蔦に埋もれるようにしてあるその出入り口は、真澄が立つとますます小さく見える。
カラン、と音がしてドアが開き、促されるがままに足を踏み入れると、そこには。
まるで何かの物語にでも出てきそうな、
薄暗く秘密めいた小部屋が広がっていたのだ――
壁から天井を埋め尽くす、新聞紙に雑誌、古本の山、木製の人形、安っぽいタペストリー。
不釣合いなほど大きな掛け時計に、古い映画のポスター、アフリカの仮面、銀製の灰皿。
古今東西、時代も様式もバラバラの古道具や雑貨がこれでもかと積み重なり、並べ立てられ、
その中にやっと人が三人座れる程の、小さなカウンターと椅子が並んでいる。
窓がないので、小部屋の中は淡い白熱灯にぼんやりと照らされている。
外も静か過ぎるほど静かで寒かったのだが、この部屋の中は雑多なモノの存在感と沈黙が奇妙に調和して、
暖房が効いているのだろう、先程まで感覚の薄かった指先がじんわり温かみを帯びるのをマヤは感じた。
足元から頭の上までゆっくりと辺りを見回す。
見れば見るほど、この部屋の主人はいったいどんな人物なのか、ここは何処なのか、
そもそも真澄がなぜ自分をここに連れてきたのかがわかなくなる。
まるで不思議の国の扉をくぐってしまったアリスの気分だ。
それでも、好奇心が先程までの不安と涙を押しやってくれた。
「速水さん、ここは・・・?」
真澄は自分のコートを脱いで壁にかけると、そのままマヤがコートを脱ぐのを手伝い、二人で並んで椅子に座った。
大きな真澄と小さなマヤが座ると、小部屋の空間がますます狭く密着するようだ。
カウンターの奥は――真っ暗でよく見えないが、どうやら同じく雑多なモノが密集した台所のように見える。
木製のカウンターは見事に磨きこまれ、その上に銅製のベルが置いてあった。
真澄が人差し指でその先を押す。
リンリン、と鋭い音が響き――数秒たつと、
「・・・はあい、ただいま」
遠くから響く、穏やかな声。
パタパタと階段を駆け下りる足音がして――
急に、静まり返った小部屋に音楽が響きわたる。
ポリーニのショパン。
第一番、ハ長調。
華麗な分散和音が小部屋の空気を振るわせる。
と、ぱっとカウンターの奥の台所に電気がついた。
「いらっしゃいませ、速水さん。お待ちしてましたわ」
台所の奥のドアが開き、中から飛び出してきたのは、小柄で、優しい目をした――
中年も半ばに差しかかろうかという年頃の婦人。
キルトのワンピースに真っ白なエプロンをつけ、長い髪を頭の上でお団子に結い上げている。
(――スプーンおばさんみたい・・・)
と、マヤは昔アニメで見たキャラクターを思い出し、口元を緩めた。
この部屋の中に出てくる登場人物としては、ファンタジーな魅力があまりにぴったりだ。
「少し遅くなって申し訳ありません、しかも急に――」
「構いませんよ、久しぶりにいらっしゃるんですもの。
それも、こんな可愛いお嬢さんをお連れになって」
「あ・・・お、お邪魔します」
マヤがはっと頭を下げると、その女性は鈴を転がすような声で笑った。
「いらっしゃい、私は福留といいます。今日はゆっくりしてらしてね」
「は、はい」
「じゃあ速水さん、本日のメニューはこちら。
ちょっと待ってらしてね、すぐにお持ちしますわ」
女性は来たときと同じように、パタパタと階段を上っていった。
「速水さん、一体――」
「彼女とはもう二十年来の付き合いだ、子どもの頃はしょっちゅうここに来てた」
「え?」
「常連客だったんだよ、俺と母は」
「お客さん――?」
真澄は先程渡された白い紙を二人の間に開いた。
そこに小さくタイプされた黄金色の文字を、マヤは声に出して読んでみる。
「『喫茶・三畳庵』・・・喫茶店なんですか、ここ!?」
「ああ、知る人ぞ知る店だぞ、福留さんのご主人が始めた店でね。
5年前からは毎週日曜の午前10時から午後6時までしか開いてない。
しかもメニューは『本日のケーキ』が一種類と紅茶だけ。
それだけのためにわざわざ遠くからやってくる客もいるんだ・・・だから完全予約制」
「え・・・でも、このメニューは――ケーキ、沢山ありますよ?
