第7話




本作品には以下の傾向を含みます。

暴力/流血/マス×マヤ以外のCP

今回(大したことないですが)、マスマヤ以外のCP描写が含まれます。
おまけに妊娠設定ですので、そうした設定に不快感を感じられる方は決して閲覧されないで下さいね><;
何でもどんと来いついてくワ!な方のみ、こそっとご覧下さいませ。


トレーに代わってその手に収まった銃を真澄の胸に突き付けながら、男は瞬く間に女性秘書の扮装を解いてゆく。 ものの数分も経たぬうちに、目の前にはどこにでもいる若いビジネスマンが現れた。 眼鏡をかけ髪を撫でつけると、その下の美形や只ならぬ雰囲気はごく平凡な見た目の中に埋没してしまう。 その変化はその辺りの俳優や女優の足元にも及ばない、プロの技だった。 「お待たせしました――さあ、行きましょうか」 「どこに?」 「もっと人目のない場所ですよ。  それを飲んでくれたら楽に死ねたのに……運の悪い人だ」 「ここで殺すつもりだったのに何故連れ出す?目的は何だ」 郭成貴の血痕がこびりついたままの掌を、テーブルの横に置かれたティッシュケースから一枚取り出して拭き取りながら真澄は尋ねた。 男は一瞬押し黙り、それから笑い出す一歩手前、といった顔で続けた。 「成程――流石はあの方が執着されるだけのことはある。  この状況にも関わらずの落ち着きぶりといい、白狼代理を前にして素知らぬ顔でハッタリを仕掛ける度胸といい、 一芸能社社長にしておくには惜しい器ですよ、本当に」 その瞬間――真澄の中でようやく何かが繋がった。 これは……この誘拐の目的は、マヤにあるのではない、狙いは自分なのだ、と。 だが何の為に? この男が今言ったように殺す気ならマヤをかどわかす必要などないはずだ。 が、それ以上の質問は無用であることは男の気配からもわかった。 何にせよこの場ですぐ殺されることがないならば、逃げ出す機会も情報を得る機会も―― 運が良ければ、マヤに近づく機会もあるはずだ。 「では、入ってきた時と同じように出て行ってもらいましょうか。  すぐ隣の部屋で本当の秘書が勤務中ですから――  下手な行動をとれば、あなただけでなく他人の命まで巻き込む事になる。  二人ともそんな面倒は避けたいでしょう?」 軽く肩を竦め、血を拭いた紙を床に捨てると。 男の前に立ち、真澄はゆっくりと部屋の外へと歩み出た。 廊下に出るには、彼の言ったように隣室の秘書室を通り抜けなければならない。 来た時もそこにいた若い男性秘書が軽く真澄に目礼し、その後についてきた男の顔を見て首を傾げた。 「三島君、僕はこれから速水社長をお送りしてそのまま出ますから――  ああ、専務は重要な電話中だから暫く部屋に入らないように、だそうですよ」 「了解です――でも矢上さん、いつの間にいらしてたんですか?」 「彼が来る前からさ……では」 背後で静かに取り交わされる会話に、この計画の根の深さを思い知る。 速水邸だけでなく、郭の側近までもが“新幇主”の手下にすり替わっている。 恐らく、数か月どころか数年前から準備しなければこんな事はできないはずだ。 男の何気なく掲げたビジネスバッグの中からじっとこちらを窺う銃口の気配を感じながら、真澄は万が一の瞬間を様々に脳内でシュミレーションしつつ廊下へと出た。 二人無言でエレベーターに乗り込み、一気に中央テレビ社屋地下駐車場へと降りる。 その途中、ほとんど誰ともすれ違うことはなかった。 青白い光に照らし出される冷たいコンクリートの上を、殺気と緊張を秘めた二つの足音が通り過ぎてゆく。 「人目のない場所」はまさにここではないか。 しかし上で殺らずに下で殺る意味もないだろう――と真澄が楽観しようとしたところで、 「その車です、先にあなたからどうぞ」 言われるがまま、ロックの開いた黒のセダンのドアを開けた。 「そこじゃない、運転席です。あなたに運転してもらいますよ」 後部座席に乗り込もうとしたのをせせら笑い、男は真澄が運転席に乗るのを確認してから素早く助手席に滑り込んできた。 