第9話ver1




本作品には以下の傾向を含みます。

暴力/流血/マス×マヤ以外のCP


Antipholus of Syracuse: I to the world am like a drop of water That in the ocean seeks another drop. Who, falling there to find his fellow forth, Unseen, inquisitive, confounds hiluself. 俺はだだっぴろいこの世じゃ、まるで海に落ちた片割れを探し回る水滴みたいなものだ。 あとを追って飛び込んだものの、誰にも気付いてもらえず、どんなに探し回っても、ただ海に溺れて自分を失うだけだ。 (William Shakespeare「The Comedy of Errors(間違い続き)」Act1;Scene2)

建物の前に辿りつくと、目の前の黒光りする扉が音もなく開いた。 現れたのは、チャイナドレスを身に纏った――美しい、少年に違いない。 「ようこそクラブ・ムーン・ライトへ、速水様」 美少女のように化粧を施した、その声はやはり少年のものだった。 丁重にお辞儀をし、案内するように真澄の前に立つ。 外観は言うに及ばず、内装も呆れるほど豪奢だった。 広いエントランスから延びる床は壁までほとんど継ぎ目も見当たらない程の黒大理石。 真澄の頭の高さ程の位置に埋め込まれた木材には花鳥風月や四神の複雑なレリーフが刻まれ、廊下の端まで続いている。 高い天井からは赤い提灯が吊るされて、幻想的な雰囲気を醸し出していた。 胡弓の響きはいよいよ大きくなり、辺りには一面に蓮の花の香の匂いが立ち込めている。 その香でも隠しきれない――僅かな血の匂いを、確かに真澄は感じていた。 最悪の結果を想像し、背筋に悪寒が走りそうになるのを必死で抑え込む。 まだだ――まだ、諦める訳にはいかない。 「こちらのお部屋で主がお待ちでございます」 少年が頭を下げ、辿りついた濃い茶色の漆塗りの引き戸をゆっくりと開いた。 廊下よりも一段階暗いような、思った以上に狭い室内。 6畳程の広さしかないかもしれない。天井だけはやけに高い様だった。 その天井から延びる赤い薄絹のカーテンの向こうに人影が見える。 思わず、片手で乱暴にその布を掻き分けた。 万が一、そこにマヤがいたら――との思いが、彼に常の冷静さを失わせた。 が……そこで優美に笑っていたのはマヤとは似ても似つかぬ女……いや、男だった。 「今晩は、速水――ちょっと遅かったじゃないか、待ちくたびれたよ。  折角容易した料理がすっかり冷めてしまった――」 声までも優しげな女のようだったが、確かに男性だった。 身に着けた純白の長袍は割と質素なデザインにも関わらず、その美貌とスタイルを存分に際立たせている。 黒塗りのテーブルの上に並べられた料理は、確かに大分前に用意されたものらしかった。 ふと、落とした視線の先に転がっている死体を見て、真澄は僅かに眼を瞬かせた。 「ああ、君を待っている間に退屈だったものだから――  お恥ずかしい事だが、この国ではまだ私の白狼就任に異を唱える愚かな連中が大手を振っている状態でね……ああ、そこでボーっとしてないで座りなよ。  久々に逢ったんだから――積もる話も、少しくらいあるんじゃないか?」 屈託なく微笑みながら、足元に転がった男の死体を靴先で小突く。 その身体に首がないのを認めて、真澄はこみ上げる吐き気を何とか堪えるのに必死だった。 聖や、あの男――息の根も絶え絶えだった所を救出してやったこの男の部下、崔とかいう男が言っていた通りか――尚悪い。 この男は、李照青の狂気はもう引き返せない所まで来ている。 マヤが既にこの男の毒牙にかかってしまったというならば―― (俺は確実にこの男の息の根を止め、同時に自分の命も絶ってしまえるだろうな……) そう、暗い決意を固めると。 真澄はなるべく何気ない調子を務めながら、絞り出すように言った。 