アンナ・カレーニナ――
舞台は19世紀末、ロシア社交界。
美貌、魅力、知性、地位、財産、愛する息子・・・
人が望みうる全てを兼ね備えた完璧なる女性。
ただひとつ、冷え切った夫との愛情の他は。
その心の隙間に滑り込んむ、若く野心に満ちた男。
男との間に宿した子ども、駆け落ち、愛息子との別れ、交錯する愛憎の糸、
そして行き着くふたりの愛の壁・・・越えられない溝に嘆き、自殺するアンナ――
幕が上がったその瞬間から、マヤの心は舞台世界に吸い込まれてゆく。
主人公・アンナの人生に「自らを重ねる」のではない、
彼女とマヤの生き方や環境、価値観にはあまりに大きな隔たりがあるから・・・それは違う。
重ね合わせるのではなく、マヤはアンナにまったく同化する。
泣き、笑い、慄き、怒り、胸を高鳴らせ、絶望に打ちひしがれる。
たった三時間足らずの時間は、なんと色濃くそして短いことだろう?
時に思うのだ、演じている時はほとんど本能的に感じられる。
――この三時間と、今まで生きてきた二十年足らずの時間、
どちらがどれだけ長く短いのか、そしてどちらが「本当」でどちらが「嘘」なのか?
そんな区別が存在するのかどうかさえ・・・わからなくなる。
誰かに・・・呼ばれるまでは。
名前を、「北島マヤ」と、呼ばれることで引き戻されるまでは。
――だから、ふいに(としか感じられなかった)降りた緞帳により、今まで生きていた世界が急に遮られてしまった時、
つまり第一幕と二幕の間の休憩時間に突然誰かに頭を軽く叩かれても、暫く何がおこったのか理解できなかった。
・・・三度、叩かれてやっと我に返った。
そっと左手の空席に顔を遣り、それからたっぷり三秒半、目を見開いた。
情報がゆっくりと、視神経から脳に辿り着く感覚を味わった。
それくらい、目の前の速水真澄は、今の意識化では異質なものに見えたのだ。
・・・それくらいお見通しだと、呆れたような、面白くなさそうな、
それでも抑えようもない愛情を…完璧な造作の顔と佇まいの下に巧妙に織り交ぜ、
速水真澄はお得意の皮肉な笑みを浮べてみせた。
「頼むから、携帯電話くらいちゃんと携帯しろ」
「速水さん・・・!」
「遅れたのは俺の方なのに、どう考えても君の立場が不利だな」
真澄は丸めたパンフレットでもう一度軽くマヤの髪に触れ、
それからわざとらしいほどゆっくりと足を組みなおして、それを広げた。
「ん?今日のカレーニンは代役なのか?聞いてないぞ・・・」
瞼を伏せ、ぱらぱらとカタログを捲ってキャストを確認する。
素早く劇場内の様子を観察し、ちらっと腕時計を見遣り・・・
それから、ふとマヤの呆気にとられた顔を覗き込んだ。
「似合ってるな、それ」
色素の薄い、長い睫に縁取られた奥の虹彩――
その中に自分が映りこんでいるのが、オレンジ色の劇場の光にはっきりと見て取れた。
それで思わず、マヤは首をすくめてしまう。
なぜならその瞳が・・・さっきまでの何気なさが嘘のように、じっと自分の首元に注がれているので。
「え、そうですか?あんまり・・・こういうの、つけないから・・・」
「選んだ人のセンスがいいんだろ」
「これは、紫の薔薇の人に」
「だから、俺のセンスがいいわけだ」
ぐっ、と言葉に詰まる。
どうしてこういう台詞を、なんの躊躇いもなく言えるのだろう、この人は。
マヤは小さなシルバーのネックレス――小さな王冠に小さなリングがついた――から恐る恐る指を離すと、ドギマギと身体を傾けた。
真澄は再び何気なさを取り戻し、パンフレットに視線を遣る。
だが、そんな自分の横顔を穴が開くほど見つめている、
そして何を言えばいいのかと彷徨う視線に気づいていないわけがない。
真澄の視線がパンフレットの一点でじっと留まる。
それから、少し唇を開き、顔を上げて、言葉を探して――もう一度、視線がマヤを捉える。
見上げる視線と見下ろす視線は、この隣同士の僅かな隙間では驚くほど近い。
一方が唇の端を歪め、もう一方が緩める。
そして、ふたり同時に呟いた。
「バーカ」
「・・・」
「・・・」
それから、糸が切れたようにぽんぽんと言葉が弾ける。
「・・なんで、バカなんですかっ」
「『携帯』の意味わかってるのか?」
「同じこと何度も突っ込まないでください」
「何度言われてもわからんだろう、多分、君は」
「っ――それは、だって、昨日は打ち上げで」
