第9話ver2




本作品には以下の傾向を含みます。

暴力/流血/マス×マヤ以外のCP


Antipholus of Syracuse: I to the world am like a drop of water That in the ocean seeks another drop. Who, falling there to find his fellow forth, Unseen, inquisitive, confounds hiluself. 俺はだだっぴろいこの世じゃ、まるで海に落ちた片割れを探し回る水滴みたいなものだ。 あとを追って飛び込んだものの、誰にも気付いてもらえず、どんなに探し回っても、ただ海に溺れて自分を失うだけだ。 (William Shakespeare「The Comedy of Errors(間違い続き)」Act1;Scene2)

建物の前に辿りつくと、目の前の黒光りする扉が音もなく開いた。 現れたのは、チャイナドレスを身に纏った――美しい、少年に違いない。 ゆったりと長い袖が手首の先まで覆い尽くす、清王朝時代の礼服を元にデザインされている様だった。 「ようこそクラブ・ムーン・ライトへ、速水様」 美少女のように化粧を施した、その声はやはり少年のもの。 丁重にお辞儀をした顔をゆっくりと上げると、 「では、大変失礼ですが両手を後ろにお回し下さい」 「何――?」 「招待状には奥様をお連れになるように――と記したはずですが、お連れにならない場合にはそれ相応の歓迎をせよ、と主は仰せです。  貴方は今宵は客人ではなく、主の慰み物として参られたのだという事をお伝えしておきましょう」 ――どいつもこいつも狂ってるな、と言ってやりたい気持ちを抑え。 真澄は無言で後手に手を組んだ。 元より命など惜しくはないが、マヤの安否をこの目で確かめるまではどんな屈辱であろうとも甘んじて受け入れてやろう、と決意する。 が、それまで死ぬわけには絶対にいかないのだ。 素直な態度に少し驚いたのか、少年はガラス玉のような無表情な瞳に、一瞬何かの感情を揺らめかせた。 が、その色もすぐに消え去り、「失礼します」と小さく呟くと、服の下から取り出した細い紐のような器具を取り出すと、素早く真澄の背後に回って手首を固定した。 特殊な素材でできたそれがパチン、と音を立てた瞬間、両方の手首が内側で固く止められ、一ミリも動かせなくなる。 「一応申し上げておきますが、無理に引き千切ろうとした場合には指が吹き飛びますのでご注意下さい。  嘘だとお思いになるならお試しになってもいいですが、止めておいた方がいいでしょうね」 そう言って、ひらりと目の前にかざしてみせた右手―― 今まで袖の下に隠れて見えなかったその部分が顕になり、そこにあるはずの五指がほとんど小さな突起程の肉塊でしかないのを認め―― その言葉は決して嘘ではないだろう、と真澄は思う。 どちらにせよ、既に聖の報告書に目を通していた真澄にとっては然程驚くような事でもなかったのだが。 少年は真澄の前に立ち、案内するように進み出した。 無言で、その後についてゆく。 外観は言うに及ばず、内装も呆れるほど豪奢だった。 広いエントランスから延びる床は壁までほとんど継ぎ目も見当たらない程の黒大理石。 真澄の頭の高さ程の位置に埋め込まれた木材には花鳥風月や四神の複雑なレリーフが刻まれ、廊下の端まで続いている。 高い天井からは赤い提灯が吊るされて、幻想的な雰囲気を醸し出していた。 胡弓の響きはいよいよ大きくなり、辺りには一面に蓮の花の香の匂いが立ち込めている。 その香でも隠しきれない――僅かな血の匂いを、確かに真澄は感じていた。 最悪の結果を想像し、背筋に悪寒が走りそうになるのを必死で抑え込む。 まだだ――まだ、諦める訳にはいかない。 「こちらのお部屋で主がお待ちでございます」 少年が頭を下げ、辿りついた濃い茶色の漆塗りの引き戸をゆっくりと開いた。 廊下よりも一段階暗いような、思った以上に狭い室内。 6畳程の広さしかないかもしれない。天井だけはやけに高い様だった。 その天井から延びる赤い薄絹のカーテンの向こうに人影が見える。 思わず、肩で掻き分けるようにしてその布を掻き分けた。 万が一、そこにマヤがいたら――との思いが、彼に常の冷静さを失わせた。 が……そこにいたのは、マヤでもなく、待ち構えているはずの李照青でもない。 後手に縛られ、白く顔を引き攣らせたまま立ち尽くす自分自身の姿だった。 (鏡……?) ゆっくりとあたりを見回す。 廊下と同じ、黒大理石の床の上。 真ん中に据えられた黒塗りのテーブルの上には、大分前に用意されたらしい料理が手をつけられないまま広がっていた。 