第8話




本作品には以下の傾向を含みます。

暴力/流血/マス×マヤ以外のCP

今回(大したことないですが)、マスマヤ以外のCP描写が含まれます。
おまけに妊娠設定ですので、そうした設定に不快感を感じられる方は決して閲覧されないで下さいね><;
何でもどんと来いついてくワ!な方のみ、こそっとご覧下さいませ。


「ちょっと――冴子、大丈夫?」 「何が」 「何がって――社長に決まってるじゃない。あ、もう会長だっけ。  何か凄いんだけど、テレビとか……一体何があったの?」 今にもっと大騒動になるわよ――とはとても言えず、水城冴子は深い溜息を押し殺した。 真澄に最も近い部署である秘書課は勿論、今日の大都芸能社は朝から混乱する情報と押し寄せる報道関係者らの渦に巻き込まれ、まさに恐慌状態だった。 白昼堂々、都内で繰り広げられた銃撃戦を隠蔽しきるのは流石に無理というもので―― 真澄が中央テレビ社を訪れた事は多数の目撃者もおり、周知の事実だった。 その面会相手の幹部が殺害され、その現場から面会相手の真澄が拉致された。 それだけでも大変なスキャンダルだ。 その上、連れ去られる途中で暴力団同士とみられる抗争に巻き込まれながらも自力脱出に成功してしまったのだから。 会長職に就任した直後に起こった事件の真相を巡り、事実推測デマ噂、ありとあらゆる情報が行き交い、世間は蜂の巣を突いたような大騒ぎとなった。 幸いなことに、マヤの誘拐事件自体はまだ外部に漏れていないようだった。 それも時間の問題――数日中にはあっという間に広がってしまうのだろうけれど。 そしてこれもまた大っぴらに報道されるのは時間の問題と思われるが、大都グループと裏の組織との関係を疑うマスコミの動きも現れ始めている。 これまで表だってこそ報道されてこなかったが、一部の関係者の間では暗黙の事実として認識されてきた、英介と裏社会との繋がりが、ここにきて白日の下に晒されようとしているのだ。 警察や公安組織内における勢力図が近頃の政権の交替と共に塗り替わったのも大きかったが、何といっても英介という絶対的な存在の引退が及ぼした影響は甚大だったという事なのだろう。 鷹宮との騒動を何とか丸く収めたとはいえ、真澄のグループ内における立場は脆弱とはいえないまでも絶対的に安定しているとも言い難い。 当の真澄は未だ出社してきていないが、英介と共にその方面の対応に追われているのは間違いなかった。 が、水城本人に詳しい連絡が来ることはなく、対外的なスケジュール調整と重要顧客への事後対応、そして一番煩わしいマスコミ対応に機械的に追われる一方だ。 (……ったく、馬鹿馬鹿しい。明日から有休まとめて取っちゃおうかしら) 何度目かの溜息の後、バン、と荒々しくパソコンのボードを叩いて、水城は眼鏡の中央を押さえた。 何事か――と、渦中の男の第一秘書である彼女に周囲の視線が集中する。 水城が苛立つのは、決して「裏」の絡む事情に自分を立ち入らせようとしない真澄の態度だった。 先日の中央テレビでの一件もそうだ。 心配してついていこうとした彼女をエントランスに待機させたまま、彼自身は地下駐車場から拉致されている。 自分から進んでその罠に嵌りにいったのは明らかで、その思惑を何一つ自分に明かさず行動したところが腹立たしかった。 長年その下で働いてつくづく実感しているが、彼という男は妙に潔癖な所がある。 英介経由とはいえ、真澄もまた裏の力を行使して動いているのは間違いない。 だが、側近中の側近である水城にさえもその一面を曝け出すことは決してなかった。 人並み以上に鋭い観察力を持つ水城のことなので、薄々勘づかれているのは彼も知っているのだろう。 ――が、どこからともなくリークされたライバル会社の弱点等、正攻法では入手できないはずの情報をどうやって入手しているのか、時折周囲に気配を感じ取れる“男”が何者であるのか、匂わせる様な態度すら取ったためしがない。 口にこそ出さないが、それが自分の身を案じてからの事なのは十分わかっていた。 