「で――俺の妻はどこにいるんだ、高瀬昭」 その途端、李照青は全身に電流が走ったかのように身を強張らせた。 「……何だって?」 「お前の名前は李照青。台湾マフィア李照洪の直系の孫で、3年前まで青道幇の次期幇主候補として活動していた男だ。 その更に20年前には高瀬昭という名で日本に留学していた――五年生の時に俺のいたクラスに転入してきた。 小さくて、女の子みたいで、綺麗な声をしているのにそれをからかわれるのを恐れて1年間ほとんど喋ったためしがなく、海が嫌いで、神経質で、 日本の『花』という歌は大陸の子守歌 だと思い込んでいた、当時好きだった日本人アーティストは後で解散した「黒夢」だったな、確か。 先日の復活ライブは1分で中止に追い込まれたようだが、知ってるか?」 一気にまくしたてている一瞬、ふと真澄は李への憎しみを忘れかけている自分に気が付いた。 マヤに出会うまでの自分の人生など、灰色でほとんど無意味な時間に過ぎなかった――と思っていたが、忘れていただけで過去というものは思った以上に感慨を呼ぶものなのかもしれない、と。 そう、昨日の昨日まで、高瀬昭の事などこれっぽっちも頭に浮かぶことはなかった。 小学校時代の1年間だけクラスに滞在していた留学生の記憶と、大都と因縁深い青道幇の幇主候補との間を繋ぐ線など、真澄の鋭い直観にも流石に触れなかった。 が――崔の吐いた情報と聖の得た情報を突き合わせ、彼という男が並々ならぬ執念を自分に抱いている事を知るにつれ、洗うべきは自分自身の過去、それもかなり大昔の過去だと思い至ったのである。 聖はその伝手でかなり使える「仕事人」にこの件を依頼したらしく、ほんの数時間で彼は李照青と高瀬昭、そして速水真澄を繋ぐ線を探し出した。 彼が重篤な病に冒されており、そのお蔭でただでさえ過敏だった感情の振れ幅が今や尋常ではない事、恐らくマヤの妊娠は知らない事、彼女を誘拐したのは――自分に対する執着と表裏一体の理由によるものであろう、ということまでその男は示してみせたのだ。 『ですが――マヤ様の命だけは奪わないはずです。  あの方を貴方の目の前で、殺害よりももっと酷い目に遭わせる―― その類の事を考えているはずですから』 聖が暗い顔で報告したのは、「命だけは」という部分しか保証できないからに他ならない。 彼の狂気は性的な部分にも酷く偏っており、マヤの妊娠を知ったが最後、その身体から胎児を引きずり出す位のおぞましい行為は笑ってするだろう―― そこまでは流石に口に出せなかった聖だったが、手渡した報告書の全てに眼を通した真澄がそれを考えないはずがなかった。 この2年の間に昭青が行ったとされる所業は、どれもこれも鬼畜以下だった。 が――しかし。 「嘘みたいだ……そんなに、覚えていてくれたのか――君みたいな男が?」 つううっ、と。 照青の眼から涙が頬を伝った。 まるで、思いがけない友の告白を聞いて感動する少年のように。 これは――チャンスなのだろうか、それとも……と素早く考えを巡らせながら、まずは彼を刺激しない言葉を真澄は慎重に選んだ。 「正直、忘れかけていた――名前もほとんど違うし。  昔の事は俺もあまり思い出したくはないから……義父の話も確かしたような気がする。  まさかお前が台湾マフィアの一族だとは知らなかったけど――  俺なんかの愚痴を聞いて、さぞ腹が捩れたんじゃないか?」 浮かんだ微笑は偽りではない、少なくとも今のは。 それは照青にも伝わったのだろう、微かに笑った顔は、かつての気弱で優しげな少年のものに他ならなかった。 「いや――そんな事はない。君の話はいつだって感動的だった……話題が広くて話がうまいってのもあったけれど、何よりも君と私はよく似ていたから―― いや、似てなんかいなかったな、君はいつだってよく目立ったし、人を引きつける魅力のある男だったから。  私は――ただ憧れていたんだ、いつかは君のような人間になりたいと、誰にも馬鹿にされない強い力をこの手にしたいと、その時私は君の前に初めて対等に……」 と――李の眼の色がふっと変化した。 