第4話

 



一ヶ月ぶりにマンションのドアを開けると、慌しく出発した時そのままの光景が時を止めたまま二人を出迎えた。
スーツケースに収まりきらなかった服、直前に突っ込み忘れたサニタリー用品のサブバック、あれこれと行き先を思案してはメモしていたノートに地図――
乱雑なそれらがソファの上に散らばっているのを、何か切ないような懐かしいような気持ちで眺める。

「ほら、やっぱり最初から忘れてる。誰だ、飛行機に置き忘れたとか言ったのは」

フローリングの床とソファの間に落ちていた小さなデジカメを拾い上げながら真澄があきれた口調で言った。
出発の日、出迎えに来た彼の目の前で繰り広げられていた嵐のような光景を思い出す。
マヤは何だかんだと訳の分からない理由を並べ立てながら、ちっともまとまらないスーツケースの中身の整理に悪戦苦闘していたのだった。

「あーっ、そんなとこに!?よかったあ、せっかく買ったばかりなのにすぐなくしちゃったかと思ってショックだったの」

「1ヶ月以上前から決まってた事なのに、何であんなドタバタになるんだ」

「だって……速水さん忙しいし、まさか本当に行けるなんて思ってなかったんだもん」

窓を開け放つと、やや冷たい風が吹き込んできて、停滞したままだった部屋の空気をかき混ぜた。
高層というわけではないが、周囲よりやや小高い場所に位置したこのマンションからは、街の風景が広々と眼下に広がる。今日のような天気の良い午後の眺めは最高だった。
真澄はベランダに肘を付きながら大きく深呼吸をし、目まぐるしく大陸から大陸へと移動した今回の旅を思い出していた。
映像や書物でしか知らなかった風景や文化、見知らぬ土地で行き交った人々、異なる言語の響き、時折身体に合わない食事、不愉快な旅客車両の振動――何もかもが新鮮で、心踊る、愉快な旅だった。
隣に、あの愛しい小さな存在があるというだけで、そうした体験の一つ一つが何百倍もの意味を持った。
生きることイコール仕事、といった今までの自分の生き方に笑い出したくなる程。

開放された自身は、自分でも驚くほど行き当たりばったりで、情熱のままにマヤを振り回し、振り回され、あくまで好きな事しかせず、そのせいで痛い目にもあったが、楽しくて仕方がなかった。
どこの街だったか、移動遊園地のようなイベントで空中一回転できるブランコに出会い、これこそチビちゃんの為にある遊具だ、と原則二人乗り禁止にも関わらず乗り込んで彼女が目を回したこともあったっけ――その時のマヤの顔を思い出す度に、含み笑いが止まらなくなる――まずい、そろそろ背後のマヤに気づかれてしまいそうだ。
冷血漢と揶揄され、自分でもそう自覚していたはずだが。
くだらないことで馬鹿笑いが止まらなくなってしまい、マヤに睨みつけられた事は数知れない。

感情の変化は肉体にも変化を与えた。
確かにこれまで「付き合いと健康の維持の為」の肉体の鍛錬は怠っていなかったが、ややハードな長旅に必要なのはそうした対処療法的な健康ではなく、しなやかに環境に対応できる身体なのだと気がついた。
質素な食事に慣れた頃にはやや体重も落ち、贅沢な外食に慣れきった身体から澱が落ちるように身が軽くなるのを自覚した。
東京にいる頃は暑さ寒さなどほとんど意識することもなかったのに、僅かな湿度や空気の変化に敏感になり、野生児のごとく聴覚も嗅覚も鋭くなった――お陰で、インドの安宿で火事に巻き込まれた時には真っ先に脱出に成功した程だ。
それが来週からは再びスーツを身に纏った”大都芸能の速水真澄”か……何だか信じられない。

「そういうの、サザエさん症候群っていうんですよ」

「何だって?」

「日曜日の夕方にサザエさんを観ると、楽しいけどちょっと憂鬱になりませんか?
 ああ、明日から月曜日か〜って。そういう気分のこと」

「自由業の君が日曜の夕方の憂鬱を知っているとは驚いた」

「もう、学校に通ってた頃だってあるんですってば」

からん、と木のサンダルが音を立てて、マヤが隣に並ぶ。
水色の空に、引き伸ばされたような薄い雲がどこまでも棚引いて、どこからかのんびりとした豆腐屋の笛の音までする──近頃都心で移動式の豆腐屋が復活したらしい、という話を思い出す──なんと呑気な午後だろうか。

