第9話ver3




本作品には以下の傾向を含みます。

暴力/流血/マス×マヤ以外のCP


Antipholus of Syracuse: I to the world am like a drop of water That in the ocean seeks another drop. Who, falling there to find his fellow forth, Unseen, inquisitive, confounds hiluself. 俺はだだっぴろいこの世じゃ、まるで海に落ちた片割れを探し回る水滴みたいなものだ。 あとを追って飛び込んだものの、誰にも気付いてもらえず、どんなに探し回っても、ただ海に溺れて自分を失うだけだ。 (William Shakespeare「The Comedy of Errors(間違い続き)」Act1;Scene2)

建物の前に辿りつくと、目の前の黒光りする扉が音もなく開いた。 現れたのは、チャイナドレスを身に纏った――美しい、少年に違いない。 ゆったりと長い袖が手首の先まで覆い尽くす、清王朝時代の礼服を元にデザインされている様だった。 「ようこそクラブ・ムーン・ライトへ、速水様」 美少女のように化粧を施した、その声はやはり少年のもの。 丁重にお辞儀をした顔をゆっくりと上げると、 「では、大変失礼ですが両手を後ろにお回し下さい」 「何――?」 「招待状には奥様をお連れになるように――と記したはずですが、お連れにならない場合にはそれ相応の歓迎をせよ、と主は仰せです。  貴方は今宵は客人ではなく、主の慰み物として参られたのだという事をお伝えしておきましょう」 ――どいつもこいつも狂ってるな、と言ってやりたい気持ちを抑え。 真澄は無言で後手に手を組んだ。 元より命など惜しくはないが、マヤの安否をこの目で確かめるまではどんな屈辱であろうとも甘んじて受け入れてやろう、と決意する。 が、それまで死ぬわけには絶対にいかないのだ。 素直な態度に少し驚いたのか、少年はガラス玉のような無表情な瞳に、一瞬何かの感情を揺らめかせた。 が、その色もすぐに消え去り、「失礼します」と小さく呟くと、服の下から取り出した細い紐のような器具を取り出すと、素早く真澄の背後に回って手首を固定した。 特殊な素材でできたそれがパチン、と音を立てた瞬間、両方の手首が内側で固く止められ、一ミリも動かせなくなる。 「一応申し上げておきますが、無理に引き千切ろうとした場合には指が吹き飛びますのでご注意下さい。  嘘だとお思いになるならお試しになってもいいですが、止めておいた方がいいでしょうね」 そう言って、ひらりと目の前にかざしてみせた右手―― 今まで袖の下に隠れて見えなかったその部分が顕になり、そこにあるはずの五指がほとんど小さな突起程の肉塊でしかないのを認め―― その言葉は決して嘘ではないだろう、と思う。 どちらにせよ、既に聖の報告書に目を通していた真澄にとっては然程驚くような事でもなかったのだが。 少年は真澄の前に立ち、案内するように進み出した。 無言で、その後についてゆく。 外観は言うに及ばず、内装も呆れるほど豪奢だった。 広いエントランスから延びる床は壁までほとんど継ぎ目も見当たらない程の黒大理石。 真澄の頭の高さ程の位置に埋め込まれた木材には花鳥風月や四神の複雑なレリーフが刻まれ、廊下の端まで続いている。 高い天井からは赤い提灯が吊るされて、幻想的な雰囲気を醸し出していた。 胡弓の響きはいよいよ大きくなり、辺りには一面に蓮の花の香の匂いが立ち込めている。 その香でも隠しきれない――僅かな血の匂いを、確かに真澄は感じていた。 最悪の結果を想像し、背筋に悪寒が走りそうになるのを必死で抑え込む。 まだだ――まだ、諦める訳にはいかない。 「こちらのお部屋で主がお待ちでございます」 少年が頭を下げ、辿りついた濃い茶色の漆塗りの引き戸をゆっくりと開いた。 廊下よりも一段階暗いような、思った以上に狭い室内。 6畳程の広さしかないかもしれない。天井だけはやけに高い様だった。 廊下と同じ、黒大理石の床の上。 真ん中に据えられた黒塗りのテーブルの上には、大分前に用意されたらしい料理が手をつけられないまま広がっている。 向い側とこちら側に椅子が2脚――という事は、どちらにせよこの面会でマヤに会わせる気は奴にはないのかもしれない。 「主は間もなく見えられます。お掛けになってお待ちください」 カタン、と椅子を引く音。 