最後のケーキは、秘密のケーキ――
一体何が出てくるのだろうかと、カウンター向こうの魔法使いの動きをマヤはじっと見守る。
丸いポットに、新しく淹れられた熱い紅茶。
銀の盆の上に乗った、真っ白な平皿、小さなフォーク。
切り分けられるふた切れのケーキ、それは――
「・・・シフォンケーキ?」
「ええ、どうぞ」
今まで出てきた彩りも形も複雑で繊細なケーキたちは違う。
それは極めてシンプルで素朴な、きつね色のシフォンケーキ。
「ちょっと、びっくりしたかしら?」
福留夫人と真澄が互いに含み笑いを交わし、二人の前にちょこんとシフォンの小山が並ぶ。
切り分けようとすると、驚くほどしっとりと弾力性があり、
フォークとケーキの断面が皿に付いても、その周囲の生地には皹ひとつ入らない。
それでいて刃先をゆっくりずらすと、形を崩すことなく見事に切り分けられた。
その小さな三角柱を、そっと一口、頬張ってみる。
隣の真澄も、やや大きな三角柱を、ゆっくりと。
・・・今まで、いろんな感動を味わってきた。
勿論、その感動はお芝居を中心に回っていて、それに伴う紫の薔薇と一緒に回っていた。
だが、「本当に美味しいもの」を食べてこれ程感動したのは――多分、生まれて初めてだと思う。
ケーキはどんなケーキだって好きだけれど。
今、真澄と一緒に食べたケーキの味は・・・
きっと、一生、忘れられないものになる。
「ああ、この味――本当に久しぶりだ」
真澄が、ゆっくりと呟く。
福留夫人は頬杖をついて、じっとその様子を見守る。
「でも、お母様のとは違うでしょう?」
「・・・ええ・・・でも、福留さんのシフォンです。本当に懐かしい」
低いその声が、少しだけ掠れていたような気がした。
喉の奥へ魔法のように消えてしまったシフォンのひと欠けを、マヤはもう一度、
ゆっくりと切り分け、更にゆっくりと口に運ぶ。
カップからゆらゆらと白い湯気が立ち上り、心地良くて切ない沈黙が三人を包み込む。
――それから、真澄がポツポツと話してくれた。
福留夫人と真澄の母、藤村文は学生時代からの親友であったこと。
共にお菓子作りが大好きで、二人してよく作っていたのが、このシンプルなシフォンケーキ。
「シフォンというのは絹織物という意味。
ビスキュイ・ア・ラ・キュイエール、ジョコンド、ジェノワーズ・・・
数あるスポンジ生地の中でも最も柔らかくて、しっとりした口当たりのケーキ。
誤魔化しが効かない分、最も単純かつ難しいケーキといえるだろうな」
その後福留夫人はプロのパティシエとして修行するためにパリへと留学し、そこで福留主人と出会った。
文は真澄の実の父親と結婚したものの、その父は真澄が二才の時に他界。
母子ふたりきりの苦しい生活の中でもお菓子作りは趣味程度に続けていて、
子どもの頃の真澄によく作ってくれたのがやはりこのシンプルシフォンケーキだった――
「私たち二人とも懲り性だったから、シフォンには物凄くこだわってたのよ。
真澄君はそんなお母様のケーキを食べて育ったのよね・・・」
初めて明かされる、真澄の過去。
遠い幻のようでいて、確かに今と連動する過去。
マヤはこの時間と空間の一瞬たりとも逃さぬように、と全神経を集中させる。
このたった一口のケーキの秘密の味も、逃さぬように、心の奥に留めておく。
福留夫妻が日本に戻って店を始めた頃には、既に藤村親子は速水の家に入っていた。
その後文はまだ若くして他界し、真澄は三度、この店を訪れることになる。
「でも駄目なのよねえ。文さんのレシピを真澄君が持ってきてくれて、
それを元に私も主人も彼女のシフォンを再現しようって頑張ったんだけど」
「本当に、あの当時は生意気なことばかり言って。申し訳ありませんでした。
自分でも何度か試してみたんですが・・・どうしてもうまくいかなくて」
「ええっ、速水さんもシフォンケーキを?作ったんですか!?」
「ああ、絶対君よりはうまく作れると思うぞ」
真澄は最後の一口を頬張って、クスクスと笑いながらマヤを見つめる。
「主人と真澄君と私と三人で、前の店のキッチンでね。
卵白の量が違うとか、泡立てのテクニックや火力を微妙に調節したり、
そりゃあいろいろ試したのよ。なのに試食後の真澄君ったらいつも」
「福留さん、もうその話は勘弁して下さいよ・・・