向い側とこちら側に椅子が2脚――という事は、どちらにせよこの面会でマヤに会わせる気は奴にはないのかもしれない……と。 向かいの壁一面に備え付けられた鏡の中に、ぼんやりと人影が形を成してゆくのに気が付いた。 真澄の姿を暗く反射しながら、まるですぐ目の前にあるような光景―― (マジックミラーか!) 一足飛びに近づいて、鏡に額を押し付ける。 狭いながらもシックで贅沢な家具や照明の配置されたこの部屋とは違い、鏡の向こうの部屋は殺風景なコンクリートが剥き出しのまるで倉庫のような場所だった。 その真ん中、距離にして2,3メートルもない場所で―― 赤紫色のチャイナドレスを身に纏ったマヤが幻のように立ち尽くしていた。 一瞬、亡霊のようだ――と思った自分の頭を殴りつけたくなる。 彼女が無事であることだけを願っているはずの自分なのに。 だが実際、そのマヤにはまるで生気がなかった。 眼を開けてはいるが、何も見てはいない。 まるで人形の様に腹の上で両手を組み、顔は真正面を向いてやや顎を引き―― ドレスの深いスリットから、白い太腿が垣間見える。 襟は高く、伝統的な飾りボタンに縁取られた胸元の装飾もシンプルで禁欲的な雰囲気なのに―― 尻まで裂けているかのようなそのスリットと、常の彼女とは思えないほど濃い化粧がその上品さを掻き消し、娼婦のような姿に貶めていた。 「マヤ!!マヤなのか!?」 声は届かないかもしれないが、叫ばずにはいられなかった。 見開いた瞳に何の変化もない――もしかすると本当に人形なのかもしれない…… と、思ったその時。 「今晩は、速水――ちょっと遅かったじゃないか。  折角用意した料理がすっかり冷めてしまったよ――」 女性の様に優美な、囁くような声。 真澄は遠い記憶の底から、その声の記憶を掘り起こそうと試みる。 「李照青――どこにいる?マヤは……それはマヤなのか?」 冷たい鏡の表面を押しても叩いても、目の前の光景は何も変わらない。 いや―― 人形の様なマヤの背中から、白い二本の腕ががすうっと伸びてきたかと思うと……組み合わせられたマヤの掌の上に重ねられた。 一瞬、もう一人女が現れたのかと錯覚した程、ほっそりと優美なラインのその腕。 「――昭……高瀬昭だな」 乾いた喉の奥で、掠れた様に呟いた。 互いに声は十分に通るらしく、その小さな声を聞きとめたのか李照青は僅かにその漆黒の瞳を瞬かせた。 「ようやく思い出してくれたのか――嬉しいよ、速水」 「ああ、覚えている――お前の名前は李照青。台湾マフィア李照洪の直系の孫で、3年前まで青道幇の次期幇主候補として活動していた男だ。  その更に20年前には高瀬昭という名で日本 に留学していた――五年生の時に俺のいたクラスに転入してきた。  小さくて、女の子みたいで、綺麗な声をしているのにそれをからかわれるのを恐れて1年間ほとんど喋ったためしがなく、海が嫌いで、神経質で、  日本の『花』という歌は大陸の子守歌 だと思い込んでいた、当時好きだった日本人アーティストは後で解散した「黒夢」だったな、確か。  先日の復活ライブは1分で中止に追い込まれたようだが、知ってるか?」 一気にまくしたてている一瞬、ふと真澄は李への憎しみを忘れかけている自分に気が付いた。 マヤに出会うまでの自分の人生など、灰色でほとんど無意味な時間に過ぎなかった――と思っていたが、忘れていただけで過去というものは思った以上に感慨を呼ぶものなのかもしれない、と。 そう、昨日の昨日まで、高瀬昭の事などこれっぽっちも頭に浮かぶことはなかった。 小学校時代の1年間だけクラスに滞在していた留学生の記憶と、大都と因縁深い青道幇の幇主候補との間を繋ぐ線など、真澄の鋭い直観にも流石に触れなかった。 が――崔の吐いた情報と聖の得た情報を突き合わせ、彼という男が並々ならぬ執念を自分に抱いている事を知るにつれ、洗うべきは自分自身の過去、それもかなり大昔の過去だと思い至ったのである。 聖はその伝手でかなり使える「仕事人」にこの件を依頼したらしく、ほんの数時間で彼は李照青と高瀬昭、そして速水真澄を繋ぐ線を探し出した。 彼が重篤な病に冒されており、そのお蔭でただでさえ過敏だった感情の振れ幅が今や尋常ではない事、恐らくマヤの妊娠は知らない事、彼女を誘拐したのは――自分に対する執着と表裏一体の理由によるものであろう、ということまでその男は示してみせたのだ。 『ですが――マヤ様の命だけは奪わないはずです。  あの方を貴方の目の前で、殺害よりももっと酷い目に遭わせる――  その類の事を考えているはずですから』 聖が暗い顔で報告したのは、「命だけは」という部分しか保証できないからに他ならない。 