彼はよくあるように、何か不利な立場に立たされた時に他の人間――側近である秘書に責任を覆い被せて逃げを決め込むような人間では絶対にない。 「何か」あった時の為に、極力その世界から自分を遠ざけておきたいのだろう。 現に今がそうだ――詳しい事情は知らないが、水城の持つ情報網と勘が正しければ、真澄は今回の件で警察に疑われているに違いなかった。 昨夜遅くまで事情聴取を受けていたのは、拉致そのものの背景にある大都の裏事情を探る目的が警察にあったことを示しているのではないか。 が、それを本人に確かめる術は今の所ないようだった―― (何でも一人でできるんなら、好きにやれば? 頑固で融通きかない癖に痩せ我慢ばっかり上手いんだから……) あの馬鹿、とは流石に心の中でも言えなかったが。 これが彼一人の騒動なら、本気で明日から有休をとり、一切の業務を放棄したってよかった。 しかし、マヤが誘拐されて安否不明という事実がある。 長年あの男とマヤという少女を見守ってきた身としては、最早他人事ではなかった。 妹のように、などと健気な感情を抱いているわけではないと思う。 測り知れない可能性を抱きながら、非常に脆くアンバランスなところのある天才女優―― そんな彼女を一番近くで支えなければいけない男が、これまた一筋縄ではいかないところも、割とクールな筈の自分が過剰な庇護欲を持って動いてしまう所以なのかもしれない。 全く、あの二人のお蔭でだいぶ人生を損してしまっている―― と、何とか苦笑を浮かべようとしたその時。 「……はい、水城です」 なるべくいつも通りを心掛けたつもりだったが、非難の色はにじみ出てしまったのだろう。 「そう尖るな。こっちも大変だったんだ、色々と」 「その様ですわね。丁度良かった、私も火急の用件がありますの。  明日からお休みを頂きたいんですが」 「冗談はやめてくれ。今君に休まれたら大都はそれこそお終いだ」 「調子いい事おっしゃらないでくださいませ。  何の理由も説明されない秘書に碌な仕事はできませんので、せめて当然の権利くらい要求させていただきます」 「わかったから、とりあえずプラザホテルに向かってくれないか。  例の映画の公開レセプション、あれにはどうしても顔を出さなきゃいけない。  2,3打ち合わせたい事もあるから、準備が整い次第君も来てくれ」 「は……しかし、今は――」 「では、頼む」 こちらの返事も聞かずに勝手に切れた携帯の向こう側に思いっきりしかめっ面をしてみせてから。 頭を振り、気を取り直す。 彼の方こそいつも通りを極力心掛けているつもりなのだろうが、冷静さの奥に滲むどこか切羽詰まったような緊迫感は隠し通せないようだったから。 このツケはその「打ち合わせ」とやらの内容と、今月の時間外勤務への対価でチャラにしてあげよう、と心の内で呟くと。 まさに今キャンセルの調整をしかかっていたプラザホテルでのレセプション出席に向けて素早く行動し始める水城であった。

その夜プラザホテルで行われる予定なのは、大都が配給する映画の公開記念レセプションだった。 日本を始めアジア各国・北米・ヨーロッパ主要各国で同時公開されるアクション映画で、キャストもアジアやハリウッド映画界の有名どころを集めた大がかりなもので、世界的にも注目を集めている。 とはいえ、その公開初日に配給元の社長が映画顔負けの事件を起こしてしまったので―― 皮肉な事に、そのせいでより一層関心が高まっているのは間違いない様だった。 渦中の人物が会場に姿を現すのを認めると、集まった多くの報道陣、関係者が一斉に慌てふためき、無数のフラッシュと質問の声が行き交った。 裏方であるはずの真澄が映画の出演者以上に注目されてしまっているその事態をテレビ画面越しに眺めながら、李照青はくつくつと含み笑いを漏らす。 李の手元にある、数日前の彼の写真―― 神戸で行われた大都グループの会議に向かう道中を至近距離から隠し撮りした写真と比べれば、たった数日で驚くほど面変わりしてしまった彼の心中も容易に想像できようというものだった。 