日本を代表するパティシエ夫妻に向かって本当に嫌な客でした、お恥ずかしい限りです」
「・・どうせ眉間にすっごいシワ寄せてイヤミ言ったんでしょ?」
「あはっ、その通りよ!えらいしかめっ面で黙り込んだ後に・・・
『美味しいですよ、福留さんのシフォンですね』って、
このキレイな顔でニコッて微笑んで言うんだから。流石ね、マヤちゃん!」
店内に明るい笑い声が響く。
昔話はとりとめもなく、時計は過去と今を刻み続けて、愉しいひと時は流れてゆく。
――遂にふたりは暇乞いを告げ、
カウンターを潜り抜けて店先まで出た魔法使いに見送られながら、
再び並んで真冬の空の下を歩き出す。
黄昏時はいつどんな時だって懐かしくて切ないものだけれど。
この景色だって今この瞬間から過去になってしまうものだけれど。
「思い出の味には勝てっこない――」
「え?」
「三度目のシフォンの後の、福留主人の言葉だよ」
真澄は飴色に滲んで広がる雲を眺め、ゆっくりと歩く。
来た時とは違い、マヤの歩幅に合わせるようにして、ゆっくりと。
「母が死んでから、義父は俺の知らないうちに母の持ち物を全て処分してしまって、
後に残ったのは彼女を知る人たちの中の思い出だけ。
…だから俺はあの店を訪れた、母のシフォンにもう一度出会えないかと、期待して」
だけど、思い出の味には決して勝てっこない。
どれほどそれに近くても、あの時の風景、あの時の空気、あの時のあの人は、もうここにはいないから。
…だからこの街からも自然と足が遠のいた。
速水の家で生き抜くために、無我夢中にならざるを得なかったという理由もあるけれど、
それ以上に今はもうないものを求める辛さに耐えられなかった。
留学して帰国すれば大都の副社長として業務を任されることが決定していて、
最後にもう一度だけ、藤村真澄としてこの街にやって来た時には福留主人が亡くなっていた。
涙にやつれた夫人がその時焼いてくれたシフォンは、
今まで食べたどんなケーキよりも繊細で、切なくて、ほろ甘かった。
「でも、新しい思い出ができました、私には」
「え?」
真澄は、すぐ眼の下にある愛しい少女の顔を見下ろす。
マヤは言葉を選びながら、もう一度呟いた。
「私にとっては、速水さんと食べた初めてのシフォンです・・・
だから、新しい思い出の味なんです、この先どんなケーキにも勝てっこないような」
それから、猛烈に恥ずかしくなって、ぱっと急に走り出した。
冬の黄昏の色合いはみるみるうちに変化する。
店を出たばかりの頃はまだ明るかった東の空には斑模様の藍色が広がり、
西の空には今日最後の太陽の名残がじんわりと広がっている。
真澄は目を細めて、灰色のアスファルトの上にぽつんと咲いた花のような、
小さな白いコートの背中を見つめる。
「マヤ」
小さな声で、呟いてみる。
勿論、離れた所にいるマヤには届かない。
此処にいる自分と彼方にいる彼女の距離は――時に伸び、時に縮みながら、
それでも思い出でつながっている。
一瞬一瞬の、かけがえのない思い出の連鎖で。
「・・・マヤ!」
どこまで行くつもりなのか、ふざけた様に走っていたマヤの足がピタリと止まる。
エンジ色だった西の空は、ふと目を離した隙に薄紫のベールを纏う。
両手をコートのポケットの中に突っ込んだままでもう一度、真澄は声をあげる。
「マヤ、星を見に行くぞ!」
「星!?」
紫の薔薇の理由を――未だ知ることのないあの少女に――今日最後の贈り物と共に、奉げよう。
もうすぐに、宵闇が迫り来る。
なんと・・・GWの連日投稿からまたこんなに時間が空いてしまいました><
このあたりの真澄の過去とかは超捏造なんですけど、、まあこんなIFストーリーがあっても原作世界には差し支えないかな?という感じで書いていたと思います。
「思い出の味には勝てない」は当時の私がある人から言われた台詞でもありまして。確かにそうなんですよねえ・・・特に亡くなった人の味は><
今亡きうちのばーさまが昔作ってくれた紅芋のお粥っぽいのの再現を母に頼んでるんですが、なかなか復活しないんですよね〜
悩みながら再現しようと試みる、その過程が思い出に匹敵するのかもな、とも思ったりします。
基本原作に沿って話が進むので次回はそう〜プラネタ〜^^お楽しみ頂けると嬉しいです♪
last updated/12/5/18