last updated/10/11/12
本当に、あの人が何を考えているのか自分には一生理解できない、と思う。 例えば、紫のバラのこと。 『紅天女』の試演の後、そして本公演の後も毎日のように届いた紫のバラ。 だが遂に、彼が正体を明かすことはなかった。 マヤ自身も問いただすことができなかった。 自分がどれ程紫のバラの人に会いたいと願っているか、あの人には十分わかっているはずだ。 だがその真意を問い詰めてしまうと、唯一の大切な繋がりが消えてしまいそうで、それは自分が何よりも恐れることだった。 ――そして、昨夜の電話。 マヤは必死で昨夜の嘘のような会話の一言一句を思い出す。 「――え、あの、どういう意味、ですか」 「寝る、の意味まで俺が説明しないといけないのか?」 「っ……冗談はやめて下さい!速水さん私のことバカにしてるでしょ!?」 「バカにはしてない。どうだ、芝居に出るためだけに俺と寝れるのか?」 「嘘です」 「何が」 「速水さんが”商品”に手を出すとか、そんなのあり得ないですから」 「俺のことをよく知ってるんだな、チビちゃん」 「……でも、有難うございます」 「え?」 「私、もう子供じゃないです。速水さんが私のこと、『紅天女』のこと心配してそんなこと言ってるんだってことくらい、わかってるつもりです」 「それなら結構」 「だけど、ごめんなさい。その条件、のませてもらいます」 「――は?」 「私をあの芝居に出させて下さい。私を、アヤにして欲しいんです、速水さんの手で」 ――何で、あんなことを言ってしまったのか。 気紛れ? 売り言葉に買い言葉? いや、違う。 あれはきっと、自分が密かに望んでいたこと。 あの人が舞台の上の女優の自分を何よりも大切に思ってくれることはわかっている。 舞台を降りれば決して結ばれることのない、遠い存在であることも知っている。 それでいいと思っていた。 大切な存在が、自分のすぐ側でなくても確かに見守ってくれているということ、それだけでいいと。 でも、違った。 北島マヤの心の奥底は、もっと暗く、ドロドロなのだ。 月影千草のように、何十年もただ一人を想い続けて、それを秘めて側にい続けるなんて自分にはできない。 阿古夜の純粋な愛情を持つことなど、現実の自分には無理なことだとつくづく思い知らされた。 だから、自分を心配する真澄の心遣いを盾にとって勝手な欲望を押し付けた。 速水さんに、触れたいと思ったのは自分だ。 抱いてほしかったのは他ならぬ自分自身なのだ。 「……もう駄目、最悪、最低、消えちゃいたい」 思わず口をついて出た台詞。 ハッと気づいた時は既に遅く、目の前の記者が呆気にとられた顔で自分を見つめていた。 ここは都内のカフェの一角で、マヤは先ほどからとある女性誌の取材を受けている最中だった。 隣に座るマネージャーの水田がやれやれ、と首を降る。 「ご、ごめんなさい!」 「北島さん、すみません、私何か失礼なこと言いましたか!?」 「違うんです!ちょっと別のこと考えちゃってて、ひ、独り言です!」 「ご多忙ですものね、次の質問でおしまいなんですが、大丈夫ですか?」 「は、はい」 「いろんな所で質問されてると思うのですが、『紅天女』の次の舞台、皆さん注目されていると思うんですが、どういった作品を予定されているかお聞かせ下さい」 今、これ程答えにくい質問はない、と思った。 「――まったく、いい加減取材中にトリップするその癖直して頂戴、マヤちゃん」 「ごめんなさい、水田さん」 水田は『紅天女』の本公演の途中からマヤ専属となったマネージャーで、20代後半の頭の回転の早い女性である。マヤの前には某国民的トップアイドル集団のマネージメントに何年も携わっていたのだが、真澄の直接命令でマヤ付きとなった経緯を持つ。 いくら会社にとって『紅天女』が特別な舞台とはいえ、何故トップアイドルのマネージメントをこなしていた自分が一度は芸能界を失脚したほぼ無名の女優に付かなければならないのか、と内心不満のあった水田である。だが、今やすっかりマヤの非凡な才能――と、あまりにアンバランスな素顔のギャップの虜となっていた。 「まあ苦手なのはわかるけど。何か今日のあなた、いつもにも増して変よ。ずっと上の空」 そんな今も、空になったコップの底に沈む氷をストローで延々とかき回しているマヤの視線は虚ろだ。 「さてと、次はドラマの出演交渉ね。これはもうほとんど決まりかけてるし、マヤちゃんは来なくても大丈夫っと――夜からのスチール撮りの件なんだけど」 「悪いが、その撮影は明日延期だ」 突然割って入った声に、マヤも水田もギョッと顔を上げる。 向かい合って座ったソファの、マヤの背後に現れた人物を見て、水田が目を丸くした。 「社長!?」 「……!」 速水真澄はひとまたぎでテーブルの横をすり抜け、水田の横に腰を下ろした。 