彼の狂気は性的な部分にも酷く偏っており、マヤの妊娠を知ったが最後、その身体から胎児を引きずり出す位のおぞましい行為は笑ってするだろう―― そこまでは流石に口に出せなかった聖だったが、手渡した報告書の全てに眼を通した真澄がそれを考えないはずがなかった。 この2年の間に昭青が行ったとされる所業は、どれもこれも鬼畜以下だった。 「……信じられないな、お前のような男が――そこまで覚えていてくれたのか?」 照青は背後からマヤの身体を抱きかかえるようにして立っている。 真澄の言葉を聞きながらも最初の表情をほとんど変えることなく、薄い笑みの様なものを唇の端に浮かべながら。 すぅっ――と、その腕がまた動き。 身じろぎひとつしないマヤの耳朶にそっと口付けるのを見て、真澄は再び身体の奥に激しく憤る炎を感じた。 が――衝動のままに行動するな、と理性の欠片が訴える。 なるべく奴を刺激しないように――言葉を選べ、と。 マヤをこの腕にするまでは、最後の最後まで絶対に諦めてはいけない。 「正直、忘れかけていた――名前もほとんど違うし。  昔の事は俺もあまり思い出したくはないから……義父の話も確かしたような気がする。  まさかお前が台湾マフィアの一族だとは知らなかったけど――  俺なんかの愚痴を聞いて、さぞ腹が捩れたんじゃないか?」 「……そんな話はどうでもいい」 照青は静かに瞼を閉じた。 再び見開かれた瞳には―― 今までの無表情と打って変わって、冷酷で残虐なサディストの色が浮かんでいるのを、真澄ははっきりと認めることが出来た。 「――どうしても欲しいものがあってね。ずっとずっと欲しくて、探していたものだ……  先日、遂に手に入れた――それを、お前に見せてやりたくてわざわざ此処に呼んだんだ。  紹介してもいいかな?」 「昭…いや照青――やめてくれ、彼女は関係ない……憎いのは俺なんだろ?」 「見ろよ、よくできてるだろ――  動くな、といったら見事に動かなくなった……動けばお前を殺す、とただ一言囁いただけで――まるで生きた人形だ――流石は『紅天女』だよ。  これが欲しくて欲しくてたまらなかった……  お前の苦痛に歪むその顔が見たくてね――!」 照青の赤い舌が、べろりとマヤの目尻を舐め上げた。 腹の上で重ねられていた掌の、右手がマヤの赤く塗りたくられた唇へと伸びる。 女の様に細い指が、無理矢理こじ開けられた歯と歯の隙間に突っ込まれたかと思うと、中の小さな舌を摘み上げて――自分の舌に絡みつける。 照青の純白の長袍とマヤの赤紫色が交じり合い――睦み合うようなその光景を目の前にされてしまっては、理性を保つことなど到底不可能だった。 「やめろ!!今すぐ彼女から離れないと殺すぞ――!」 「殺す……本当に?お前が私を殺してくれるというのか――?  願ってもない――こちらからお伺いしようと思っていたところなのに!  ただし、殺すならこの娘も一緒にしてくれよ……  この娘は――私の大切な、魂の片割れなんだから。なぁ、阿古夜?」 舌を弄ばれたままでも、マヤは苦悶の表情ひとつ浮かべない。 無言の内から誰に助けを求めるでもなく、本当に人形なのではないかと思われる程に。 ガクガクと顎を揺らして照青の為すがままになっている。 「何を――お前は何を言っている……お前が、マヤの片割れだって?」 「そうだ――私とこの雌犬は全く同じなんだ……お前という男なしでは生きていけない、という点ではね。  お前は知らないだろうけれど、私はずっとお前になりたかった。  いつだって光り輝いていて、空気みたいに人の頂点に立つことが出来る、どんな男も女もお前の心を得ようと必死だった――  でもお前は誰の心にも興味なんてなかった。  お前が見ていたのはもっとずっと高い所にある力、それだけで――足元の虫けらの事なんてどうだっていい、といつかお前は私に言っただろう?覚えていないのか!  ああ……あの時、私は誓ったんだよ――  意気地のない私だけど、いつか絶対お前の隣に並び立てるだけの男になろうと。  お前が目指すもの、得ようとする力、それに匹敵するだけの力を手に入れた時……  お前は絶対に私を求めざるを得なくなるってね……その為だけに生きてきたんだ――本当に、それだけだったのに……」 早口で一気にまくしたてると、照青はまるで発作でも起こったかのように甲高く笑い出した。 美しい美貌は引き攣り、ほっそりとした身体が蛇のようにマヤの身体に絡みつく。 羽交い絞めにするように回した右手でギリギリとマヤの手首を握りしめながら。 絡めていた舌を引き抜くと、今度は首筋をきつく吸い上げながら、左手で胸元を乱暴に鷲掴みにした。 真澄は激情のまま、後手に背後の椅子を引き掴むと、目の前の鏡に向かって叩きつけた。 鏡が砕け散る鋭い音と共に、その磨き抜かれた表面にはたちまち無数の罅が走る。 