「さて、とりあえず芝浦方面に向かってもらえますか」 男に言われるがまま、静かに車を地上へと出す。 明らかに異様な事態にも関わらず、窓一枚隔てた外はいつもと何ら変わる事のない都会の夕暮れ時なのが不思議な感覚だった。 左半身に恐ろしい程神経を張り巡らせながら、心の片隅では常にマヤを想う自分がいる。 この男が“新幇主”と直接の繋がりがあり、それが手紙を寄越した李照青だとしたら。 部下でさえ危ない雰囲気なのだから、李本人は更にイカれた性格であろうことは容易く予想できる。 一体今、マヤは何処でどんな目に遭っているというのか――身重の体で……と、そこに思考がループする度に、冷静であろうとする理性とは裏腹に猛烈な怒りと衝動に我を忘れそうになる。 本当なら、こんな風に余裕めいて運転などしている場合ではないのだ。 無謀だろうが何だろうが、今すぐこの男の首を締め上げて吐き出させてやりたい―― が、今は出来る限り大人しくしているべきだ、マヤに繋がる僅かな糸なのだから、と必死で我慢している。 表情は何とか誤魔化せても、ハンドルを握りしめる掌の感覚は恐ろしい程曖昧だった。 冷たく、感覚がない。 暫く車を走らせている間、男は全くの無言だった。 じっと真澄の横顔を見つめたまま、何か考えている風情でもある。 が、決して油断も隙も見せる事はなく、鞄の中から取り出した銃口をぴたりとこちらに向けていた。 何か情報を引き出してみるか、と、真澄がその最初の一言を捻り出そうとした時。 「――っ!」 信号が青から赤に変わり、加速させようとアクセルを踏んだ。 全く同時に、視界の端から突然、大型の白いバンが飛び込んでくる。 慌ててブレーキを踏んだが間に合わず、真澄たちの乗った車のボンネットがバンの横腹に激突した。 その瞬間こそがチャンスだと―― 真澄は当然本能で察知したし、助手席の男も同じように思ったのだろう。 衝撃で揺れた半身を何とか立て直すと同時に、まさに一発触発の殺気が真澄の側頭部に向かって向けられた――反射的に左腕で頭を庇う。 パンパンッ――と、どこか間の抜けた様な乾いた音。 同時にガラスの砕ける鋭い音が重なり、真澄のちょうど耳元を掠めて銃弾が飛んでいった。 至近距離から放たれたそれは、すぐ傍の男が撃ったものに間違いない。 真澄は必死で運転席のドアを開き、転がり出るように外へと飛び出した。 「……くそっ!!」 助手席の男は舌打ちしながらもう一発……放とうとしたところで、苦悶の表情を浮かべそのまま上半身を傾けて倒れた。 彼の側の窓に穴が開いているのが見えたので、真澄を狙うと同時に自身も外から撃たれたらしい。 (……今度は何だ?) アスファルトに転がり出た後に低く体勢を整えながら、素早く周囲を見渡した。 バンから飛び出してきた数名の男たち……いずれも風体の良くない、一目で外国人とわかる男たちが真澄たちの車の周囲を取り巻いている。 白昼堂々の銃撃戦――とはいえ、車が衝突したのは大通りから高架橋の下を抜ける手前で、その横の細い路地に誘導されるような形で車の前方が傾いていた。 周囲には寂れた工場と駐車場が続くばかりで人気はなく、これもまた計画された待伏せであるのは明らかだった。 「立て!」 興奮しきったダミ声といい、無駄な間といい、あまりスマートとは言い難い。 それだけに、つい先程自分を拉致した男と同じような態度は不要だと、素直に両手を頭の後ろに回したままで立ち上がった。 男たちは真澄の顔をみて口ぐちに中国語で叫び合っていたが、その存在は想定外だったらしい。 目的が助手席の男なのは確実な様子で、反対側のドアが乱暴に開かれたかと思うと、身体のどこかを撃たれたらしい男が髪を掴まれ、車外へと引きずり出された。 一味の一人が真澄の背後に素早く近寄り、そのまま高架橋の壁際に向かって立たされる。 その後ろで響き渡る怒声とガラスの割れる音――人体を殴りつける鈍い音が果てることなく続いた。 自分もまた銃口を突き付けられたまま、真澄は端々で何とか聞き取れる単語を繋ぎ合わせて状況を判断しようと試みた。 