聖の言葉が真澄の脳裏を過ぎる。 李照青の精神状態は非常に危険であり―― 今泣いていたかと思えば急に怒り狂い、子供のように笑っていたかと思えば老人のようにいつまでも呆けている事もあると―― その瞬間こそが今だと、真澄の直観の全てが訴えていた。 「あれ……速水じゃないか――どうしてそんな所で突っ立ってるんだ?  はは、相変わらずでかい図体だな……私はご覧の通り、あの頃の君と然程変わらない背丈だから羨ましいよ」 薄らと笑みを浮かべる、その顔はつい先程の穏やかなものとはまるで異なる、険悪なものだった。 思わず、真澄の両手が強張る。 何かマズい、と本能が訴えていた。 「速水――どうしても欲しいものがあるんだ。ずっとずっと欲しくて、探していたものだ……  先日、遂に手に入れてね――それを、君に見せてやりたくてわざわざ此処に呼んだんだ。  紹介してもいいかな?」 「昭…いや照青――それは」 「おいで……阿古夜」 照青の声と共に、その背後の薄布がゆっくりと揺らいだ。 そこに現れたマヤの姿に――真澄は一瞬息を呑み、目まぐるしく活動する思考が一瞬停止するのを感じた。 どんな状況に追い詰められていても、彼の意識は常にマヤの元へと向かう。 その姿を認め、五体満足の状態である事にまずは心からの安堵を得た。 が、その次の瞬間には、常に見たことがない程の彼女の表情に鳥肌を立てる―― それよりもっと艶めいた顔ならこれまで幾度だってこの腕の中で見つめてきて、心に刻み込んできたが――今のような表情には全く馴染みがない、馴染めるはずがない。 他の男の眼の前で、あからさまな情欲の色を隠すことのない彼女など。 「私の天女様だよ、速水――どうだ、美しいだろう?  この国だけに囲うのは可哀相から、私の行く先々に伴ってやろうと思ってね。  迎えに来たんだ……ほら阿古夜、私の友人に挨拶しなさい」 マヤは恥ずかしそうに伏せていた顔をゆっくりと上げた。 その腕はやや震えながらも、照青の長袍の肘辺りをしっかりと握りしめている。 (マヤ――?) 何か……薬のようなものでも盛られたのだろうか? その瞳の奥の真実を知ろうと、真澄は必死でマヤを見つめた。 が、熱に浮かされた様なその眼、興奮に上気した頬、濡れ僅かに開いた唇―― そこにあるのは、ただ単純な肉の衝動を隠しきれない、卑猥な表情を浮かべた女しかいない。 勿論、それだけとってみてもマヤは真澄の心を引き掴むのに十分な魅力を兼ね備えている。 が、彼女と言う人間の心の襞の奥まで掻き分けて溶け合った事のある人間―― この世でただ一人、自分だけが、それ以上の彼女の美しさを知っているのだという自負。 (あんなもの――本当のマヤではない……マヤが本当に美しいのは……俺と共にある時だけだ) そんな強い激情に支配され、頭の中がカッと熱を帯びて燃えるように滾るのを感じた。 まるで周囲を幾重にも取り囲む緋色の様に。 「駄目だ――昭。マヤは俺の……たった一人の片割れなんだ。  俺だってようやく手に入れた――ほとんど諦めきっていたが、それでも手を伸ばさずにはいられなかった」 真澄の言葉に、照青は信じられない、とでもいうように眼を丸くした。 真澄は痺れるような右腕を差し伸べ、照青の傍にぴったりと寄り添うマヤに向かって言った。 「おいで、マヤ――早くうちに帰ろう」 ぴく、っと。 僅かにマヤは反応したようだった。 が――その手首を素早く握りしめ、照青は叫ぶように言った。 「勘違いするな速水。私はこの雌犬を連れてゆく了承を得るためにお前を呼んだのではない。ただ事実を告げるためだけに呼んだんだ―― だが、過去を覚えていたお前に少しくらい情けをかけてやってもいい。この女と共に私の足元に下れ」 「何だって……?」 ギリギリとマヤの手首を握りしめながら、照青は美貌を引き攣らせつつ笑う。 「大都と青道幇の付き合いは深い――お前も大都を引き継いだというならば、私と永遠に契る必要があるな―― お前は表から、私は裏から、この東アジアのほとんどを文字通り掌中に収めるのだって不可能じゃない!