全部で・・・きゃっ、10種類もある!」
「ああ、三畳庵のケーキを食べ放題だなんて、普通じゃ考えられないな」
「あ・・・じゃあ、ご機嫌取りって」
「好きなだけどうぞ、勿論イチゴのショートケーキだってある」
ぱっと笑顔になって、それがあまりに単純すぎることに気づいて、真っ赤になった。
だがその様子をいつもの高笑いでからかわれ、いつもの膨れっ面で歯向かってみたら、
いつもどおりの二人のような気がしてきた――
だけど少し前とは明らかに違う、互いに秘密と不安と希望を抱えあった、不思議な関係のふたりとして。
――まずはふわふわとクリームが口の中で蕩ける、イチゴのショートケーキ。
続いて何層にも積んだスポンジをミルククリームで包みこんだ、まるで小さなお城のような紅茶のケーキ。
白い粉雪を散らした濃厚なクラシックショコラ、
和栗を使用した渋皮煮入りのモンブラン、色鮮やかな無花果とカスタードのタルト、
どうやって作るのかと溜息が出るほど美しい層を成す、カシスのティラミス。
福留夫人が次々と運んでくるケーキのひとつひとつにマヤは歓声を上げ、しげしげと眺め、
それからその小さな芸術品をフォークで崩してしまうのが勿体ないと嘆きながら口に運んだ。
福留夫人は、紅茶を煎れながらそのレシピやケーキの由来、作り方などを、
特に小難しく説明するでもなく、料理にはとんと疎いマヤにも楽しめるように話してくれた。
真澄もいろいろと質問しながらそのひとつひとつのポイントを点いて褒め、
マヤが最高の笑顔を浮かべて一口ずつ頬張るのを、時にからかい、時に賞賛しながら眺めている。
「しかし・・・いろんなケーキがあるもんだな、色も形も。
女の子はみんなこういうのが好きなのか?」
「ええ、まあ・・・速水さんは食べないんですか?」
「見てるだけで十分だよ。でもまあ、一口くらいは」
・・・と、真澄は紅茶のカップに口をつけるためにマヤが置いたフォークを摘むと、
何気ない顔で食べかけの小山から一口切り分け、口に運んでしまった。
瞬間、ドクン、と思ったよりも大きな音で心臓が飛び跳ねたことなんて、
この淡い照明の下にぼんやりと浮かび上がる穏やかな笑顔の男は知っているのだろうか?
斜めに傾けたカップの底に映る、心なしか紅い頬の自分を見つめながら、
マヤは次の台詞を一生懸命考え出そうとする。
効き始めた暖房のせいなのか、すぐ側の真澄のせいなのか。
軽やかなショパンのリズムにたゆたいながら、じんわりと、心の奥から、暖かい。
「それにしても・・・いくら美味しいからってもう7つ目だぞ」
「どうせ速水さんのおごりなんでしょ?