相変わらず端正な顔立ちや落ち着いた物腰はそれだけで人目を集めるのに十分過ぎる程だったが、よく観察すれば目の下には濃い隈ができているし、人を食ったような余裕の微笑も見受けられない。 李照青は眼を閉じ、遠い記憶を蘇らせようとする。 人の脳は今まで起こった全ての事象を詳細に記憶していて、「忘れる」というのは単に思い出せないだけでデータはきちんと残っているのだそうだ。 近頃の李はそうした過去の様々な断片を苦も無く思い出すことができるようになっていた。 「懐かしい」という感慨さえも抱けない程に馴染みのない、あるいはどこかで見た事のあるような――過去の断片はいつでも李を不安の底に叩き落とす。 人は忘れることで正気を保って生きていられるのかもしれない。 このままでは知りたくもない、胎児の頃の記憶まで蘇りそうな程……鮮明に浮かび上がる、あれは母の顔。 憎々しげな瞳、口を歪めて罵る、今の自分と気持ち悪い程そっくりな、美しい顔。 (お前のような中途半端な“半々”は私の子じゃない――!  そんな眼で私を見ないで、厭らしい子供……) ……ああ、冗談じゃない。 こんな過去は、夢は、今は見たくないのだ。 今引き出そうとしているのはあの男の顔。 怯えた野良犬みたいな眼をしていた自分を、何の感慨も浮かべず見下していたあの眼。 頑なではあったがどこか不器用な優しさを抱えていた、そんな自分に苦悩すらしていた少年だったのに。 友達だと思っていたのに。 この世でたった一人、この孤独を共有できると思っていた。 それなのに―― ハッと目を見開く。 もうすぐ、欠けていた過去をこの手に取り戻すことができる。 自分の事を忘れ、全く別人のように変わり果ててしまった今のあの男など、何の利用価値もない。 あのくだらない女優と共に、過去も未来も全てを奪い去り、真綿で喉を締め付けるようにゆっくりと狂気の檻の中で飼い殺しにしてやる。 その時、あの強い意志を秘めた眼がどんな風に腐ってゆくのか―― 猿芝居で人をたぶらかす女の化けの皮が剥がれ、どれ程惨めな素顔を曝け出すのか…… その機会がまさに今宵、この手の中に入るのだ。 ……嗜虐的な興奮に、悪寒に似た戦慄が李の背筋を走り抜ける。 悠長に“パーティー”の時刻まで待つことなく、今すぐあの女を犯してしまおうか。 ズタズタに自尊心を引き裂き、自分の爪先に平伏して靴を舐めるような姿をあの男の目前に差し出してやろうか。 ああ――それはまだ先でいい、お楽しみはもっと後に取っておくものだ。 まずは希望を与えよう。 過去を思い出し、あったかもしれない“友情”に一縷の望みを賭けるような、そんなあの男を見るのも悪くない。 ほら――瞬く間に浮かぶ、あの頃の他愛のないやりとりや、風景が。 あれは小学五年生の頃、臨海学習で伊豆の海岸に向かった時だった。 岩場の多いその海岸で足の裏を切った私は、一人クラスメイトの群れから離れて膝を抱えていた。 内心、ホッとしていたのだ。 海は嫌いだった―― 台湾は太平洋に囲まれた豊かな国だが、台北の中心で次期幇主候補として大切に育てられていた私は一度たりとも海に入ったことがなかった。 側近達だって、「何らかの事故」を警戒して決して水辺には近寄らせなかったから、日本という国に来て初めて海に連れ出された事に私は非常に苛立っていたのだ。 すると――どこかでそれを見ていたのか、生徒たちの中心にいたはずのあの男がすぐ傍に立っていた。 既に身長はクラスの誰よりも高く、色素の薄い髪は今よりもっと長く縮れていて、それが潮風に乱れて目元を覆うのを厭う様は、うっとりする程美しい少年だった。 彼はいつでもそうだ。 いつだって人目を集めるし、人の頭に立って動く事が息をするように出来る男。 私などとは全然違う。 『何してんの?昨日も休んでただろ。別に具合悪そうに見えないけど』 声変わりしかけの掠れた声で、彼は言った。 私はといえば、今も然程変わらない女の様な高い声でどもりながら、 『……け、怪我、した。ほら』 日本で生活するようになって一年半。 それまで台湾でみっちりと日本語教育も受けてきたけれど、どうしたってイントネーションは外国人のそれに違いなく。 