李、という言葉や殺す、裏切る、といった単語から察するに―― 青道幇の内部抗争に巻き込まれたのは間違いない。 先程の郭成貴の毒殺が判明した途端、犯人のあの男が報復を受けている、と考えるべきか。 すなわち、“新幇主”李照青と、その叔父、もしくは現白狼そのものが絡んだ抗争。 ああ、全く――ヤクザの喧嘩なんてどうでもいい。 兎に角今はその男を殺すな……!! マヤへと繋がる唯一の手がかりが消えることを恐れ、殴られ続けもはや呻き声すらあげなくなった男の安否を真澄は必死で願った。 もしここであの男が殺されてしまったら―― 例えその後で自分が解放されたとしても、状況はちっとも好転しない。 いや、それよりもその後はこっちの身が――と、その時。 キイィィ……ッ、と鋭いブレーキ音を立てて、もう一台の車が突っ込んできた。 同じく黒のセダンで、全ての窓が黒く塗り潰されている。 うわっ、と叫ぶ幾つかの声と同時に、また何発か乾いた銃声が響いた。 背後の男が一瞬そちらに気を取られた隙を逃さず、真澄は後手に組んでいた腕を解いて身体を反転させ、男の手から銃を奪い取ろうとした。 若い男だったが、動揺したまま無茶に暴れるのを、体格の差を生かして手首を捩じるようにして地面に叩きつける。 視界の端で何人かの男が倒れているのが目に入った。 その中には先程自分を拉致したあの男もいる。 「……!!」 怒声と共に残る二人の男が発砲する、その先にたった今突っ込んできた車が反転しながらぶつかった。 二人が叫ぶと同時に車の側面に跳ね飛ばされ、銃が手を離れ回転しながら地面を転がってゆく。 そのタイミングでようやく暴れる男の手から銃を奪い取ると、グリップの底でしたたか頭を殴りつけた。 再び、猛烈な勢いで車が反転したかと思うと、見事に真澄の目の前で急停車する。 「真澄様、早く――!」 「駄目だ!あの男も連れてゆく」 真澄はドアの中に一言叫ぶと、呻き声を上げながら立ち上がろうとする男たちの横を抜け、死んだ様に動かない例の男の襟首を掴み上げた。 再び近づいてきた車の後部座席に男の身体を押し込み、自分の身体も捩じり込む。 「頭を下げて!」 聖の声と同時に、また数発の銃声が響いた。 一発は車の上部を掠めたようだったが、それっきりだった。 遠くでパトカーらしきサイレン音が近づいて来るのを耳にしたが、それもやがて小さくなってゆき――緊迫した静寂が車内を包み込んだ。

ほぼ同時刻―― 陽は既に暮れ落ち、刻一刻と闇色を濃くしてゆく高層マンションの一室。 広い窓を遮るものは何もない、贅沢だが人の住む気配のないその部屋の中央。 ちょっとしたパーティーが開けそうな程広いリビングに敷かれた毛足の長いラグの上で、マヤは息を潜めるようにして座り込んでいた。 その膝の上には、つい数分前まで冷酷な微笑を浮かべていた美しい男が頭を横にして寝入っている。 艶やかな絹糸のような黒髪。 抜けるような白い肌に、切れ長の瞳は、初めて見たその瞬間は女性かと思う程に優美で。 ……が、その唇から零れる言葉はこれまでマヤが聞いたどんな台詞よりも残酷で、身勝手で、どこか奇妙だった。 『今晩は、阿古夜―― 満月の夜に貴女にこうしてお逢いできたことに、この胸は感動でまさに押し潰されそうです……感激ですよ』 重い頭を起こしながら瞼を押し開いた、その先で微笑んでいた彼。 李照青、と名乗ったその男の声を聞いたのはそれが初めてだった。 どこか芝居がかった台詞回しに、流暢だがややイントネーションの異なる日本語。 物腰や雰囲気からも、アジア系だが日本人ではないだろう、という事はマヤにもわかった。 年齢は――幾つだろうか、よくわからない。 自分と同じくらいの様にも見えるし、実はずっと年上のようにも思われた。 あなたのファンなのだ――と、李は言った。 噂の『紅天女』を一目見たかった、ただそれだけでこの三年の間、ずっとこの日を待ち焦がれていたのだ……と。 それは変だ、と後からマヤは気が付いた。 月影から『紅天女』の上演権を得たのは二年前の事だ。 