そのまま何度も何度も叩きつける――荒い息のまま、罵りの言葉さえも出ない程、頭の奥が熱く滾っていた。 だがその向こうの悪夢は消えることなく、照青の笑い声はいつまでも続く。 と、ふいにその声が止まった。 「そんなに――この雌犬を助けたいのか……?」 たくし上げたマヤの片方の胸――の、先端を見せつけるように扱き上げながら…… 照青はふいに柔らかな声で呟いた。 真澄の方をじっと見つめる視線は、先程の狂気が嘘のように静かで――悲しげだった。 「なんで――なんでこの女なんだ……?  舞台の上の幻に捕らわれる程度の――そんな男だったか、お前は……?  私にはまだ信じられない――あの頃のお前……一点の曇りも迷いもなく目的に向かって、行く手を阻むものは何であろうと徹底的に壊していった――  あの強いお前が、なんでそんな眼をしているんだ……」 叩き続けているうちに、いつの間にか真澄の拳は割れた鏡の破片で血だらけだった。 きつく食い込む紐のせいで、手首周りも赤く擦り剥け、血が滲んでいる。 無残な有様の壁に縋りつくようにして、震える声で呟いた。 「照青――お前のその執着の理由は知っているつもりだ。  俺自身、その感情にはさんざん苛まされてきたからな」 ――つううっ、と、涙が一筋。 照青の頬から、顎にかけて流れてゆく。 再び、マヤの胸や腰、その柔らかな身体全てをきつく抱き寄せながら、照青は呻いた。 膝がガクンと曲がり、そのままマヤを抱いて床の上に崩れ落ちる。 ふいに、建物の外から何か怒声のような声と、パンパンと威嚇するような銃声が聞こえ、静寂に満ちた地下フロアが騒然となる気配がした。 姿が見えないだけで、あの広い庭園内にもこの邸内にも、照青の配下の者やその他の人間は大勢紛れ込んでいたようである―― その中にいるはずの聖と、彼の依頼した「仕事人」の存在に全てを託しながら―― 真澄は、最後の賭けに出た。 「……だから、お前にはわかるはずだ、片割れが見つからないまま冷たい海の底で溺れ死ぬ――ちっぽけな水滴みたいに惨めな気持ちが。 頼む――彼女を返してくれ……でないと俺は、一生自由になれない」 「違う……君は嘘つきだ。  飛び込んでしまえば何も聞こえないから――だから自由なんだって、言ったんだ――あの時……」 ぽろぽろと涙を零しながら――照青は首を横に振った。 呻くようにマヤの肩口に顔を埋め…… 再び顔を上げたその時には、再び狂気が瞳に宿っていた。 「どうしても助けたいというならば――お前もこちら側に来い、速水。  お前と私とこの女、誰がどれだけ強く愛しているのか……憎んでいるのか、混ざってしまえば案外変わらないかもしれない」 「――お前、一体……おい、本当に――やめてくれ、彼女の身体は――  ああ、この音が聞こえるか?聞こえるな?叔父上を殺し、白狼を裏切ったお前を狙った連中にここは囲まれてる、このままでは全員――」 「煩い!!誰が誰を殺そうが知ったこっちゃない――!こちら側に来るのか、来ないのか、と聞いている!  来ないならばこのままこの女を絞め殺す。私にしては優しい殺し方だぞ……確かに、時間がないからな!  どうする――どちらか好きな方を選べ!」 床に倒れたマヤの上に馬乗りになり、首に手をかける照青を見て、真澄は悲鳴に近い様な声で叫んだ。 「お前の好きにしたらいい――!!だから、彼女から離れろ、今すぐだ!」   ――と、何かのスイッチを押したのか、目の前で粉々になりつつも身動きひとつしなかった鏡の裏が音もなく開いた。 遠くで響いていた銃声は、今やすぐ近くまで近づき―― 様々な言語の入り乱れた怒声が飛び交っているのを頭の片隅で意識しながら、真澄はその暗い部屋の中へと勢いよく飛び込んだ。 バンッ、と、同時に背後で激しくドアが開かれる。 ハッと振り返ったそこに、間一髪間に合わなかった聖の必死の形相が見えた。 その銃口が開いた壁越しに照青に狙いをつけると同時に、再び壁が閉まる。 が――今は兎に角、マヤを手に入れる事しか考えられなかった。 夢中で、床に倒れたままの冷たい身体の傍に膝をつく。 「マヤ――マヤっ!!どうしたんだ……起きてくれ、マヤ!」 眼は開けたままだが、全く反応しないマヤ―― が、顔を傾けて頬を摺り寄せてみると、確かにその身体には血が通っているのがわかる。 手先も指先も冷たく凍えた様に動かないが、外からの力に対してはきちんと反応した……まるで、かつて演じたという『石の微笑』の人形さながらに。 「やっと――来たね。楽しいパーティーの始まりだ……」 二人から少し離れた壁際にもたれかかりながら、照青は呟いた。 その右手に握られた銃を認めて、真澄はぐっとマヤの肩を抱きしめながら身構えた。 