「ああ、あれだけ酔っ払えば朝もろくに起きられないだろうし
鳴ってる電話にもちっとも気づかないんだろうな」
「ちゃんと起きたんです!女の子にはいろいろ準備があって・・・」
「そして突然泣くし怒るし、全く大変だな、女の子って生き物は」
「それは・・・!それは、本当にすみま・・・申し訳ない、です・・・」
さっと紅くなり、それから青ざめて、マヤはうなだれ、膝の上で両手を揉んだ。
遂に真澄は堪えきれなくなり、笑い出しそうになるのを苦心して押さえ込む。
額を抱えるようにしてあてがわれたその左手の中指に、
珍しく細めのリングがはめられていることにもマヤは気づかない。
「あれは、本当にすみません、ちょっと、自分でも何であんな・・・」
「それなりに理由があるんだろ、俺に腹を立てる」
「そんなの、ないです!ただ酔っ払って・・・バカでした・・・私が。」
「よろしい、自覚しただけ進歩したな」
「速水さん・・・」
「何だ」
なんで、どうして・・・?
いろんな疑問が一気に膨れ上がり、その渦の中からひとつの言葉が飛び出しそうになった。
今朝、悩みながら仕度する中でも最後にどうしても辿り着いてしまった疑問に。
だがその言葉を発する前に、開幕ベルが再び鳴り響いた。
その瞬間、マヤの目の色がすっと変化する。
舞台に立つ前ほどではないにせよ、少なくとも「隣にいる速水真澄≒紫の薔薇の人」
の存在が一瞬霞んでしまうほどに・・・引き寄せられてならない、不思議な世界へと。
場内のざわめきが頂点に達し、それから一気に静まり返る。
照明が点々と消え、最後の現実の光がゆっくりと闇に吸い込まれるまで、真澄は隣の小さな横顔を見つめ続けていた。
自分の贈り物を身につけた女の子が側にいて、それを堂々と眺め愉しむことができる――
それがこんなにも快いものだとは。
今までプレゼントを贈り贈られることなどには慣れきっているはずの速水真澄、初めての体験だった。
どんな煌びやかな女優にも著名人にも、こんな具合に贈り物の行方を心配したり期待することなどまるでなかったのだ。
だが、マヤは受け取ってくれた。
その正体を――明かしてしまった今となっても、受け入れてくれた。
何気ないはずがなく、胸を突き上げるような興奮をずっと堪えている。
幕が開いた舞台世界と自分が遠く隔たったこの今になってようやく、
真澄は内面の落ち着きを取り戻し、浅く溜息をついて・・・
照明の影に浮かびあがる、抱え込みたいほど愛しい輪郭を視線でなぞった。
浮かべた笑みは少しも皮肉なものではなく、むしろ穏やかでかつ少しばかりの寂寥感をも湛える。
だってそうだろう、SのB21と20、隣同士に並ぶ座席の間隔以上に、今ここにいる自分と彼女の距離は果てしなく遠い。
まして彼女が舞台に立ち、それを観客席で見守るあの時間は・・・
至福の時間、そして耐えられないほど苦しくもある、あの時間は。
そこにいる彼女は彼女であって彼女ではない。
その心に自分の影などない。
だが・・・だがそれでも。
今、一番近くにいるのは他の誰でもない、自分なのだ。
アンナの波乱の人生が急展開を迎え、そして破滅に向かって落ちてゆく。
別れた息子への愛情と苦悩、利己愛の裏返しで自分を寛容する夫、
未熟さを嘆きながらもアンナを追い求める愛人、
それは求めても得られない偶像を追いかけるにも似た苦しい愛。
そして遂に、アンナの中に残酷な啓示が下される。
愛されているのに愛されていない、嫉妬していないはずなのに満たされない。
愛する前も今も何も変わらない、最初からないものを空しく求めているだけ――
我ながら、初めてマヤを「紫の薔薇の人」として招待するのがこの『アンナ・カレーニナ』であるのが
果たして「いい」選択だったのだろうか、とふと真澄は思った。
正直なところ、そこに隠された意図があったかどうかは自分にもわからないのだ。
それでもこの残酷な愛情の結末は、最後に自殺することで苦悩から解き放たれようとする女性の生き様は、
自分のこれまでの人生・・・そしてこの先の未来において、決して無関係だとは言い切れないのではないか・・・とも思う。
そもそも彼女の気持ちがどうかだなんて。
スキかキライかなんてわからないと、現に彼女は前にそう言って困り果てていた。
もしも、もしも、だ。
この先もこうして側にいることが許されて、一緒の時間を過ごせるかもしれない。
だけど、その先は?
