第3話




「ぼくはあの花を愛していたんだ。
 ただあの頃のぼくには、花を愛するってことが、どういうことかわからなかったんだ」

そう、言葉じゃなくて振る舞いで判断するべきだったの。
あたしは逃げちゃいけなかったの。
つまらない見せかけに隠された、あの人の優しさに気づくべきだったのに。
彼という人は本当に――矛盾してるから……

 

速水さんは志田玲奈を手に入れた。 一流になるまで育て上げてもらった所属事務所をあっさりと捨てて。 彼女は大都に電撃移籍した。 勿論、その背景に速水さんとの「私的な」関係があることは明らかだったので。 久々の「美味しい」スキャンダルにマスコミは大騒ぎだった。 連日、テレビや雑誌の記事には志田さんと速水さんの名前が踊った。 「ホント、彼らしいよね。目的の為なら手段を択ばないってヤツ」 「めちゃくちゃ敵増えたんじゃない、前の事務所と、ファンと――ってか今後大都でどうやって売り出す気なのかな、彼女。清純派のイメージ壊れたよ」 「巴万理の一件といい――ヤベ、噂の金の卵がお出ましだ」 ……全部聞こえてるって。 あたしは溜息を押し殺しながら、手にしたグラスの中身を飲み干すのに夢中のフリをする。 当然、お酒なんかじゃない。 お子様仕様のオレンジジュース。 氷の解けきった、薄くて不味いそれを飲み干したその時。 いつも唐突なあの声が頭の上から降ってきた。 「やあ、チビちゃん」 「……今晩は」 「おめでとう、なかなかいい映画だ。ヒットするよ。 君の演った少女もなかなかいい。今夜の主役は君だよチビちゃん」 「あ…ありがとうございます。大都芸能の速水若社長にそう言っていただけて光栄です」 「苦虫噛みつぶしたような顔して言うもんじゃないよ、そんなセリフは。 たまには僕にも笑顔を見せてくれないか?せめてこういう席でくらいは」 僕――? さっきかららしくないセリフを吐いてるのはどっちですか。 思いっきり舌を突き出そうと思ったけれど、どうせまた馬鹿にされるんだろうから。 せいぜい笑ってみせたら、酷い大根役者だと声を上げて笑われた。 ……ムカつく、ホントに。どうして、いつもこう簡単に乗せられちゃうんだろう。 こういう席でこれ見よがしに繰り出される、お得意のインギンブレイって奴。 悔しくなるくらい板についているそのスマートな所作も、優しい微笑の仮面も、何もかも。 「ここに大嘘つきの冷血漢がいますよー!!」って叫んでやれたらどんなにスッキリするだろうか、なんて本気で考えてたら、いきなり手を取られた。 「君は大都芸能の金の卵だ。からかったりするもんか」 冷たい手。 この手に抱きしめられたこともある、なんて――嘘だ、やっぱり。 あんな事、あるはずがない。 あの速水真澄が、あたしを抱きしめて……触って、なんて、有り得ない。 まして恋人だなんて、絶対不可能。無理。 だってあたしは――あたしの好きな人は…… 「気になるか?」 「え?」 手をとられたまま、周りの誰にも聞き取れないような小さな声で囁かれた。 「志田玲奈にとって俺は渡りに船なんだよ。所属事務所の社長に――拾われた恩を盾に長年無理な関係を強いられていたからな」 「……あたしと、あなたみたいな?」 「――言うじゃないか。その通りだ」 にやっと笑うその顔。 ああ、それこそがこの男の本性。 利用できるものは何でも利用する、人の心を踏みにじるなんて何とも思ってない、酷い男。 「最低。触らないで」 心の底から、そう思った。 取られた手を強引に引き寄せて、一歩身体を引いた。 それでも平気な微笑を浮かべたままで、彼は言った。 「平凡なひよこでも、金の卵から出てくるとスターになる。芸能界とはそうした所だ。 君にその可能性がある限り、俺は最大限君を大切にする――君は君で俺を存分に利用したらいい。