身を守るものなど何一つあるはずもない、あるのはただマヤの存在そのものだった。 自分の命は勿論惜しいが、何よりも彼女とその中に宿るもう一つの命を最優先にする為には――一体どうすればいい? 素早く思考を巡らせるが、あの狂った男に対してどのような駆け引きが有効であるか、流石の真澄もすぐに思い浮かぶことができない。 「はは……そう――怖い顔をするなよ?」 悲しげといってもいいような半笑いを浮かべながら、照青は項垂れていた顔をゆっくりと上げる。 真澄が思わず入ってきた側の壁に後ずさると、 「料理は覚めてしまったし――無粋な連中のお蔭で音楽も止まってしまったな。  だがここにはまだ女優がいる……くだらない芸しか披露できないかもしれないが、それでも退屈しのぎにはなるだろうさ――  ほら阿古夜、馬鹿みたいに硬くなってないでお客様を悦ばせるんだ……それが今夜のお前の役目だろう」 カツン、と冷たいコンクリートを鳴らし、照青が一歩近づく。 ゆらりと上げられた腕の先に、撃鉄を上げられた銃が頼りなくぶら下がっている。 護身術の類は身に着けているが、実戦で対応するだけの技術は持ち合わせてはない。 それはあくまで「裏」を任せる聖の得意分野である―― おまけに、自分一人ならばまだしも、腕を縛られたまま動かないマヤを抱えた状態で、女性の様に細身とはいえ銃を持った男相手に応戦するのはかなり難しそうな状況だった。 武器になるものといえば――頭脳と口先ぐらいのものだ。 「照青――お前が来い、と言ったから俺はここに来た。  彼女を助ける気がないなら、最初から二人とも殺すつもりなら、今何を考えてるんだ?」 「今――何だって?」 「お前は病気なんだと聞いた……記憶が途切れ途切れなのも、感情が自分ではコントロールできないのも、お前のせいじゃない、だろう?  だったら、今お前の心が何を思って、何を欲しているのか――ちょっと話して整理してみないか?」 「――私のカウンセリングでも始めようってのか?  ……そんな時間はないんだよ、今にお前の部下か祖父の手の者がここにやって来る。  そんな必要はない、私の望むものは最初からただひとつ、だ」 床の上に蹲る真澄とマヤのすぐ手前で立ち止まると、照青はゆっくりと膝をついた。 近くで見ると益々壮絶な美しい顔が、興奮に紅く染まっている。 その意図をようやく察して、真澄の背筋に冷たいものが走った―― この男は……本気だ、と。 カチ、っと。 銃口が真澄の額の上に突き付けられる。 そうでもなければその視線を奪う事ができない、その当たり前の事実に胸を痛めながら、照青は泣き笑いで囁く。 「今すぐ、この場でこの女を犯せ――抱くんじゃない、レイプするんだ」 「……は?」 「何も酷い事じゃない、お前の女なんだろ?  お前の好きなようにしたらいいじゃないか――この女もさぞ悦ぶことだろうよ。  片割れ同士が結ばる、感動的な場面に……立ち合ってみたいのさ、私もね」 「馬鹿な――何を言っ……」 「あ……ああっ」 今まで固く動かなかったのが嘘の様に、マヤの身体が大きく波打ち、跳ね上がる。 真澄は驚いて息を呑み、照青は声を立てて笑いながら立ち上がった。 「ほら――お前がその気になれないのが悲しいからって……先にその雌犬から発情しはじめたぞ」 確かに、マヤの様子はおかしかった。 真澄の足元で横向きになったまま、唇をわななかせ、脚が小刻みに動く――赤紫色が捲れ上がり、中から露出した真っ白な肌が見る間に桃色に染まってゆく。 その姿を、信じられないものを見るかのように真澄は見つめた。 「お前――一体、マヤに何を……!?」 「何も――本当に、薬も酒も与えちゃいない、その女の本性でそうなってるんだよ……  こんな状況で欲情するとは、なかなかいい趣味の女だな。それともお前がそう仕込んだのか?  見ろよ、なんて顔だ……私とお前もの区別なんてついちゃいない、こうしただけで――」 突然、照青が足でマヤの身体を小突き、床の上に仰向けにする。 その爪先を摺り寄せられた太腿の付け根の間に捩じり込んだ途端に、マヤは大きく息を呑み、紛れもない欲情の声を上げた。 「やめっ……マヤ!しっかりしろ!!」 「ん……あ、は、あああっ」 「ふ――あ、はははは!なんて顔だ、これが天女だって――?  見ろ、無様に舌を突き出して喘いでやがる……興奮するか?速水」 もう、彼の持つ銃の事など頭になかった。 猛然と立ち上がり、片足でマヤを弄ぶその細い身体に体当たりしてぶつかる。 が、バランスを崩して床の上に膝をついた真澄とは反対に、照青は少しよろけただけで体勢を立て直し、素早くマヤの身体を抱きすくめて真澄に対峙した。 「マヤを離せ――貴様の執着にも、性癖にも、彼女は関係ない!」 「いいから黙って愉しめよ、お前だってまんざらでもないだろ?  