おまけに女みたいに細くて意気地のない私に向かって、好意的に話しかけてくるような友人など誰一人いなかった。 ただ彼はクラスのリーダーとして、末端いる私に話しかけてきただけなのだ。 『そんな傷、泳いでいるうちに消えるって』 『でも染みるし……』 『大したことないだろ。ってかそれ言い訳で、輪に混じるのがイヤなだけだろ、お前』 あんたなんかに何がわかる――という眼で、私は睨み付けていたに違いない。 日本語で陰口を叩かれ、馬鹿にされているのはわかっていたが、いつも素知らぬフリをしていた。 そんな私の反抗的な態度に興味を引かれたのか、彼は僅かに口元に笑みを浮かべた。 別に馬鹿にしている様な笑みではなく、むしろ―― 『混じるのが嫌なら、利用すればいいんだよ』 『利用って……あれは、君の仲間なんじゃないの?』 『本当にそう見える?……じゃ、お前もあの馬鹿たちと同じだ』 くすっ、と微笑むその顔は――どこかで見た様な顔だった。 祖父の周りの大人たちが、よくそうやって笑う。 子どもの癖に、それもマフィアなどとは全く関係のない日本の良家の子息の癖に、彼にはそんな仕草が嫌になる程様になっていた。 『輪に混じるのもそうだけど……海が嫌いなんだ。日本のは、特に――冷たいし』 思わず、ぼそりと呟いた。 亜熱帯の台湾とはまるで違う海岸の風景も、日差しの強さも、何か紛い物の様に慣れない。 碌に海を肌身に感じたこともない癖に、私は知ったような口ぶりでそう言った。 すると彼は――驚いた事に、笑ったのだ。 屈託のない、明るい声で。 『でも、海は同じ海だろ――飛び込んでしまえば誰の声も聞こえないし。  そんな所にいるよりよっぽど自由だと思うけど』 彼はそういって振り返ると、波打ち際へと向かいさっさと歩いて行った。 よく日に焼けた、少年らしいしなやかな背中が小さくなってゆくのを見つめながら―― 私は、得体の知れない感情に心臓が激しく動く、そんな自分に戸惑っていた。 たぶん、あの瞬間から、私は彼に恋をしていたんだろう。 または――恐ろしい程の執着心を。

同じだけの想いを彼から得たいと、狂おしい程願った。 だがその機会も勇気も得る事のできぬまま日本での短い留学期間は過ぎ去り、私は台湾の祖父の元へと戻る事になった。 臆病者の“半々”の烙印を押され、一族の中でも祖父以外ほとんど顧みるもののいなかったような私が生まれ変わったように“次期幇主候補”としての頭角を現すようになったのはその後からだった。 祖父は手放しで喜び、私は着実にその期待に応えていった。 後に青道幇と彼の家、大都グループとの因縁を知った時には感動と悦びで打ち震えたものだ。 私と彼とは運命共同体だと信じて疑わなかった。 彼が大都グループの一角、大都芸能社で社長代理を務めるようになった頃から、私も次期幇主として大胆な行動を取れるようになってきた。 後はタイミングの問題だった――彼の前に、必要欠かざるべき存在として並び立つ、その瞬間を狙って私は慎重に準備を重ねていた。 そんな私と彼の間に――あの女が、女とも呼べぬような小娘が、突然現れたのだ。 北島マヤ―― 『紅天女』候補として、あの男の執着を一身に集める女優。 私の内部で何かが少しずつおかしくなってきたのは、あの女のせいだ。 あの女、観るもの全てを虜にする妖のような女……『紅天女』を、私は絶対に許さない。 あの女を彼の心から奪い去り、あの女の心からあの男の存在を消し去る。 その為なら、私はどんな事だってできるだろう。 それを阻む者は、間抜けな叔父は言うに及ばず、白狼と呼ばれ恐れられる祖父であろうとも容赦はしない。 私は絶対的な力を手に入れる。 そしてあの男を屈服させるのだ――今度こそ、永遠にだ。 ……いつの間にか、眠っていたようだった。 側近である郭琳に揺り動かされ、李照青はゆっくりと瞼を開いた。 女の準備が整いました、と郭は言った。 「準備――?既に支度は済ませてあっただろう?」 寝ぼけ眼を擦りながら、李は大きく背を伸ばす。 その様子はまるで寝起きの悪い子供そのものだった。 「チャイナドレスのお色を変えるようにと、白狼ご自身がお召し替えなされました。  