それにこんなに美味しいケーキ、本当に初めてだもん。幾らでも食べちゃう」
「ええ、幾らでも好きなだけどうぞ。
そのつもりでわざわざ半年前から福留さんに頼んでたんだから」
真澄は煙草に火を点けようとしたが、紅茶の香りが飛ぶのを躊躇し、懐にしまいこんだ。
「半年!?」
「ああ、今は彼女一人で道楽のようにしてやってる店だから。
これだけの種類を、これ程の高いレベルで、しかもたった一日のために用意するのは並じゃできない」
「久しぶりに速水さんからご連絡をいただいた時、始めは驚いたんですよ」
真澄のためにコーヒーを淹れていた、カウンターの奥の福留夫人が笑う。
「知らなかった・・・わ、私のために、ですか?」
「当然。舞台にケーキに、君の好きなものをいつでも最高のレベルで贈呈する、
とはいえ、気まぐれな女優様の機嫌をとるのはなかなかに難しい」
「ちょっと速水さん、捻くれるのはおよしなさいな。
ここに連れてきたからには、女優様じゃなくて可愛い女の子って言うの」
すぐ側で聞いていた福留夫人が鋭く言葉を挟み、
呆気にとられたマヤと肩をすくめる真澄の間にカップを置く。
「それにしても久しぶりだわ、ここに移転して週一になってから一度もいらしてなかったわね」
「それまでは、結構来てたんですか、速水さん?」
マヤは両眉を上げ、真澄の顔をちらりとのぞき見た。
真澄は湯気を立てるカップの向こうで長い睫を伏せ、軽くうなずく。
「子どもの頃はよくいらっしゃったわよね、お母様とご一緒に。」
「ケーキ、子どもの頃は好きだったんですか?」
「好きどころか、毎回二つも三つも平らげてましたよ、マー君ったら。
あらごめんなさい、うっかりするとつい昔みたいに呼んじゃう」
「ちょっと、福留さん」
真澄は多少慌てた表情でカップを置き、頬杖をつく。
ふと横を見ると、案の定、昔の呼び名を始めて耳にしたマヤがそのギャップに笑い震えている。
「し、信じられない。速水さんが、ここでケーキを幾つも?」
「前の店は表通りでもっと広かったのよ。
主人が亡くなって・・・5年前に、私の実家だったここの一階を改築して」
福留夫人はカウンター越しにマヤのすぐ横の壁に貼られた古い写真を指差した。
成程、小ぢんまりした、こことは違う白壁の店先に、10年前の夫人と背の高い福留主人が並んで立っている。
「三畳庵っていうのはね、主人と私がずっと開きたかったお店なの。
落ち着いたら、畳三畳分しかないような小さな小さな喫茶店をやろうって。
仲良しのお友達を少しだけ招いて、ゆっくり寛いでもらえるような」
「懐かしいですね・・・あの窓際の席でよくそんな話を」
「主人と、私と、文さん・・・あ、真澄君のお母様ね。それと瀬名さんと、不動さんと。
まだ小さな真澄君も側にいて、その時は絶対僕も呼んでねって言って」
昔馴染みのふたりが、マヤ越しに古い写真を眺め、目を細めている。
あの『大都芸能の水真澄』と、小さな可愛らしい福留夫人が並んでいる様はどこかアンバランスな光景で、
さらにこの真澄にも子どもの頃があって、この夫人の店に母親と一緒にケーキを食べに来て・・・
そんな過去など自分なんかが知るはずもないのに、
今この場に二人と一緒にいると当たりのような気がしてくるからまた不思議だ。
「でも、思ったよりも早く実現しちゃった、この店も」
「ただでさえ伝説の店だったのに、ますます伝説じみてきましたね」
「そうねえ・・・今は雑誌の取材なんかもお断りしてるから、
本当に昔馴染みのお客様しかいらっしゃらないわ」
「母も亡くなりましたからね」
「文さんは、亡くなられる前の年まではよくいらしてたのよ。あなたのこともよく話してた・・・」
「ええ、聞いてました。福留さんの店に行って帰ってきた時だけ、母は心から寛いでいたんです」
「そう・・・よかった・・・懐かしい方がいらっしゃった時だけ、時間を取り戻す店なのね、ここは」
ピアノの音が途絶え、カチカチと、大きな掛け時計の秒針の音がやけに鮮やかに響く。
福留夫人の目尻に、少しだけ涙が滲んだような気がして、マヤはそっと目を伏せた。
隣の真澄は、暫しの沈黙の後再びカップに指を伸ばす。
そしてふとマヤの顔を覗き込み、悪戯っぽそうな笑顔を浮かべる。
自分の秘密をそっと打ち明けた時に見せる、少年のような微笑を。
「いい店だろう?また来るか?」
「・・・でも、いいんですか?私が・・・」
「勿論ですよ、またいらっしゃいな。
マヤちゃんにだけ、いつでも特別メニューを用意させていただくから」
「あ、いやでも流石に10種類は、もう。
す、すみません、いくら好きだからってこんなにいただいちゃって」
九つ目のシュークリームが綺麗に平らげられた小皿を前に、マヤは真っ赤になって肩を竦めた。
福留夫人は軽やかに笑い声をたて、真澄も声を出してを肩を震わせながら、
「そうだろうなあ、流石にこれだけの食べ放題は今日で最後にしておこうか」
「あら、じゃあ最後のひとつは速水さん・・・真澄君も一緒にどうぞ。」
「・・・あれ、ですか?」
「ええ、あれよ」
と、そこで真澄が自分のコートのポケットの振動に気がつき、中から携帯電話を取り出す。
「これは・・・失礼、すぐ戻ります」
液晶画面を見て顔をしかめると、よほど大事な用事なのか、真澄は席を外して店の外へと出た。
マヤはその様子をぽかんと見守り、それからカウンターの向こうの福留夫人に向かう。
夫人は穏やかな眦に小皺を寄せて、その様子を愛おしそうに眺めていた。
「あの、福留さん」
「なあに?」
「速水さん、こんな大切な場所に・・・どうして私なんかを連れてきたんでしょうか?