確かにこの女は素晴らしい淫売だよ――ちょっと玩具をくれてやっただけで、もう堪らないらしい」 右手で油断なく銃を構えたまま、反対の掌の中に何かを取り出した。 薄い金属製のそれに、軽く指をあてがった――その瞬間。 「う……あ……ぁぁああっ」 再び、マヤの全身がガタガタと震え出す。 眼がとろんとうるみ、唇の端からつうっ、と涎が糸を引く。 突き上げた腰が異様に痙攣する様を見て、想像したくもない最悪の状況に思い至った真澄の驚愕を見て、照青は悪戯が成功した子供のように朗らかに手を叩いて叫んだ。 「そう、そのとおり――この雌犬にちょっとした玩具をつけてあげたんだ。首輪みたいなものさ。これで遠隔操作できる訳だが――使い方を教えてあげようか?  今の状態でレベル1……さっきからつけたままで人形みたいに固まってたんだから、よく我慢したと褒めてやってもいいくらいだよ……  どうせグチャグチャで意味ないだろうから下着は外しといてやったんだ。  で、これがレベル2――これは面白いぞ……身体の温度と分泌液からその人間に最も適した動きを楽しめる。  ちょっと囁いてやったら何だって思うが儘さ、何ならお前のモノでもしゃぶらせてやろうか?  そうさせてやらないと――気が狂って死ぬかもしれないよ、もう既にそんな感じだけど」 おぞましいことに、照青の言っていることは真実のようだった。 切なく眉を歪ませ、震えるマヤの状態は、どこからどう見ても自分の肉体の内に灯った情欲をもてあまし兼ねて悶える、淫靡な姿に他ならない。 勿論、それはそれだけで真澄の心を揺さぶるのに十分な姿態――マヤの魅力の一つではある。 だが、状況は極めて異常だ。 いつ何時気紛れで発砲するかもわからない男の足元で、無理矢理欲情させられた状態の彼女を犯すなど――そんな悪夢のような行為が出来るはずがない。 その上、彼女は妊娠しているのだから――猶更、許される行為であるはずがない。 ああ……それなのに―― もしかすると照青の狂気が知らず自分に感染してしまったのではないか―― と、真澄はそんな風に思った。 自分とマヤをこんな状況に叩き落としている男の存在もふと掻き消えるような。 この際どい衝動のままに、確かに彼女を、マヤを、犯してしまいたい―― そんな意識が、胸の片隅で疑いようなく膨らみ始めている。 それというのも―― 絶え間ない刺激に耐えかねたのか、それまで固く瞑っていた瞼をそろそろと見開いたマヤが、何かを訴えるように真澄の瞳をじっと見つめているせいなのだ。 「ぁ……あ、ご――めんなさい……はやみ、さん」 喉を反らせ、細めた瞳から涙が零れる。 真っ赤に上気した頬は汗と涙、床の埃に塗れ、濃く塗られた化粧と混じって溶けた。 初めて鏡の向こうに姿を認めた時には艶やかに一部の隙もなく結い上げられていた黒髪も、今やほどけてばらばらになり、首筋に張り付いた一房が恐ろしく扇情的だった。 四つん這いになったマヤが、ゆっくりと真澄に向かってやって来る。 「からだが……変、なの――も……我慢、できな――くて、つらい」 喉の奥が乾いたように張り付いている。 下腹が鈍く唸り、ゾクゾクと突き上げてくる衝動に対して最後の悪足掻きを試みる。 すっ――と、剥き出しの白い腕が真澄に向かって伸ばされる。 動けないのは、照青の持つ銃や、それによって殺されるかもしれないといった恐怖によるものではない。 どんな状況であろうとも、自分がマヤから眼を離すことなど出来る筈がないのだ。 彼女が求めるのならば――それがどれ程捩じれていても、狂っていても…… 拒む事など、出来ようもない。 「――そうだ、そのまま犯してしまえ、速水……せめて絶頂を迎えるまでは待っててあげるよ――  その時、がきたら……子宮から血と肉を飛び散らせてその女は死ぬ――そこまで連れて行ってやるのが、お前の役目だ」 ぼんやりと呟く照青の声など、既に二人の耳には届かない。 真澄の首に回されたマヤの細い腕、全く同時に吸いついて重なる二ひらの唇、ようやく得るものを得て狂おしい愛撫に震える指と指―― 全く持って無意味な、いや、自傷行為と変わらない様な行為を自らに押し付けながら。 バラバラに千切れた照青の記憶は、頭は、心は、もう使い物になりそうもない。 一体お前は何を欲しているというのか―― 先程の真澄の言葉がふと過ぎる。 ただ彼を求めていたはず、彼を愛し、憎み、その彼を奪い去った女を心から憎悪していたはず。 真澄への執着してみる事だけが、自分が自分でいられるただ一つの手段となってしまったのは――あれはいつからそうなってしまったんだろうか。 だって、自分なんて最初からどこにもなかったんだから仕方ない。 