そう思わないか? お前がどうしても、というなら時々はこの女を寄越してやろう、だがずっとは駄目だ……この女は私の傍に置いておく…… こいつは、阿古夜は――この化け物だけは、許さない、許せないんだ速水――わかってくれ」 「……理解できんな、昭――いや、李照青。そもそもお前は白狼ですらない」 「何――」 「新白狼と称しているのは只一人、お前とお前の子飼いの部下だけだ―― 青道幇内部でお前はまさに一匹狼そのもの、そうだろう?  そこに転がってるのは叔父上の鉄砲玉か何か知らんが、親玉連中が今にここにやってくる――ほら、聞こえるだろう?」 真澄の一括に照青の顔は一瞬で真っ白になった。 唇が紫色になり、眉間にどす黒い血管が浮かび上がり、あの繊細な美貌は無残に消えてしまっていた。 確かに、建物の外から何か怒声のような声と、パンパンと威嚇するような銃声が聞こえ、静寂に満ちた地下フロアが騒然となる気配がした。 姿が見えないだけで、あの広い庭園内にもこの邸内にも、照青の配下の者やその他の人間は大勢紛れ込んでいたようである―― その中にいるはずの聖と、彼の依頼した「仕事人」の存在に全てを託しながら―― 真澄は、最後の賭けに出た。 「照青――お前の執着の理由は知っているつもりだ。  俺自身、その感情にはさんざん苛まされてきたからな。  だったらお前にはわかってもらえるはずだ、片割れが見つからないまま冷たい海の底で溺れ死ぬ――ちっぽけな水滴みたいに惨めな気持ちが。   だから頼む――彼女を返してくれ……でないと俺は、一生自由になれない」 マヤはその一瞬、確かに真澄の心に触れ、震えた。 その一瞬を逃す照青ではなく、真澄の賭けは際どいところで失敗した。 ゆらゆらと揺れる漆黒の瞳――焦点の定まらないようなその様子に、思わず真澄が強引にマヤをこちらへ引き掴もうとした一瞬、 「触るな――!この女の此処、には」 ガッ、と音を立てて椅子が倒れる。 マヤの細い手首が折れてしまうのではないか、と思う程強く握りしめたまま、照青は反対側の掌をマヤの真紅に近い様な赤紫色のチャイナドレスの太腿の隙間に捩じり込んだ。 真澄は喉の奥で何かを叫んだが声にならず、憤りのままテーブルの上にあるものを叩き落として照青を睨み付ける。 「此処には――ちょっとした玩具が仕掛けてある……  見ろよ、この淫売の顔を――お前の事も忘れてただヒイヒイよがっていたよ――何が自分の胎内に埋め込まれたかも知らないで。 本当に――女って奴は馬鹿だ、大馬鹿だ、犬や豚より始末が悪い――見てみろ、このリモコンを軽く操作してやっただけで―― レベル1で、こいつは簡単にこの机の上で尻を振って気違いみたいに踊り出す。  レベル2……これはもっと面白いぞ、何でも言葉通りに身体が動くからな、何ならそのままここでお前 のモノでもしゃぶらせてやろうか?  そしてレベル3――これが傑作なんだ、何度となく失神した揚句、最後の最後に本当のオーガズムってやつに辿りつける…… つまり、子宮の中が弾けちまうのさ、そこら中に血と肉を撒き散らしてな――流石にまだ試した事がないんだが、私とお前でひとつ遊んでみるか?」 冷静さ、や配慮、といったものはこの時ばかりは真澄の頭の中から完全に消え去っていた。 猛烈な怒りと恐れのままに、彼は照青に掴みかかり、その手の中にある忌まわしい金属の塊を奪い取ろうとした―― が、その無謀な動きを押しとどめたのは他でもない、マヤだった。 「来ないで――!」 それまで一言も発しなかったマヤが、喉の奥を絞り出すような声で叫んだ。 「あたしを……殺す気?  もういいわ――もういい、速水さん。  あたしは――この人についてゆく……こんなに可愛そうな人を、一人ぼっちにはしておけない」 二人の男の眼が見開かれたまま、静寂が――段々近づいて来る銃声交じりの静寂が――訪れる。 太腿の隙間で強張ったままの照青の手首に、そっとマヤの指先が触れた。 「冷たい手……あたしの内部でいいなら――来て、暖めてあげるから」 ぐっ……と、指が指を誘う。 