この世界での後ろ盾としても、秘密の恋人としても」 「勝手な事ばかり言わないで!」 我慢できなくて、つい、声が大きくなってしまった。 周囲が何事かとこちらを振り返る――あたしたちの「確執」は、結構有名なのだ。 注目されるのに慣れないあたしは、肩をすくめながら、それでもしっかりと彼を睨み付けながら言った。 「後ろ盾なんていらない。あたしには――紫のバラの人がいるから。 ずっと応援してくれてるあの人がいるだけで頑張れる。あなたの支えなんていりません」 「おや――どうやらその本人から君へ贈りものらしいぞ」 「あ――!」 あたしの頭越しに向けられた視線の先を振り返ると、大きな紫の花束が見えた。 途端に、落ち着かなく動いていた心臓がほっと安堵の溜息をつくのがわかった。 その存在だけで、あたしの心を奮い立たせ、全ての不安を取り除いてくれる、魔法の花。 たちまち、速水真澄の事など頭の中から吹き飛んでしまい。 あたしは駆け出した。 変わらない、あの文字が、言葉が、あたしを待っていた。 あたしは抱きしめる。 強く、その匂いに包まれる。 僅かな棘の感触さえも心地良い。 どこの誰だかわからないあの人のリアルを示すかのようなその痛みが。 「熱心なファンだな。この人の期待に応えるためにも、これからも素晴らしい演技を見せてもらいたいものだ」 「あっ」 背後から近寄るなり、勝手に一本引き抜かれてしまう。 何よりも大切な花が、冷たいその掌で無残に握り潰されてしまうその場面を、あたしは一瞬のうちに想像してしまった。その時、確実にこの人の事を憎むことができると思った。 ――だけど。 「よく似合うよ」 切れ長の瞳が優しく見えたのは、きっと気のせい。 再びドクドクと言うことをきかなくなった鼓動を持て余しながら、あたしは彼が首元につけてくれたバラのコサージュに指を遣る。即席にしてはなかなか外れそうにないそれは、華やかな会場の中でやや地味だったあたしの姿を控え目に、でも確かに美しく、彩った。 「なによ!大都芸能の冷血仕事虫――」 湿ったその花弁を弄びながら、去ってゆく背中に向かって情けない悪態をついてみた。 ちっとも力のないそれは、自分自身にさえ説得力がなかったから。 まして彼は何とも思ってないはず、いつも通りに。 目的の為なら「恋人」なんていつでも、どこでも作れるし、不要になれば切り捨てる。 あたしに触れるのも、微笑むのも、金の卵とひよこの関係に興味がある間のうちなのだ。 そして―― あたしの、「好きな人」が現れた。 本当のあたしを受け止め、明るい光で包み込んでくれるその人が。 不安なんてちっとも感じない、確かな腕で抱きしめてくれるその人が。 この複雑な気持ち、バラバラになって引きちぎれそうな苦しい想い、全部掻き消してくれるような笑顔で、彼はその言葉を解き放つ。 「一人の女の子として、僕はマヤちゃんが好きです」 誰かに――すき、って言われた、ただそれだけ。 だけど確かなその言葉は、なんて輝いているんだろう。 大丈夫、僕はちゃんと好きだよ。 あたしも、ちゃんと好きだから。 そうやって、想いを委ねる怖さに勇気をくれる、「好き」という言葉の甘い響きに。 ちょっぴり恥ずかしいような、むず痒いような幸せに包まれながら、あたしも呟いた。 「好きです……」 何故だか、胸の片隅が、ほんのちょっと痛むのには――今は目をつぶろう。 あの日交わした秘密なんて、なかったことにしてしまおう。 蓋をして、二度と開かないように――奥底にしまっておかないと……あたしは…… web拍手 by FC2

last updated/10/12/05

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