母は日本人との間に生まれてしまった自分を侮み続けたし、唯一の後継者として愛情を注いでくれていたはずの祖父も――心の奥底では「純粋の台湾人」ではない自分に失望していた事などわかりきっていた。 が、アイデンティティの所属の問題は、生活するのに何不自由なく育てられた照青にとっては然程意味を持たなかった。 元来繊細な神経の持ち主だった彼に必要だったのは、穏やかな生活と、細やかな愛情を与えてくれる存在、それだけで十分だったのだ。 しかし、青道幇の幇主候補として生きる道は、その二つとも照青から奪い取った 自分の存在全てが無数の水滴となって散らばって、暗い冷たい海に流れて消えてゆく。 片割れを求める腕もなければ、呼ぶ声もない。 勿論、そんな自分を求める腕も、声も――何も。 ただ、世界中の全てから切り離されて、無心で互いを求め合う二つの魂を見つめていると…… 何故だか、照青の眼からは涙が溢れて止まらないのだった。 この感情に名前をつけるとしたら―― 寂しさ、以外に何もない。 ……最早憎しみさえもが意味を持ちえない。 寂しくて、苦しくて、堪らない。 全てを失って尚、最後の最後になぜこの感情だけ残ってしまうのか。 狂ってしまったというなら、徹底的に狂ってしまえればいいのに。 ああ――やはりあいつらのせいなんだろう、きっと。 完璧な二人を目の前にして、私の絶望はいよいよ深くなる。 寂しいだの、絶望だの、感じてしまうのはみんなあいつらのせいだ、という衝動に再び突き動かされる。 あの二人を消して、それから最後に自分を消してしまおう。 そうすればこんな思い、二度としなくて済むじゃないか―― そう、暗い決意を固めると。 李照青は何気なく銃口を傾け、足元の二人の頭に向かって引き金を――引いた。 瞬間、いつの間にか腕の拘束を解き放った真澄がマヤを抱きかかえ、そのまま身体を反転させた。 「きゃああっ!!」 マヤの短い悲鳴と共に――パタタ、っとコンクリートの上に血痕が散る。 銃弾の一発は真澄の額を掠め、マヤに向けられたもう一発は肩を撃ち抜いた。 暗い色のスーツを着ていた為、どの程度の出血量なのか見た目では判断できなかったが、袖口のシャツが一瞬で真っ赤に染まったところからみてもかなりの深手の様だった。 が、空いた方の腕できつくマヤを抱きしめたまま、呻き声ひとつ上げずに照青を見つめる。 その眼に憎しみや嫌悪の色すらうかがえないのに気が付き、照青はむしろ狼狽えながら再び銃を構えた。 「その手――どうやって外した?……そうか、阿古夜、お前は――」 「もうやめて――あなた、本当はこんな事したくないって思ってる。  速水さんだってそう……お友達なんでしょ?たくさん、素敵な思い出があるんでしょ?    それを――簡単に消しちゃえるの!?」 「マヤ――黙っていろ」 「思い出――友達……?そんなもの――もう、とっくに……  私は、自分の名前すらもう――わからないのに……」 それから後に起こった一つ一つは、時間にすればたった一瞬の事だったが。 その時の真澄にはまるでスローモーションの中で足掻くような悪夢の時間だった。 バタン、と暗い部屋の片隅でドアが開かれる音がし、同時に二発の銃声が重なった。 「……」 床の上でマヤを抱きしめ、身を竦めていた真澄は、自分にもマヤにも新たな弾が掠りすらしていないことに気づき、一瞬安堵の溜息を漏らす。 が、すぐに来るであろう2,3発目を覚悟して顔を上げようとした―― その目の前に、血まみれの手から銃を取り落す照青の姿が見えた。 自らの額に銃口を向けた、ギリギリのところで手を弾かれたのだ。 三人同時にドアの向こうに顔を向け――マヤが「あ」と小さく声を上げた。 真澄もぎょっと顔を強張らせる。 黒いスーツを身に纏ったその顔は、髪こそ長くまとめているが、死んだはずの郭成貴ではないか。 「……おー。よかった、ギリギリ間に合ったみたいね」 が、そのいかつい顔から零れたのは、緊張を弛緩させるような、間の抜けた声。 と同時に、聖がその背後をかきわけ、素早く駆け込んできた。 「ちょ……!何、人がせっかくカッコよく登場――」 「真澄様、マヤ様――!大丈夫ですか!?」 壁に背をもたげたまま、ぼんやりと蹲りかける照青に照準を合わせたまま、素早く駆け寄って二人の傍に膝をつく。 「あ、あたしは……でも速水さんが――!」 「大した事はない。君はどこも怪我してないのか、マヤ」 「大した事あると思うけど……その出血量、静脈やられてるよたぶん。  すぐ処置しないと結構ヤバいはず」 郭琳――の、顔をした安浦はちらっと真澄を見てそう呟くと、気乗りしないような顔で反対側の壁に座り込む照青を眺めた。 「お前は……誰だ?」 「お久しぶり、ボス――覚えててもらえなくて嬉しいやら悲しいやら。  