それまで候補として亜弓と争っていた事は関係者の間では有名な話だったが、一度芸能界から失墜したこともあり、世間的には自分の事などほとんど注目されてこなかったはずだ。 が――最初はそこに気づけなかった。 誘拐されたのだ、とようやく気づいてからもどこかピンとこない。 こんな、映画やドラマみたいな事があっていいんだろうかと。 女優の癖に、そんな風に思った――これは全部、変な夢なのではないだろうかと。 そう、真澄が出張で出掛ける前夜から続く奇妙な夢。 まだ薬が効いていたこともあり、李の丁重だがどこか不気味な台詞の裏に注意を払ってみる程の余裕は、その時のマヤにはなかった。 『あの……ファン、なのは嬉しいんですけど――  でも、その――どうすれば、いいんですか?』 『どうとは?』 横たえられていたベッドから半身を起こしたマヤの全身を一瞥しながら、李は微笑んだ。 ベッドの脇に置いた黒檀の椅子に深く腰を降ろし、長いほっそりとした脚を組んでいる。 着ている服はゆったりとした長胞と呼ばれる男性用の中国衣装。 紺色の上質な生地に、銀糸で豪奢な刺繍が施されているそれは、女性のように嫋やかな身体つきの李によく似合っていた。 ふと、自分の身体をみてマヤは眼を丸くした。 昨夜寝る時に着ていたはずの何の変哲もない部屋着から、いかにも高級そうなシルクのナイトガウンに着替えさせられている。 しかも、素肌の下には何一つ身に着けていなかった―― 途端に、ぼんやりしていた頭が緊張と恐怖に覚醒した。 ぞわっと肌を粟立たせながら、 『あ、だから――こんな事したのって、あ、あたしに会うためですか?  それはいいんですけど――でも、帰らないといけないし』 『帰る?何処に?』 『家に……返して下さい。あなたとお話したりするのは、全然いいんですけど。  でも――帰らないと、あたし、家族がいるから……』 『家族――ご結婚されてるんですか?』 どうも変だ、と思ったのはその時だった。 そうだ……昨夜、喜代子と話し込んだ後、寝室に戻ると猛烈な睡魔に襲われた。 元々寝付はいい方だが、あんな風に意識を失うように倒れたのは初めての事だった。 誘拐される時に睡眠薬を飲ませたのだ、と李は笑いながら言う。 あの速水邸から自分一人をこんなにスムーズに誘拐してしまう位なのだから、自分や真澄の事も当然知っているのだろうに―― 『ええ、三ヶ月前に、入籍だけですけど――だから、あのお家に住んでて……  だから、みんな心配してると思うし、お、夫も――』 『結婚なんて認めませんよ。帰る家なんてもうありやしないんだから――  こうしてようやく二人っきりになれたのに、そんな悲しい事を言うのはやめましょう』 『え……?』 李は、座っていた椅子からぐっと上半身を傾けてマヤを覗き込んだ。 思わず、肘の下で押さえていた布団の縁をギュッと握りしめる。 優しかった瞳が一転、どんよりと濁った泥の底のように曇り、憎々しげにマヤを睨み付けている。 『全く――頭の悪い女だ、自分がどんな状況にいるのかわかってるのか?』 すっ、と細い指が伸びる。 硬直したようなマヤの顎に形のいい爪が触れ、ゆっくりと唇の端をなぞってゆく。 マヤは精いっぱい目を見開きながら、李の赤い唇を見つめ続けた。 『こんな――こんな女だなんて……本当にあの阿古夜なのか――?  その姿、その声を聞いただけでどんな男をも虜にする絶世の美女――  千年の梅の木の精霊……あの紅天女が、お前のような……』   憎しみが浸食するように広がってゆく―― そんな顔を見るのは、実の所初めてではなかった。 だが、こんな眼を見たことなどない――見たくはなかった。 愛憎が混濁し、狂気へと雪崩れ込むようなその一瞬。 あらゆる感情が粉々に引き千切れて、その中を漂う自我の不安。 得体の知れない男に誘拐されている、という恐怖そのものよりも、その圧倒的な不安にマヤの心は冷たく凍えた。 この男は――きっと、人を愛することも愛されることも知らない人間なのだと。 