ドレスの深いスリットの下から白い太腿が顕になり、その下に何も纏っていないのであろうことを容易く窺わせる。 真澄の脳も、心臓も、体中の機能の全てが冷たい石のように凍える。 (やめろ――マヤ、君の身体は……その内部には、君と俺の――) ――今にも叫びそうになったが、照青の最悪の性質、をギリギリのところで思い起こし、身動きがとれなくなる。 あんなマヤは本当のマヤじゃない、だが――だが、どうすれば――!? 「あぁ……」 小さく声をあげて、マヤの視点が虚ろになる。 口元に浮かんだ笑みは悦楽の表情そのままに、立ったまま照青の指の上から自分の指を動かし、下半身を震わせる。 照青はどこか泣き笑いのような顔でそれを見ていた。 「やっぱり――片割れなんているはずがない、だろ……速水?  こんな雌犬に――お前は騙されていたんだよ――惨めなものだな」 実際、照青は泣いていた。 マヤは深く息を吐きながら、片方の腕で照青の頭を抱き寄せた。 照青はなすがまま、マヤの胸元に額を寄せる。 その姿は――上半身だけ見れば、母親の胸の中で泣いている小さな子供のように見えなくもなかった。 ――その一瞬、真澄の瞳にマヤの真実の矢が突き刺さる。 そして真澄は間違いなく、その意味を汲み取った。 真澄の背後の扉がかき開かれ、飛び込んできた聖が照青に銃口を向けるのと。 マヤの身体がガクンと崩れ落ち、真澄の手が照青の掌からリモコンを弾き飛ばすのとは、全く同時だった。 それから後に起こった一つ一つは、時間にすればたった一瞬の事だったが。 その時の真澄にはまるでスローモーションの中で足掻くような悪夢の時間だった。 聖が放った銃弾は照青の肩を撃ち抜き、彼はマヤの身体を引き離すと同時に床の上に這いつくばった。 すかさず真澄が崩れかけたマヤの身体を抱きすくめ、倒れた椅子を蹴り上げる。 その椅子の衝撃でリモコンは更に床の上を回転し、部屋の隅に転がった。 照青は身体を反転させ、いつのまにか手にしていた銃で応戦し、然程広くもない室内に銃声と血と硝煙の匂いが立ち込める。 真澄は自分の身体でマヤをすっぽりと覆いこむようにして頭を下げた。 その低くなった視界に――照青の血まみれの掌に握りしめられたリモコンの端が飛び込んできた。 ゾッと背筋が凍り、本能的にマヤをきつく抱き締めた。 飛び散る、というなら自分も一緒に砕け散ってしまわないと――絶対に、気が狂う、と。 何千分の一の刹那、そう確信して。 「さようなら、阿古夜――」 照青は、むしろ愛おしむような声で呟いた。 「やめろ――!!」 聖が叫ぶのと、その掌を撃ち抜くのと――照青の指が動くのもまた、全く同時だった。   ――血の匂いは止まらない。 遠くで聞こえていた銃声や罵声は死んだように収まり…… 耳が痛くなる程の静けさの中で、ただマヤの啜り泣く声だけが聞こえた。 「……おー。よかった、ギリギリ間に合ったみたいね」 緊張を弛緩させるような、間の抜けた声とともに。 聖の背後から、郭琳――の顔をした、安浦が姿を現した。 「表の輩はとりあえず始末しといたよ――しめて1億2千万ね。  マヤちゃんの発見に1億、輩の処分に2千万、いい商売だねこりゃ」 「お前は……」 肩、脇腹、そして掌を聖によって撃たれ、血まみれで部屋の隅に蹲る李照青は、特に感慨の籠らない、どろんとした目つきで安浦を見つめた。 「お久しぶり、ボス――二度とあんたの顔を拝む気はなかったんだが……  背に腹は代えられなくてね」 安浦は肩を竦めると、首元からべりべりと特殊メイクのように張り付いていた顔を剥ぎ取った。 中から出てきたのは、けばけばしい金髪に細い眉の、いかにもチンピラ風の男。 だが、男の能力が決して見た目に比例するわけではない事は、この場にいる誰もが理解している。 照青の視線がゆっくりと動き、壁の反対側で蹲った真澄と、その腕の中に居るマヤに向かった。 二人とも誰も目に入らず、ただ互いの髪をそっと撫でているだけだった。 「勿論、あの悪趣味なローターは処分させてもらったよ。  