「手配はもう済んでいる。これから北島と二人で大事な話があるんだが、ドラマの打ち合わせの方、先に向かってもらえるかな」 水田が真澄と直接顔を合わせるのは何度目かだが、未だに慣れることができない。 そんじょそこらの俳優やモデルと立ち並んでも際立つ端正な容姿もさることながら、『冷徹』が形を成したような厳しい物腰、トップに立つ者特有のカリスマ感やら威圧感やら――が、水田を落ち着かない気分にさせるのだ。 特に、北島マヤの売り出しにかけては並々ならぬ思い入れがあると見え、マヤ専属の勅令を受けた時の 「少しのミスも許さん、とは言わないが、今後の大都を背負うことなる大事な女優だ。 俺の代わりに動いていると思って全力を尽くすように」 と微笑んだ目は、絶対笑っていなかった。 「は、はい、わかりました。しかし私も伺っておくべきお話ではないでしょうか?」 「契約条件についての細かな確認だ。後で報告する」 有無を言わさぬ口調に長居は無用を悟り、水田は弾かれたように席を立つ。 後に残されたのは涼しい顔でメニューを眺める真澄と、ポカンと口を開けたマヤであった。 「氷はおいしいかい、チビちゃん」 「え、ええ?」 「おかわりはやっぱりオレンジジュースでいいのか、と聞いてる。空じゃないか、それ」 指摘され、慌ててマヤはかぶりを振る。 「いえ、別に……って、あの、速水さん、何でここに来たんですか!?」 「今まで何を聞いていたんだ君は。アイスコーヒーとオレンジジュースで」 さっさと注文を済ませると、真澄は上着の奥から煙草を取り出した。 いつも通り、感情の読めない、端正な横顔。 煙草の箱を開ける、中から一本取り出して火を点ける、一連の優雅で無駄のない動き。 思わず見とれてしまう自分を感じながら、マヤはほっと溜め息をつく。 やはり、昨夜のことを叱りにきたに違いない。 何を考えている、自分をわきまえろ、と。 やがて新たな注文の飲み物が運ばれてきて、二人の間にセッティングされた。 「――昨日の件」 ぼそり、と真澄が切り出す。 マヤは緊張して新しいストローの先を噛み締める。 「まさか君が、あんなことを言い出すとはね」 一瞬で全身が真っ赤になる。 本当に、さっきの台詞じゃないが、消え去れるものなら今すぐ小さくなって、氷のように溶けてなくなりたいとマヤは心の底から思った。 そうだ、私は氷、コップの中に浮かぶ氷なんだと思い込むことにする。 心の内の激情を不器用に表すことなく、ただ黙って小さく冷たく笑っていようと決意する。 お手本はこの人だ、いつも涼しい顔で私の心を振り回す、この人―― 「何故なんだ」 「え?」 「あの芝居に出るために、君は――その、男に抱かれたいのか? そうすれば役がつかめると、アヤが理解できると思ってるなら、あまりにも浅はかだと思うが」 「でも、速水さんが出した条件です」 「君がのむわけないと思ったから出した条件だ。一体何を考えている」 「私にだって、速水さんが何考えてるのか全然わかりません」 しまった、また喧嘩腰の台詞だ。 嘘だ嘘だ、この後に及んでまで何故自分を誤魔化すことしか言えないんだろう。 マヤはぐっと唇を噛み、思い切って顔を上げた。 細い煙を吐いた形のいい唇が困惑したように歪んでいるのに初めて気がついた。 「速水さんなら十分ご存知だと思いますけど。 私、舞台を降りたらただのつまらない女の子です。 舞台では、その……ちょっとくらいは、みんなを夢中にさせられるかもしれないけど。 実際は恋愛も、人生の経験も全然まだまだ、ちっぽけな人間です」 あの阿古夜を、あれ程の切ない恋を全身で表現しながら、何を言うんだ――とは、真澄は言えなかった。 それを言ってしまったら、必ず紫のバラに話が向かう。 彼女は自分の影に、紫のバラの人に恋をしているのだから。 その恋心が自分をこうも苦しめ、追い詰めていることにこの子は気づきもしない。 自分自身が招いたこととはいえ、すれ違う想いというものは何と残酷なことだろうか―― 「何故あのお芝居に出たいのか。何故アヤの心を知りたいのか。私にもわかりません。 確かに浅はかだと思います、でも、人生に無駄なことって何もないと思うから、だから――」 「だからって無理やり、好きでもない男に、君は平気なのか? そんなことで人生や恋愛の幅が広がると考えるほど君は――」 「速水さんだからです」 有無を言わせぬマヤの言葉に、真澄は絶句した。 気紛れとは思えない、固い決意がマヤの頬を紅潮させ、瞳に火をつけている。 その熱が、真澄の理性を揺るがせる。 また、仮面が壊される。 やめてくれ、これ以上近づかないでくれ、息が詰まって、胸が潰れそうになる―― 「速水さんだから、お願いしてます。 貴方なら私を変えることができるはずです」
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