表の輩、あんたのとことおじーちゃんのとこも含めて結構やっちゃったけど、それもついでに忘れてもらえると有り難いなあ」 「その間抜けな声は――懐かしいな……安浦か」 「ありゃ、思い出しちゃったよ」 安浦は肩を竦めると、首元からべりべりと特殊メイクのように張り付いていた顔を剥ぎ取った。 中から出てきたのは、けばけばしい金髪に細い眉の、いかにもチンピラ風の男。 だが、男の能力が決して見た目に比例するわけではない事は、この場にいる誰もが理解している。 照青の視線がゆっくりと動き、聖に止血を施されている真澄と、その傍で涙を浮かべながらじっとその様子を見守っているマヤに向かった。 「勿論、あの悪趣味なローターは処分させてもらったよ。  あんたさぁ、性格も性癖も最悪だったけどここまでイッちゃってはなかったのに――  相当ひでえんだな、そのおつむの病気」 「――そうか……私とあの男を……同時に芝居に嵌めたんだな――  流石は……魔性の女優だ――最悪だ、本当に」 といいつつも、どこか嬉しそうな顔で、照青は呟いた。 「速水――ねえ、聞いてよ。聞く義務があるはずだ、お前には」 ぼそっ、と呟いたその言葉に、真澄はようやく顔を上げた。 マヤを手に入れた今、照青への憎悪すらどうでもいいような心境だった。 「頼むから……お前の手で私を殺してくれ」 「――断る」 「酷い奴だな――今殺しておかないと、また同じ事が起こるかもよ?  今度こそ、その女の命も心も――お前自身もズタズタになる。  それはイヤなんだろう?なら――今のうちに殺せって」 三人の男の視線を集めながら、照青は穏やかに微笑んだ。 命ぜられるなら、とうち二人は暗黙の了解を真澄に求めた。 が――マヤを抱き上げたまま立ち上がると、真澄は息を吐き出すように呟いた。 「お前の頭も心も既にボロボロだ――  その分じゃもう長くないって自分でもわかってるんだろ?  そんなお前を何故殺す必要がある」 その瞬間――照青の瞳に再び憎悪の炎が灯った。 「そうか――片割れを失った惨めな人間は……勝手にくたばれ、という訳だな。  流石は君だ――最後の最後に、とんでもなく冷たい男だ……忘れるもんか、君だけは―― 絶対に、死ぬまで忘れてやらない、死ぬまで呪ってやる、お前とその雌犬がくたばるまで、永遠に……」 「そんな言葉、言っちゃ駄目」 確固としたマヤの声に、部屋の空気がまた一転した。 拒む真澄の動きを制して、マヤはゆっくりと床に足を降ろして立った。 「マヤ、やめろ」 「――白狼さん、照青さん、昭さん、どちらで呼んだらいい?」 マヤはゆっくりと歩き、照青の傍に腰を降ろした。 「……何だって?」 「言葉は――念じた瞬間から本当になるのよ。  あなたには、きちんと名前を呼んでくれる人がいなかったのね、今までずっと。  最初に名前をくれたのは、お母さん?」 「母――?クッ……はは、おい、速水――この女、心底頭が悪いんじゃないか?   私に母がいたとして、名前があったとして、それが何だっていうんだ――!  どっちにせよ、もう思い出すこともできやしないのに……」 そう、そんなものあるはずがない。 私の名前も、私の名を呼ぶ者も、どこにもいない。 だから私は存在自体していないも同然の―― ……と、ふわりと。 赤紫色の裾が広がり、光沢あるシルクの上に照青の血の上があっという間に浸み込んでゆく。 どうしたことか、真澄にはその光景が舞台の一場面のように思えて仕方なかった。 『紅天女』で、阿古夜が眠る一真を抱きしめる――時に赤子のように――全てを包み込む、あの場面に、狂おしい程似通っていた。 「じゃあ、あたしがあなたに名前をつけるわ。  あなたの名前は――ただの照青さん、よ。  その服、とてもよく似合ってると思う――まるで夜に浮かぶ三日月みたいにキレイだなって、初めて見た時そう思ったの、本当よ。  青い月があなたの背中を照らしてるみたいだなって――」 マヤはそっと照青の頭を抱きしめた。 明らかに硬直し、緊張した照青は―― 昨夜、マヤの膝の上で子供の様に震えていた、あの時と全く同じ顔で戸惑っていた。 「中国語でなんて読むのか――教えてね、照青さん。  今度、舞台で中国のお芝居するの……中国語もね、ちょっとだけど出てくるのよ。  あたし、頭悪いからなかなか覚えられなくて――でもとても綺麗。  聞いてると音楽みたいだなって、うっとりするの……」 さらさらと、絹糸のように柔らかな照青の髪を梳きながら、マヤは囁いた。 照青は静かに瞼を閉じながら――呟いた。 「私は……私の名前は――」 web拍手 by FC2

last updated/02/02/

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