顔が大分乱れた様子でしたので、化粧の方をもう一度」 「ああ……どれ、様子を見てみよう。  少しは女優らしく――なったのかな、あの娘は」 一時間前と同じような台詞を呟く李に対して、郭琳は何も言わなかった。 近頃の李の人格はより一層破壊的になり、それと同時に時間感覚や最も最近の記憶が抜け落ちるようになっている。 スタスタと裸足で大理石の床を歩く李の後姿は、かつて見た彼の母親とまるで同じだった。 その美貌も、癇癪持ちで冷酷な性格も瓜二つ。 心から憎みながら、結局血には抗えないという所か―― 郭琳は李に悟られぬよう、僅かに皮肉な笑みを浮かべた。 「阿古夜――ああ、美しい。先程よりもずっと。  やはりその色はお前の白い肌によく似合う……どれ、笑って見せろ」 先程と同じように化粧台の前に座らされた、その両腕は黒檀の椅子の背できつく拘束され、顔は生気なく項垂れていた。 赤紫色のタイトなドレスが、とろりと蕩けるようなシルクの光沢を浮かべながらマヤの曲線を覆い尽くしている。 太腿の際まで入った深いスリットの下には何も纏っておらず、きつく摺り寄せた脚元は裸足だった。 李の声を耳にして、マヤはゆっくりと涙に濡れた顔を上げた。 唇が震えて、言葉が出ない。 昨夜、まるで子供のように自分の膝の上で寝入っていた男は―― 朝になって眼を覚ました瞬間、再び残虐な男に変化していた。 短い間に、李の人格は魔法のように移り変わった。 マヤをまるで天女のように崇め、恋い慕うかと思えば、商売女を罵るように嘲り笑い、憎しみを顕にする。 その言葉は所々聞き取れなかったが、「彼」と呼ぶのは真澄の事ではないか――と、マヤは想像した。 恐らく、この男は真澄に深い恨みがあるのだろう。 そんな彼の妻である自分も、深く憎んでいる。 それと全く同時に、何故か求められている――とも感じていた。 誰も愛したことのない、愛されたことのない人間の孤独なら、知らないでもなかったから。 だが、抱きしめれば分かり合えるような、そんな人間らしい感情を李は持ち合わせていないようだった。 幼児のように無邪気な漆黒の瞳は、とある瞬間凶暴に血走る。 「おい、笑え。何だその顔は」 固く強張ったマヤの顔を右手で掴み上げながら、李は言った。 背後から郭琳が、 「先程のお薬がまだ効いております。  立つ、座ることはできますが、自分の力で表情を変えたり声を出すのはまだ難しいかと」 「何だと――もうすぐ宴が始まるというのに、主役がこれでは―― ただの木偶人形ではないか。お客様に失礼というものだ――何とかしろ」 「白狼、その宴ですが。テレビをご覧になられていたようですからご存じでしょうが、既に彼はプラザホテルに入っています。  そろそろ私共も動かなければ叔父上達の動きが――」 バシッ――と鋭い音が響き、郭琳の頬に爪痕が残った。 震えることも出来ず、眼を見開いたままのマヤの目の前で、李の掌が思いっきり殴りつけたのだ。 「お前に言われなくても私は全て把握している――  小賢しく命令するのはやめろ、命が惜しければ」 「……大変失礼致しました」 「――10分後に出る。その前に……この女にもっと血の気をつけろ」 「は――?」 「死蝋を塗ったような顔ではないか、こんな人形の様ではあの男に悪いだろう?  此処、に――」 と、李の手がすっと伸びて、椅子の上でぴったりと擦り合わせられたマヤの太腿の隙間に、ぐっと指が捻じ込まれた。 本能で身体が動いたのか、ほとんど動けないはずのマヤの腰が捩じれ、手を退けようと動く。 が、李は薄ら笑いを浮かべながら隙間に挟んだ指を動かし、光沢のある布地に皺が寄った。 あまりの行為に、恐怖しか感じられないマヤは喉の奥で呻いた。 その声は余計に李の嗜虐心を煽ったらしく、雌犬め、と罵りながら暫くそこを弄ぶ。 が――真澄以外の男に、それも明らかに狂ったようなこの行為に反応出来る程、マヤの心も身体も開ききってはいなかった。 目尻から涙を零しながら、益々人形のように心を固く閉ざすマヤに鼻白んだのか、ふいに手を引き抜くと、李は郭琳を振り返って命じた。 