第4話


「──何を、してるんですか?」

「ん?なあに、君は”何も知らない”人形じゃないんだろう?
それを確かめてみようと思ってね」

あたしはじっと自分の右手首、溝河社長の左手にしっかりと捕まれている部分を凝視した。
それは彼の纏った似合わないカクテルドレスの裾の下に深く潜りこんでいる。

「さっきの演技を見て実感した。君の魅力の一つは、無邪気そうに見えてその実"知っている”ということだ。不完全な無垢とでもいうのかな──20歳を過ぎているにも関わらず、君は少女よりも少女らしい毒を持っている、まさに現代のロリータだ」

溝河社長の手が上下に動き、あたしの手の中に握らされたものが形を変え──ようやく、異常な事態に気がつく。
あたしは勿論、さっさと手を引き抜いてその場を去るべきだったのだ。
普段のあたしならこんな状況、絶対受け入れられるはずがない。
それなのに――やっぱり、その夜のあたしは相当におかしかったのだ。

「……男の人って、こういうのがスキなんですか?」

「スキというより、感覚の問題だろう。君だってキスをされればいい気持ちになるし、愛撫されれば蕩けるような気分になるだろう?」

「……」

あたしはぼんやりと自分のものではないような自分の手を見つめている。
スカートが下から不自然に蠢いている。
手のひらの中の熱はみるみるうちに張り上がり、薄手の光沢のある布地を突き上げてくる。

……変なの。

あたしの身体の一部は、速水さんだけでなくって全然関係ない他人でさえも反応させることができるのだ──でも、あたし自身は全く反応できない。

あたしはぼんやりと、最後にいつ速水さんの素肌に触れたのかを思い出す。
付き合っているといえば付き合っている。
けど、二人きりの時間を過ごすことなんて、一ヶ月のうちに数える程しかなくて。
その内で肌を重ねた機会もほとんどない。
その奇跡のような一時を何度も何度も頭の中で再生してるなんて、速水さんは絶対知らないだろう。
刷りきれてボロボロになった映像が再び彩りを取り戻すのが何時になるのか。
それが今夜なのかもしれないと密かに期待していたというのに。
なのにどうして、こんな場所で、彼じゃない人相手に、平気な顔して。
あたしって人間は一体何を考えているのか──さっぱりわからないと、これじゃ速水さんじゃなくても言うだろう。

「そのアイドルの別の歌だが──もっと面白いのがある。
”知りたい”かね?それとも”知っている”?」

「……悪い冗談はそこまでにしてくれませんか」

突然、頭の上から冷たい声が落ちてきた。
瞼を閉じてほとんど夢の中に落ちかけていたあたしを、一瞬で目覚めさせるその声。
ぼんやりと頭を上げた。
そのはるか上で、速水さんが見たこともない程険しい表情であたしを見下ろしていた。

「あ──れ、もっと歌ってきたらいいのに」

自分でも驚くほど、思いやりの無い冷たい言葉が飛び出した。
そんなつもりじゃないのに、本当に。
速水さんは露骨に眉を顰めると、腕を伸ばし、もの凄い勢いであたしの二の腕を取り上げた。
そのまま強引にソファの上からあたしを引きずり出す。
痛みで思わず小さく叫んだ、けれどその力は全く緩まない。
カツン、とヒールが冷たい床の上に響いて、そのまま崩れ落ちそうになった。
速水さんの脇に引っ張りあげられるような形で、あたしはやっと立っている有様だ。

「溝河さん──これが目的だとしたら、御社との契約は考え直さざるを得ませんね」

「これは参ったな──そんなつもりはなかった、と言っても信じてくれないか」

「私のせいね、人形の演技をさせてしまったから──
貴方の悪趣味をもうちょっと考慮すべきだったわ」

険悪な雰囲気の中にカノンさんが現れた。
膝をついて、フラフラのあたしの眼を覗き込み、眉をひそめる。

「溝河さん、貴方この子に何飲ませたの?」

「何って、スコッチを少々──でもない、かな、あはははは」

「マヤちゃん?ちょっと、しっかりしてよ、こっち向いてったら!
アナタねえ……素人相手に何やらかしてんのよ一体!このド変態!!」

「マヤ?おい、大丈夫か!?」

「……う〜るさいなあっ」

あたしの不機嫌な声に、一同絶句するのを感じた。
でも実際、みんなの声がガンガン響いてとても気分が悪かったのだ。

「大体、全部速水さんが悪いんじゃないですか!?
久しぶりに会ったってのに、放ったらかして呑気に歌なんか歌っちゃって。
カノンさんとずーっとベタベタしてたらいいんですよ、あたしなんか気にしてないでっ」

