に潜む圧倒的な才能。 まだまだ泥の底に埋もれて見えないその才能の光に魅了された愚か者は、いつまでも沼の縁に佇んで光が顕れるのを心待ちにしてしまうのだ。 最早、そこから離れることなど思いも寄らぬ程に。 その冷たい泥の中に──手を差し伸べたいという甘い誘惑──にかられて、それを辛うじて堪え、紫の薔薇を贈ったはずの自分。 紫──赤にも、青にもなれないその色。 不実の色。 死の色。 高貴という名の仮面を被った、偽りの色。 それでも、俺のたった一つの真実を託すにはこの色しかないのだ。 狂ったように赤く蠢く情動を押し隠すには、この色しか。 が、そんな密やかな想いの殻を破り、俺は遂に踏み込んではいけない領域に手を伸ばしてしまった。 それが新しい何かの始まりなのか、それとも崩壊の始まりなのかもわからぬままに── ──と。 半ば眠りかけたような意識を呼び覚ます、無感動な機械音。 俺は眉間に皺を寄せながら、デスクの上で細かく振動する携帯電話を睨みつける。 仕事用のそれは、今日一日自分から時間を奪ってきた張本人だが、日付も変わろうというこの時になってまたも鳴り出すのか。 ほんの僅か、彼女への想いに浸ることさえ許さないといわんばかりに。 そのまま無視してやろうかと、ふと液晶画面を覗き込んで眉を上げる。 公衆電話──? こんな時間に。 最初に思い浮かんだのは、影の仕事を任せているあの男の事だった。 だが彼がかけてくる番号はこれではないし、つい一時間程前に別の携帯でやり取りを済ませている。 ごく稀にだが、この番号には様々なタレコミや脅迫の類の電話もかかってくる──大都の速水真澄の番号ということで公に振り撒く名刺に銘記されている為だろう。 ますますもって取り上げるのは憂鬱だったが、しつこく鳴り続けるそれに仕方なく手を伸ばした。 ──途端に、切れた。 公衆電話にはかけ直せない。 元より、かけ直す気もない。 舌打ちして携帯をマナーモードにすると、俺は強制的に今日という日を終わらせることに決めた。 既に時刻は翌日を刻み始めていたが。

秘書課の電気は落とされていたが、幾つかのフロアにはまだ明かりが灯っている様子だった。 エントランスの薄暗い照明の下で巡回中の守衛とすれ違い、軽く頭を下げられる。 自分にしては早い方といっていい帰宅時間だったが、正直なところ屋敷に戻るのも億劫だった。 疲れ切った身体を一刻も早くどこかに投げ出して──深く沈み込みたい、という要求に突き動かされるようにして、地下駐車場に駐めた車に乗り込む。 赤く光るランプに導かれて地上へと出て、右折したその時だった。 一瞬、まだ頭が眠っているのかと思い、そんな自分に警鐘をかけるかのように全身が緊張した。 ビルの壁とテールランプとの間に浮かび上がったのは、つい先ほど社長室で夢想していたあの姿。 気を取り直すために急停車させた──が、その幻は消えることなくそこにある。 ……見間違いでもなければ、妄想でもない。 「──マヤ?」 窓を開けて声をかけると、少女はさも意外そうに目を丸くさせて口を開けた。 驚いたのはこっちの方だというのに。 「何をしているんだ、こんな所で」 「速水さん──あ、その……」 「大都に用か?」 「───」 何とも言えない表情の彼女は、いつもと違う様子に見えた。 俺をみればしかめっ面で、口を開けばキャンキャンと物を言う── そんな彼女に慣れきっていた俺は、不審というより不安な思いで彼女を見つめてしまう。 「──とりあえず、乗りなさい」 と誘っておきながら、もう一人の自分が再び警鐘を鳴らすのを遠くで聞く。 やめろ、これ以上彼女に踏み込むのはやめるんだ──でないと、後戻りできなくなる。 自分自身の破滅が怖いんじゃない、彼女がどうなってしまうのかをもっと考えるべきだ、と。 だが、一度覚えてしまった彼女の匂いから離れることなど、到底不可能なことだった。 彼女が僅かに頷くのがあと一瞬遅ければ、俺はドアを開け、半ば拉致同然に車内に引きずり込んだだろう。 だが、マヤは確かに頷くと、恐る恐るといった様子で助手席側に回ってきた。 腕を伸ばしてドアを開けてやると、ぺこりと頭を下げてシートに滑り込んでくる。 その途端、疲れていたはずの頭も、身体も、心までもがみるみる潤ってゆくのを自覚した。 「──さっきの電話は、君か」 暫く経ってから切り出すと、あ、と喉の奥で変な声を上げる。 ちらりと視線をやると、白いキャミソールワンピースの裾から覗く膝頭の上で固く握り締められた指先が目に入った。どうやら図星の様子だ。 「俺に用なら、直接社長室に来ればよかったのに──君の専売特許だぞ」 からかいを込めて言ってみると、予想通りちょっと眉をしかめて、だが緊張を解きながら応えた。 「だって玄関はもう閉まってたし──流石に、こんな時間に非常識だし」 「それは残念だ──君の非常識な訪問は俺の数少ない楽しみの一つだったのに」 本音半分、冗談半分で返すと、たちまち隣で彼女が強張ってゆくのを感じた。 まずい──ちょっとやりすぎたか。 だが口は勝手に動き、更に彼女と自分を追い詰めるような台詞を紡いでしまう。 「──それに、俺に何をされるかわからないし、か?」 俺は一体、何を望んでいるのか。 これ以上彼女に嫌われ、彼女に疎まれるのを望んでいるかのごとく傲慢に振る舞う自分に心底うんざりしながら、 それでもそんな彼女の顔さえ見てみたいと思う自分がいる。 「──何で、そんなに意地悪なんですか」 マヤはきゅっと眉を釣り上げる。 その口から次にどんな罵声が飛び出すのか── せめてドアから飛び出すことだけは阻止しなければ、などと思いながら、俺はゆっくりとアクセルを踏む。 どこに向かおうというのか。 彼女の部屋に? とんでもない──こうして勝手に手の中に落ちてきたのに、そう簡単には返せない。 ではどこに? 自分の部屋に彼女を連れてゆけば、その先どうなってしまうかなど明らかだ── そして俺は彼女を失う。 おそらく、完全に。 「──相談が、あるんです」 沈黙に耐えかねたのか、マヤが意外なことを呟いた。 膝の上で組まれた指先、その爪がいよいよ白くなるのが目に入る。 「里美君に、告白されました」 「……里美、茂か?共演中の──」 大河ドラマ『天の輝き』。 マヤは伯爵令嬢・田沼沙都子として出演し、今や回を追うごとに視聴者の人気を集めている。 そして里美──主人公の敵役として次回放送より登場予定の人気アイドルだ。 俺はさも驚いた、といった具合に眉を上げながら、実の所まったく予想していなかった訳でもない。 マヤと里美の仲が”良すぎる”事は現場関係者からも、秘書で現在彼女の専属マネージャーでもある水城、 そして影の仕事を任せている聖の報告からもとっくに入手していた情報だった。 かといって、俺が何をするでもない──所属社長として、話題作りになる程度なら心配には及ばないだろう、と流した程だった。 確かに、里美の所属事務所はガードが固いことで有名だが、この程度の噂話なら互いに問題はないはずだった。 ──噂が、真実でない以上は。 web拍手 by FC2

last updated/11/02/28

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