人の心の本質を一瞬で掴むことのできる、女優としてのマヤの本能は鋭くそう訴えていた。 『――!!』 と、突然肩を掴まれたかと思うと、唇を押し当てられた。 反射的に眼を瞑り、首を横に曲げたが、掴みかかるその力は紛れもなく男性のものだった。 『やっ――お願い……やめて下さい!』 『何故――?こんなに……殺したい程、貴女の事で頭がいっぱいで――  ずっとこうしたかったんですよ――どうすれば貴女が手に入るかと、その事ばかり』 激しく抵抗しようとするが、手首を捩じられ頭の上に固定されたかと思うと。 ガタン、と椅子が床に倒れ、李はマヤを押し倒すようにしてのしかかってくる。 近くでみるとますます壮絶な美しさだったが、狂気で捩じれた唇の端は引き攣り、その癖その口から出る言葉はゆっくりと穏やかなのが不気味だった。 『ああ――酷い、いつもだ、いつもあの男ばかりが……  私から奪っていくんだ、大事なもの全部、知らん顔して――  駄目だよ、阿古夜……君だけは私のものになってもらう』 『うっ……あ…かはっ――』 『変な顔だ――すごく醜い。面白いな……  もっと力をこめたらどうなるんだ?首の骨が折れない程度に加減できるかな?  ほら阿古夜、こんな顔、観客の誰も見た事ないだろう、息が出来なくて舌を突き出す阿古夜だなんて―――はは、何て顔だ、本当に!!』 喉元に細い指がギリギリと食い込んでくる。 グッと喉の中央の骨を押さえられ、マヤは苦しさに喘ぐが声にならない。 息が出来ない――頭が痛い…… 殺される、死ぬの――あたし、ここで? ……嫌だ。 だって、帰らないといけないのに。 速水さんが、みんながきっと心配してて…… ああそう、今日は二人が帰って来るから、いっぱい驚かせてあげなくちゃって。 あたしと、お腹の赤ちゃんと――二人で、待っててあげなきゃいけないのに―― 頭の中が真っ白になって何も考えられなくなった、その時―― 『……阿古夜、どうして泣いているの?』 涙でぼやけた視界の霧がゆっくりと晴れてゆく。 ゲホゲホと大きく咳き込みながら夢中で身体を起こす。 冷たい指先で、僅かに血の滲む首元を擦りながら、ようやく視点が定まったその先に。 まるで少女のようにあどけない顔をした―― 李照青が、心から心配そうな顔でこちらを覗き込んでいた。 漆黒の瞳に、今にも零れそうな程いっぱいの涙を湛えて。 『信じられない――本当に、あの阿古夜なのか?  私は――夢をみているんだろうか……どうして貴女が此処に?』 震える指先がそっとマヤの髪に触れる。 ビクッと肩を竦めたその瞬間、李も驚いたように手を引っ込めた。 マヤの上にのしかかる様な姿勢でいたのが、恐々と距離を隔てながら後ずさる。 『そんなに……怖がらないで。  私は――ただ、逢いたかっただけなんだ……ただ――』 何とも苦しげに眉を歪めながら、李は小さく首を振った。 あまりにも無防備な悲しみを突き出されて、マヤはただ茫然と李を見つめることしかできない。 その時、遮るもののない窓辺からその日最後の夕陽が手を差し伸べてきた。 古びた血の色に似た、濃い紅が。 広々とした床を一気に飲みこみ、ベッドから転がり落ちるように蹲った李の身体を包み込んで部屋の端まで覆い尽くしてゆく。 そのまま彼は背を丸め、胎児のように小さく小さくなった。 罵りと、困惑と、憧憬と、恐れ――時系列も脈絡もバラバラの無数の台詞。 それらを切れ切れの日本語や中国語でブツブツと呟きながら、肩を震わせて泣いていた。 あまりに異様なその姿に―― マヤは、自分自身の困惑がふっと心の内から遠ざかるのを感じた。 憐みよりももっと深い、不思議な感覚に突き動かされるようにして―― 気が付けばベッドを降りたち、李照青の傍に蹲っている。 そしてそっと、その孤独な肩を抱きしめた。 小さく咽び泣く男は、その瞬間は紛れもなく、天女の腕に抱かれていた。 web拍手 by FC2

last updated/11/23/

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