「──もういい、行くぞ」

「行きません!!あたし、カノンさんにお話があるんです!」

「マヤちゃん、話は聞くからとりあえずお水──の、前に。
速水さん、トイレで吐かせてきなさい、この子、何かヘンな物飲まされてるわ」

「何っ!?」

それから後のことは、少し記憶が飛んでいる。
気がつくとあたしは、冷たい大理石でできた洗面台の上で速水さんに抱きかかえられ、盛大に胃の中のものを吐き出していたのだった。


***


俺は会場を飛び出すと、廊下の一番奥にある個室にマヤを連れ込んだ。
普段はホテルの一室であるその部屋が今宵の化粧室代わりだと、カノンに指示されたからだ。
部屋の奥にはどうやら先客がいたらしく、何やら最中の気配がしたが知ったことではない。
広々とした化粧室の入り口に鍵をかけてから、洗面台にマヤを立たせた。
その口の中に自分の指を突っ込み、胃の中をひっくり返して何度も口をすすがせる。

「ほら、吐くだけ全部吐いてしまえ」

「うう、ぎもちわる……」

顔色は真っ白だが、あらかた吐いてしまうとだいぶ楽になったようだった。
冷たいミネラルウォーターのボトルを開け、飲ませてやる。
自分の足で立って水を飲めるというなら、先程心配したような最悪の状態というわけでもなさそうだ。

「なんか……こんなの、前にもあったような気がする」

「ああ、そういえばそうだな」

「──頭痛い」

「何を盛ったのかは後で彼に詰問するとして──それでなくとも飲みすぎだ」

俺はできるだけ怒りを声に表さないように努めながら、濡れた口元をハンカチで拭いてやった。
この会場に連れてきたのが俺なら、溝河に引き会わせたのも俺、そして彼女から眼を離したのも俺。
全ての否は俺にあるのだから、マヤの先ほどのとんでもない行動を責める訳にもいかない。
が、それだけにやり場のない苛立ちは大きく膨らむばかりだった。

カノンに引っ張り上げられた舞台からようやく降りてきた時眼に入った、信じられないあの光景。
よりによってマヤが、他の男の股間を弄んでいるという──
それも女装した男という、余計ややこしい状況。
不愉快だとか怒りだとかいう言葉では到底あの感情を表すことはできない。
──いや、マヤもマヤだ。
いくら泥酔していたとはいえ、何らかの薬?を飲まされていたとはいえ、公衆の面前であんなことが出来るような子だったか?
俺へのあてつけだったとしたら、あまりにも悪質だ。可愛い冗談や嫉妬の域を越えている。
……と、眉間に縦皺で溜息ついた瞬間を、マヤに鏡越しにばっちりとらえられてしまった。
みるみる、蒼白だった頬が真っ赤に膨れ上がり、黒い瞳に怒りの涙が盛り上がる。

「──なーにが、お人形よ……」

「え?」

「踊らされてるとか、知ってるの知らないのとか。どいつもこいつも勝手だってゆってんの!これだからオジサンはうざいっっ!!勝手に想像したりイメージ押し付けたり……そんなのぜんっぜんわかんない!!」

「どいつもこいつもって、主に溝河だろ!オジサンくくりで一緒にするな、あんな変態と」

「あーもううるさいうるさい。小煩いのは同じですっ!!
あたしみたいなチビでうるさいコムスメは放っといて、綺麗なカノンさんと歌ってればって言ってるじゃないですか」

「何でそう可愛くないことばっかり言うんだ君は?誰が好き好んであんなとこで歌うか!
あの女──男か?どっちでもいいが、奴が君に手を出そうとしてたから……」

「手を出したからって何よ!関係ないでしょ、速水さんにはっ」

「は?──おい、まさか本気でそれ言ってるのか?」

「誰があたしに手を出そうと、あたしが出そうと──?え、それは違うか。
兎に角、あたしの事はどうでもいいんですっ」

「どうでもいいわけないだろう!!」

本気で怒鳴りつけた瞬間、マヤはビクリと肩を震わせた。
そして──そのまま俺の腕の中に倒れこんでくるのを、反射的に受け止める。
マヤは俺の胸に顔を押し付けたまま、それでも口は俺に対してなのか自分に対してなのか、ぶつぶつと悪態をついている。

「──馬鹿。最低。いつまでもチビちゃんだと思ってればいいのよ。ききわけのいいお人形なわけないでしょ、そんな可愛くないっつーの。あたしの心はねえ、もっとドロドロで汚いの!嫉妬とか思いっきりするし、ムカついたら今だって噛みついてやるんだから……」