私、ただの・・・大都にも属してない、女優なのに」
「あら、どんな大女優さんだって彼がここに連れてくるはずないわ。
ここは――本当に大切な人しか、連れてこない店なんだから」
「た、大切、ですか・・・?」
「ええ、長いことファンになっている、ケーキが大好きな女性のために――
一日だけのとっておきのメニューをって、半年前からね。
大切な人。
長いことファンの――女性。
そんな風に自分のことを真澄が紹介してくれているという事実に、眩暈さえ覚えながら。
こんなに大事な場所に、自分を連れてきてくれたことに。
心の中の大切な場所を、そっと覗かせてくれたことに。
身震いするほどの――感動が、マヤの全身を僅かに震えさせる。
ここの所、紫の薔薇にだけ固執していた自分がとてつもなく恥ずかしくなる。
真澄はこうやって自分を喜ばせるために半年も前から用意していてくれたというのに。
「最後のはね、真澄君にしか焼かないって決めてるケーキなのよ。
そうね・・・もう5、6年ぶりかしら?」
「・・・あ、『秘密のケーキ』ってある、これですか?」
マヤはメニューをひらくと、小さなカタカナの羅列の最後を指差した。
福留夫人はゆっくりと頷き、どこか悲しい目をしながら、そっとその文字の上をなぞった。
小さな指先の貝殻のような爪はきちんと切り揃えられて、
間接のやわらかな皺までが、この夫人の心持の優しさを表しているかのようだった。
「真澄君のお母様が亡くなられて――三度だけ、彼は店に来た。
高校の時に一度、大学生になって一度、アメリカに留学する前に、一度。
でも駄目だった・・・あのケーキは、私にも主人にも決して再現できなかったのよ、それから・・・」
カラン、と音がして。
ふっと外の風が小さな部屋を吹きぬけ、それからドアが閉まる。
少し白い顔をした真澄が、再びマヤの隣に腰を下ろした。
「では、最後に」
「ええ」
真澄が冷たくなった手のひらを合わせ、少し温くなったコーヒーを啜る。
――また、目が合う。
もうドギマギはせずに、マヤはそっと、微笑み返す。
もっと、知りたい。
この人を――長い間、大切なファンであった、この人を。
もっと・・・
そういえばケーキバイキングなんかで10個も食べられたのは高校生が最初で最後だったような・・・女子高生の甘いモノ欲恐るべしですねー(笑
『三畳庵』のモデルは全国各地の路地裏にある謎の喫茶店たちですが、特に東京は谷中の『喫茶乱歩』のイメージです。
静けさと狭さは京都・高瀬川沿いの『喫茶ソワレ』かなぁ。
『喫茶乱歩』は1回しか行ったことないんですが強烈な印象でしたねー ああいう意味不明なレトロ感、大好きです。
ポリーニのショパンとケーキにはこの作品を書いた当時の私の個人的な思い出が詰まってるんですが、最終話に長すぎる後書きをひっつけたいと思います(笑 あともう少し、お付き合い下さいませ。
last updated/12/5/3