あんたさぁ、性格も性癖も最悪だったけどここまでイッちゃってはなかったのに――  相当ひでえんだな、そのおつむの病気」 「――そうか……私とあの男を……同時に芝居に嵌めたんだな――  流石は……魔性の女優だ――最悪だ……本当に」 といいつつも、どこか嬉しそうな顔で、照青は呟いた。 「速水――ねえ、聞いてよ。聞く義務があるはずだ、お前には」 ぼそっ、と呟いたその言葉に、真澄はようやく顔を上げた。 マヤを手に入れた今、照青への憎悪すらどうでもいいような心境だった。 「頼むから……お前の手で私を殺してくれ」 「――断る」 「酷い奴だな――今殺しておかないと、また同じ事が起こるかもよ?  今度こそ、その女の命も心も――お前自身もズタズタになる。  それはイヤなんだろう?なら――今のうちに殺せって」 三人の男の視線を集めながら、血だまりの中で照青は穏やかに微笑んだ。 命ぜられるなら、とうち二人は暗黙の了解を真澄に求めた。 が――マヤを抱き上げたまま立ち上がると、真澄は息を吐き出すように呟いた。 「お前の頭も心も既にボロボロだ――  その分じゃもう長くないって自分でもわかってるんだろ?  そんなお前を何故殺す必要がある」 その瞬間――照青の瞳に再び憎悪の炎が灯った。 「そうか――片割れを失った惨めな人間は……勝手にくたばれ、という訳だな。  流石は君だ――最後の最後に、とんでもなく冷たい男だ……忘れるもんか、君だけは―― 絶対に、死ぬまで忘れてやらない、死ぬまで呪ってやる、お前とその雌犬がくたばるまで、永遠に……」 「そんな言葉、言っちゃ駄目」 確固としたマヤの声に、部屋の空気がまた一転した。 拒む真澄の動きを制して、マヤはゆっくりと床に足を降ろして立った。 「マヤ、やめろ」 「――白狼さん、照青さん、昭さん、どちらで呼んだらいい?」 マヤはゆっくりと歩き、照青の傍に腰を降ろした。 「……近寄るな――私は今だってお前を膣の中から引き裂いてやりたいと願っている」 「言葉は――念じた瞬間から本当になるのよ。  あなたには、きちんと名前を呼んでくれる人がいなかったのね、今までずっと。  最初に名前をくれたのは、お母さん?」 「母――?……クッ、あはは――おい、速水、この女心底頭が悪いんじゃないか?」 そんなもの、いるはずがない。 身体をこの世に輩出した雌の人間ならいたかもしれないが。 母と呼べる人間にはついぞ出会ったためしがない。 「だが――真実には違いない、私の名を呼ぶ者などどこにもいない。  皆――私を疎んじるか、利用するか、無視するだけだ……だから名前なんてどうでも――」 赤紫色の裾が広がり、光沢あるシルクの上に照青の血の上があっという間に浸み込んでゆく。 どうしたことか、真澄にはその光景が舞台の一場面のように思えて仕方なかった。 『紅天女』で、阿古夜が眠る一真を抱きしめる――時に赤子のように――全てを包み込む、あの場面に、狂おしい程似通っていた。 「じゃあ、あたしがあなたに名前をつけるわ。  あなたの名前は――ただの照青さん、よ。  その服、とてもよく似合ってると思う――まるで夜に浮かぶ三日月みたいにキレイだなって、初めて見た時そう思ったの、本当よ。  青い月があなたの背中を照らしてるみたいだなって――」 マヤはそっと照青の頭を抱きしめた。 明らかに硬直し、緊張した照青は―― 昨夜、マヤの膝の上で子供の様に震えていた、あの時と全く同じ顔で戸惑っていた。 「中国語でなんて読むのか――教えてね、照青さん。  今度、舞台で中国のお芝居するの……中国語もね、ちょっとだけど出てくるのよ。  あたし、頭悪いからなかなか覚えられなくて――でもとても綺麗。  聞いてると音楽みたいだなって、うっとりするの……」 さらさらと、絹糸のように柔らかな照青の髪を梳きながら、マヤは囁いた。 照青は静かに瞼を閉じながら――呟いた。 「私は……私の名前は――」 web拍手 by FC2

last updated/01/30/

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