その先に俺は満足できるのか?
『――私は嫉妬なんてしてない、満たされないだけ。』
いや、俺は嫉妬する、いつまでも満たされない。
紫の薔薇の想いに縛られて、彼女の寛容と愛情の意味をどこまでも考えてしまう。
愛することに意味を求めるなんて馬鹿げていると人は笑うかもしれない。
計算高くて野心家で、常に相手の微笑みの裏の裏を窺うように生きてきたが故、
愛することに誰よりも疑い深くて、慎重で、臆病で、やがては侮蔑して、踏み潰してきた。
その速水真澄は今、死ぬほど恐れている。
この小さな少女への愛情が、無残に壊れて散ってしまうのを。
・・・今、ようやく隣に座れるくらいで小躍りするような小さな愛情が、
やがて乾いた深い溝の存在に怯えるようになるのではないかと、
不安になるほど・・・隣のマヤとの差は遠いように思われる。
だから、思わず手を伸ばしてしまう。
どうしたって、側にいたいと思ってしまう。
舞台はクライマックスを迎え、観客の緊張感が凝縮する。
マヤはアンナが鉄道に身を投げた瞬間ビクリと半身を震わせ、座席の肘掛に左手をやり、そのまま硬直した。
僅かに開いた唇が、アンナの最後の呟きをなぞる。
耐えられなくなり、真澄は遂にそっと手を伸ばした。
始めはぎこちなく――だが、あっという間に届いてしまう、細い指先に。
動かないままのその指先に、まず人差し指で触れ、それから中指で触れた。
その僅かな皮膚の接点から、痛いほどの温もりと寂しさが突きあがってきた。
それも、今の彼女には伝わるまい。
だから・・・もっと、触れていたくて、もっと手を伸ばす。
そっと、掌で掌を包み込んだ。
驚いたことに、彼女は気づいた。
涙に濡れた瞳で真澄を見上げ、それからふたりの間の掌を見つめた。
真澄は指先に力を込めてかるく握り、
それから、そっとその小さな掌をを自分の掌ごと唇へと運んだ。
あくまでそっと・・・それもマヤの瞳は一度ちらりと見遣っただけで。
見詰め合うことなんてできない。
その奥に潜むものを正視できるほど、この愛情に自信があるわけじゃない。
ただ、拒まれないのであれば――そのままでいるだけだ。
一番近いところで、そっと佇むだけ。
あてがった唇と、小さな手の甲の薄い皮膚との間は、ますます熱く寂しく、
・・・愛しおしいと、真澄は思った。
ロミジュリであろうとアンナであろうと、永遠の愛とやらには必ず絶望が潜んでるものだと信じて疑わない天邪鬼でございます。
それはマスマヤも言うに及ばず。でも、「今この瞬間」を共有することはできて、その一瞬に全てを賭けることができればいうことなしなんじゃないかと。
旧作も今も、ただその瞬間だけを描きたくてガラパロを書いてる気がします。今はエロ描写でそれがどれだけ再現できるか試してるとこが大きいですが(笑
・・・おお、今回は珍しく後書きらしい後書きが・・・更新間隔が微妙ですんません。沢山の拍手、本当に感謝感激です!!
last updated/12/03/21