「嫉妬してくれるのは嬉しいが、マヤ。
頼むからいい加減、俺は君以外の女にも男にも興味ないってことに気づいてくれないか?」

幾分気持ちを和らげながら、俺はマヤの髪を撫でて囁く。
が、マヤはガバッと顔を上げると、

「じゃあなんであんな声出したの?」

「え?」

「あんな──歌っていうより、声、みんなに聞かれたくなかった!
あんなことして、あたしが悲しまないとでも思った?」

「声?」

「だから──もう、いい!何にもわかってない──ホントに敏腕社長なの?馬鹿じゃないの?」

「……だからそう、勝手に引きこもって膨れるのはやめなさい。
俺が人前で歌うのがそんなに気に入らなかったのか?恥ずかしかった?なら謝るが──」

「そんなんじゃないったら……
多分、カノンさんとだからそう感じたのかもしれないけれど。
あの時の速水さんの声、まるで誰か一人にだけ囁いてるみたいな、そんな声だった。
あたしは速水さんをまるごと独り占めしたいとか、そんなの可能だとか思ってるわけじゃない──けど、それでもああいう、二人だけの時にしかしないような眼とか、声とか、誰かに見られるのも聞かれるのも我慢できないの!!」

一気にまくし立ててようやく気が済んだのか、マヤは大きく息を吐き出すと再びぐったりと俺にもたれかかった。胸元の熱が上がったことから、そこで彼女が涙を流していることは明らかだった。

「……それだけ。御免なさい。本当に、いつまでたってもコドモで、滅茶苦茶なことして。
いくら速水さんでも呆れちゃいますよね。あたしだって呆れてます」
 
「滅茶苦茶なことは控えて欲しいが、その前の台詞はそっくりそのままお返ししよう」

「え」

泣き濡れた顔を見られまいと身を捩るマヤの顔を無理に引き上げ、ぶつけるように唇を合わせた。
しっとりと熱をもつ柔らかなふたひらは、俺の唇に吸い付くようにしてゆっくりと離れる。
キスの瞬間、マヤの身体から緊張や強張りがするりと抜けてゆくのがわかった。
最初からこうすべきだったのだ──二人きりで久しぶりに出会った、ここに来る前に待ち合わせて出会ったあの瞬間から、こうすべきだった。

「君が舞台に立つ時。『紅天女』で阿古夜が恋を語るとき。俺はいつもさっきの君と同じ事を思ってる──仮面の下の君も仮面をかぶった君も、誰の眼にも触れさせたくない。全部俺だけのものにしてしまいたいと、ずっとずっと思ってる──自分でも呆れるくらい」

「ほんとに──?」

「自分だけだと思ったら大間違いだぞ。俺がどれだけ長い間君に苦しめられたと思ってる。
自覚してたかだか2、3年の君の嫉妬なんか足元にも及ばないね」

「──へ、変な自慢しないで下さい」

泣き笑いで崩れた顔に、俺はようやく安堵の微笑みを返すことができた。
くしゃくしゃになった黒髪の中に埋もれてしまった金色のカチューシャを探り出し、整えてやる。

「帰ろう──もう二度とこんな怪しいパーティーに君を連れ込むのは御免だ」

「でも──ちょっとだけ、楽しかったですよ」

マヤはゆっくりと俺の胸から身体を離した。
シャツの上に留まったままの指先から、何か言いたげな想いが伝わってくる。

「どうした?」

「……もし知ってたら、教えて欲しいことがあるんです」

「何だ」

「さっき、あたしが演技してカノンさんが歌った歌。何か、シャンソン人形とかって歌。
溝河社長が言ってたんですけど、あれを歌ったアイドルのもっと面白い歌があるって。
速水さん、どんな歌か知ってますか?」

「……ああ」

「何ですか?」

「知ってどうする」

「あたしは知らないこと?」

マヤがまだ酔いの影響の残る瞳で俺を見上げる。
その無邪気な声に甘い媚が含まれていることに、溝河の戯言はあながち的外れでもないことを感じ、俺はそっと肌を粟立てる。
あの男の口から聞くのは癪に障るものの、確かにマヤにはその種の魅力がある──
”知っている”が故に彼女の阿古夜には匂い立つような色気がある。
それと同時に抱いている無垢とのアンバランスが、より一層観る者を虜にするのだ。

彼女の無垢を傷つけ、知らしめるのは、常に俺でなければならない──

彼女を愛し守りたいという想いと同時に常に胸の内にある、暗い独占欲が耳元で囁く。
それをそのまま、マヤに囁いた。
マヤは、ゆっくりと頷いた。

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last updated/10/11/29

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