「そこに幾つか玩具がある、適当に突っ込んでおけ。  歩けなければ引きずってでも連れてゆく。  だが顔色だけは今よりマシにしろ」 言うなり、李は部屋を出て行った。 後に残された郭琳は、扉が閉まって数秒後、嘲りと嫌悪の表情を隠すことなく肩を竦める。 椅子の上で茫然と項垂れるマヤを一瞥して、誰にも明かす事のない胸中で素早く今後の手筈を確認した。 ――あの頭のおかしい若造の利用価値も今宵で潰えるだろう。 李照青の今度の行動は、台湾本国にいる彼の祖父、李照洪にもとっくに伝わっている。 自分の仕掛けた様々な情報に翻弄され鉄砲玉達は未だ動けずにいるが、今宵の“パーティー”こそが絶好のチャンスだと誰もが思っているはずだ。 だが今、李照青の頭は速水の事で一杯だ―― 昔から強い執着心を抱いていたのは知っていた。 その理由はつい最近まで知る由もなかったが…… 三年前の“発病”以来、李照青の精神状態は極めて不安定だった。 若年性アルツハイマー病に、重篤な鬱病が重なり、手がつけられなくなっている。 今ではつい数時間前の記憶も維持するのは難しい状態で、血も涙もない程冷酷に振る舞うかと思えば頑是ない幼児の様に泣き出したりと、まともな日常生活をおくれるような状態ではなかった。 先ごろ郭成貴――クラブ・ムーン・ライトの影のオーナで、郭琳の弟でもある男――彼を殺した後行方不明となっている崔暁や郭琳のような、物好きな人間の手によって生きながらえているというのが李照青の真の姿なのだ。 発病と同時に奇行が目立ち始め、それまで幇主の最有力候補とみなされていた立場が失墜するのに一年も経たなかった。 何といっても決定打となったのは、祖父の愛人を手下に襲わせ自らレイプする、という衝撃的な事件。 愛人とはいえ、照青の「叔母」として長い付き合いのある歳もずっと離れた女への悪魔のような所業に、血縁関係を何よりも重んじる台湾マフィア界は騒然となった。 中でもそれまで可愛い孫の“病状”に酷く心を痛めていた李照洪の怒りは凄まじく、一報を受けた際に傍に居た関係のない側近を一人撃ち殺したと言われている。 身内はもとより他の組織にも示しがつかないという事で、事件は闇に葬りさられた。 照青は台湾を去り、香港、北京、上海と転々と居場所を変えた揚句―― 今年になってここ日本の東京に流れ着いたのだ。 病気の事は公にされておらず、またこの郭琳のように彼を利用すべく企む者、李照洪の孫という動かし難い事実、更に彼本人に心酔する者も少なくはなかった為、照青の周りには相変わらず金と力が集まった。 それでも、現・白狼の怒りを招いた事実は変わらない。 裏社会の更に裏で影の様に棲息していた男の突然の行動に、東京の中華系マフィア界は今、ちょっとした混乱に陥っている。 今日の“パーティー”に招かれているのは速水真澄一人ではない。 主客はむしろ照青の叔父である李照輝の息子、つまり照青の甥にあたる人物だ。 そして郭成貴は照輝の右腕だった。 その成貴を殺されたのだから、彼らの怒り様は想像に難くない。 おまけにその根城であるムーン・ライトを“パーティー”会場に指定し、勝手に采配を振るっているのだから、その大胆さは正気の沙汰ではなかった―― いや、実際のところ狂気に蝕まれている訳だが。 (……全く、悪趣味な男だ。早くあの男の脳味噌が弾け飛ぶ瞬間が見たいものだな――  その前に、一度くらいは犯しておくべきだったかもしれんが) 内心でそう呟くと、郭琳は目の前の椅子に括り付けられたマヤを眺めた。 照青によって着せられたスリットの深いチャイナドレスは膝上の危うい部分まで捲れあがり、白い柔らかそうな肌が寒気と恐怖に鳥肌を立てている。 既に涙は出ないのだろう、最初よりもどぎつくメイクを施された顔は強張り、結い直された黒髪に刺さった真珠の髪飾りがきらきらと揺れていた。 女装癖のある事からも想像できるように、郭琳は女に性的な興味を感じない。 弟である郭成貴とは所属する組織も考え方もまるで異なるのだ。 とはいえ、裏社会で生きる人間である事に変わりはない。 