「でもまだ木曜日ですよ――」

「…凄いな」

「え?」

「よく俺が考えてることがわかったな」

ぱらぱらと風に髪を揺らしながら、マヤはぽかんと真澄を見上げる。
その手には、真澄の大の苦手な外国製の激甘チョコレートマッシュルームの袋。

「そりゃあ、一ヶ月も一緒にいたら、わかりますよ。
 もう社長さんに戻るの面倒になっちゃったんじゃないかなって」

クスクス笑う彼女の、唇の端を指で拭う。
本当にマヤ、君は何もかもが甘くできている――

目を細めたまま、キスを落とす。

街中でのキスよりもやや深く――舌でチョコレートを搦めとって、少し眉をしかめる。
やはりこの手のチョコは苦手だ。
瞼を開けたマヤはしてやったりといった具体でにっと笑い、再び口の中に一つ、マッシュルームを放り込んだ。
真澄はその膨らんだ頬を指で摘み上げながら、欠伸を一つ浮かべる。

「これからは、遊ぶために働くことにするか」

「ええ!?」

「――まあ冗談だが、働き方を見直すことにするよ。俺自身も、会社も」

企業家としての野心も野望も、まだある。
が――それが全てではないことも、もうわかってしまった。

「アッサムで買った紅茶、煎れてくれないか。君のスーツケースに入れたはずだから」

「はい」

からん、とマヤが後ろを振り向いた瞬間。
何の前触れもなく、真澄の身体に情欲の衝動が走った。
――ので、その熱のままにマヤを羽交い締めにして床に倒れこむ。

「ぶっ――ちょ、速水さん!マシュマロが……」

倒れた瞬間、ラグに鼻先を突っ込んでしまい変な声が出る。
弾みで手を離れた袋から、コロコロと2、3個転がっていったマシュマロに思わず手を伸ばすと、

「あんな悪魔のような菓子は放っておけ」

と、大きな掌がかぶさってきた。

「う――重い、重いですって、潰れる!」

少しだけ身体をずらしたかと思えば、すぐさま腰に腕が回される。
ワンピースのファスナーが肩甲骨辺りまで引き下ろされ、膝先がスカートの裾を割って上へ上へと這い上がってゆく。
薄い衣服を通して伝わってくる真澄の熱に促され、マヤの脳裏にこれまで交わした陶酔の残像がフラッシュバックする。
初めての夜からこれまで、幾度となく交わした熱。
最早数え上げることも出来なくなった。
時も場所も構わず、真澄は欲しいと思った時にマヤを求め、マヤもそれに応じる――それがここ一ヶ月の二人の自然だった。

「もう……水城さんから、いつ連絡くるかわからないのに」

「だったら尚更、早いとこ済ませよう」

「な――あ、もう……んっ」

剥き出しになった背中に舌を這わせると、見る見るうちに肌は朱色に染まってゆく。
湿り気を帯びたそれを、指全体を駆使して掴みかかるように擦り上げる。
か細い骨の凹みに歯を立てると、一際高い声を上げて身を捩らせた。
やや性急かと思われたが、下着の隙間から中指と人差し指を突っ込んでみれば、くちゃっという水音と共に柔らかく沈み込んでいく。

「何だ、随分反応が早いな」

「だ、誰のせいですか――あっ……っ」

絶え間なく押し寄せる快感から逃げるように、マヤは両膝を立て、床の上を這い上がる。
その小さな身体をすっぽりと包み込んだまま、真澄は片方の腕をか細い首に回した。

「入れていいか?」

返事の代わりに、彼女の背中が僅かに戸惑う。
首筋に唇をあて、出来るだけ穏やかな口調で囁いた。

「今は、すぐイキたいんだ――」

「……」

「君は?」

「あたし、は――」

「イヤか?」

「――や、じゃ、ない」

そうだよな――と、頭の中で応える。
大好きだ、マヤ――本当に、好きすぎて、このまま二人で旅を続けられればと幾度思ったことか。
でも俺たちは帰ってきた、再び、この東京へ。
君は虹の世界で人々に夢を与える為に――俺はその光をより遠くへと届ける為に。

顎にかけていた指を、そっと口の中に落とし込む。
熱く濡れた薄い舌が待ち構えていたかのようにその指を迎え、奥へ奥へと忙しなく誘う。
誘われるがまま、昂ったものを背後から勢いよくマヤの中心に穿つ。
どこよりも熱く狭いそこはいとも簡単に真澄の心臓を捻り上げ、理性を弾け飛ばし、これ以上ない程の愛しさにいつも彼は叩きのめされる。
既に意識を手放し、反射的に腰を動かし続ける彼女に貪り尽き、欲望の全てをぶつける。
汗ばんだ肌と肌が密着し、湿っぽい破裂音がいつ果てるともなく続く。
ふ、と涼しい風が背筋を通り過ぎた時、ようやく真澄に忘我の一瞬が訪れた。
そのまま浮遊していると次に襲いかかるのはとんでもない寂寞感――
それが怖くて、またマヤに腕を伸ばしてしまう……全く、鬱屈した想いを抱えつづけた日々の罪深さときたら底がない。

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last updated/10/11/01

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