「お前も運の悪い女だったな――せいぜい、奴の気紛れで生き延びることを願え」 北京語でそう呟くと、郭琳は照青の示した化粧台の引き出しを開けた。 彼に心酔しきっていた変態・崔暁との“お楽しみ”の為に用意された数多のアダルトグッズの中から、適当にローターを選ぶ。 「顔色を良くしろ」とはつまり、そういう事なのだ。 ちなみに郭琳は少し前、癇癪を起した照青が乱交騒ぎの最中、ある男の尻に銃口を埋めている場面を目撃したことがある。 中には実弾が込められており、撃たなかったのは本当に気紛れとしか言いようがなかった。 ローターを手にした郭琳がマヤの前に立つ。 郭成貴にそっくりの、骨が太く上背もある郭琳は、今日は黒髪を後ろに纏めて黒いスーツを纏っていた。 その手が捲れあがったマヤのドレスの端に触れようとした――その時。 ガツッ――と、鈍い音と共に、郭琳の視界でマヤの纏った赤紫のドレスがブレた。 反射的にスーツの胸元に手を入れるが、続いてこめかみに加わった衝撃で床に膝をつき、そのまま意識を失う。 半ば茫然としていたマヤは、そこでようやく顔を上げた。 痺れていた唇が何とか動かせそうだった――が、そのまま口を開いて硬直した。 目の前に、全く見知らぬ新しい男が立っていた。 あろうことか――今、倒れた郭琳と全く同じ顔をした男が。 ……やっぱり、すごい嫌な悪夢なのかもしれない―― 速水さん――早く、起してよ…… そんな風に、思った。 が、郭琳の顔をした男はちらりと腕時計に視線をやると、素早く郭琳の手足を何か拘束器具で動けないようにし、口に粘着テープを貼って足を引きずり、部屋の壁側にある大きなクローゼットの中に押し込んだ。 襲撃からものの二分もかからない、見事な動きだった。 それから床に転がったローターを眺め、複雑な溜息をついた。 「まったく、相変わらず最悪な趣味をお持ちだこと――  妊婦相手に何考えてんの、あの馬鹿は」 思った以上に軽い口調だが、冷たさは感じなかった。 男はマヤの背後に回ると、椅子の背に括り付けられた皮紐をナイフで断ち切った。 ようやく自由になった身体だが、すぐに動かすことができずに傾くのを、そっと支えると。 再び椅子の前に回ってきた男は、照青の消えた扉に視線を遣りながら素早く囁いた。 「ねえマヤちゃん、ちょっとお願いがあるんだけど。  うまいことあの男前に逢わせてあげたら、俺の耳元で囁いてくんないかな?」 「……あ、あ、あなたは――?」 「違う違う、『貴方と一粒だけの蕩ける夜を――』ってヤツだよ。  俺、あんたのファンなんだよね、ニワカだけど」 そう言って片目を瞑る仕草は――こんな状況なのに、どこか可笑しくて。 絶え間なく続く衝撃にマヤ自身、ちょっとおかしな心理状態だったのかもしれないが。 思わず、微笑んでしまった。 その笑顔を見て、郭琳の顔をした男――安浦は、にやりと笑った。 「ああ、タフな子だ。今笑えるなら、まだ大丈夫だ。  もう一つ約束して欲しい、あんたは天才女優なんだろ?  なら――あいつだけじゃなく、旦那も騙せる筈だよな?」 何を要求されているのかわからず、マヤは微かに瞬きした。 その耳元に安浦が何事かを囁き―― その姿が部屋から消えた瞬間、もう一つのドアが音もなく開いた。 「行こうか、阿古夜――  ああ……何ていい顔だ!美しいだけじゃない、最高の雌犬の顔だな――  あの男も歯噛みして……喜ぶだろうよ、非常に楽しみだ」 李照青もまた正装に着替えていた。 純白の、伝統的なデザインの長袍に包まれた照青の姿は、まるで闇夜の三日月のように美しい。 差し伸べられた照青の手をとって、マヤはゆっくりと立ち上がった。 その頬は赤く紅潮し、眼はとろんと潤み、濃い目のメイクと相まって恐ろしく扇情的な笑みを浮かべている。 照青は満足な微笑を浮かべると、その腕を取って部屋の外へと出た。 僅かに足元を揺らしながらも、マヤは拒むことなくその腕にしなだれかかり、歩みを進めた。 web拍手 by FC2

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