そんな時間など――と抵抗する隙さえ与えないような少年の眼を見て、真澄は自分とマヤの全てを運に賭けてみざるを得ない、と悟った。 そんな風に一か八かで物事に当たることなど、これまでの人生でほとんど全くない事だった。 後手のまま、無言で椅子に腰を降ろす。 少年が背後で素早く動いたかと思うと、あっという間に手首の拘束器具と椅子の背が固定されたのがわかった。 もしかするとこの場でこの少年一人に抵抗する事は可能かもしれない、こんな状態であっても。 だがその瞬間にマヤの命が失われてしまうかもしれないと思うと―― やはり身動き一つ、決断するには困難が伴った。 スッ、と衣擦れの音がして、少年が床に腰を降ろす。 どうやらその椅子自体この手の監禁用の特注品らしく、四つの脚が床の留め金で固定される音と共に、完全に身動きがとれなくなった。 「おい、君――俺の事はどうでもいいが……  李照青と彼女は何処にいる。彼女は――無事なのか?」 返事はなく――再び衣擦れの音がしたかと思うと、入り口の引き戸が閉じる小さな音がした。 そして訪れる完全なる静寂…… 香の匂いはますます強く、鼻の奥まで痺れて眩暈がする程―― 唐突に、圧倒的な疲労が真澄の身体を覆い尽くす。 マヤの誘拐が発覚して以来、ほとんど眠っておらず、食事も禄に取っていない。 自身も危ない目に遭ったし、マスコミや警察への対応、特に二宮とかいう捜査官の執拗な取り調べには閉口したが、何とか切り抜けた。 マヤの事を考えるだけで押し潰されそうな不安と背中合わせで、大都グループの新総裁としての立場を維持するのは非常な体力と精神力を要する。 (マヤ――俺は……もしかすると、君に不幸しかもたらさない人間かもしれない――) マヤが聞けば悲しみの余り泣き崩れてしまうような事を。 意志に反し、ゆっくりとぼやけてゆくような意識の片隅で、そんな事を考えた。 彼女を守ろうとする自分の行為は、一番肝心な所で彼女に大きな傷を与えてしまう。 今までもそうだったし――今、この瞬間だってそうだ。 自分さえいなければ、あの狂った男がその毒牙をマヤに差し向けることもなかった筈だ。 ――ハッ、と眼を見開く。 何をしているんだ―― 彼女をこの手にするまでは絶対に諦めないと決意した筈ではないか。 何か――この状況でも何かできないか考えろ。 外には今に李照青の祖父の配下の者が押し寄せてくるだろう―― 聖と、彼が依頼したという「仕事人」。 彼らの能力を信じて、事態が好転するのを待つしかない。 そう――待つ事だけが、今の自分に出来る唯一のことだ。 ……何だろう、この妙な眠気は。 瞼を閉じたら最後、奈落の底に落ちてしまいそうな程に頭が重い。 妙なのは頭だけではなく、確かに身体が熱い―― 脈拍が早くなり、手足にじっとりと汗をかきはじめている事に気が付く。 状況を分析しようと、思考する過程で意識が途切れがちになる。 うまく……集中できない。 (この香の匂い――か?) 必死で目をこじ開け、首を動かす。 換気システムのようなものは認められないが、目の前のテーブルの向こう、誰もいない椅子の背後には天井から垂れた紅い薄絹。 床との境に金の装飾が施されたそれが――僅かだが、揺れているのに気が付く。 強い薫りはそこから漏れているのでは――と思ったその時、すうっと布が左右に開いた。 その瞬間、ぼんやりとしていた意識が強制的に覚醒する。 マヤを――記憶の中の彼女ではない、生身の彼女を、遂にこの目に捉える。 暗闇を背に、ぼんやりと足元から浮かび上がる様な光の輪の中に立ち尽くしている。 「マヤ――!!」 叫びながら近寄ろうと――が、床と椅子にがっちりと固定された身体は勿論動かない。 苛立ちのまま無我夢中で動かすが、どうしようもなかった。 「李照青――!!どこだ!?  お前の言うとおり来てやった、マヤを離してくれ――!」 どこで見ているとも知れない照青に向かって叫びながら、広くもない室内を見渡す。 それから再び、すぐそこで茫然と佇むマヤを見つめた。 初めは同じこの部屋にいるのだと思ったが、よく目を凝らせばそうではない事に気が付く。 二人は分厚い透明なガラスの壁を間に挟んでいた。 狭いながらもシックで贅沢な家具や照明の配置されたこの部屋とは違い、ガラスの向こうの部屋は殺風景なコンクリートが剥き出しのまるで倉庫のような場所だった。 その真ん中、距離にして2,3メートルもない場所で―― 赤紫色のチャイナドレスを身に纏ったマヤは虚ろな視線のままに立ち尽くしている。 一瞬、亡霊のようだ――と思った自分の頭を殴りつけたくなる。 彼女が無事であることだけを願っているはずの自分なのに。 だが実際、そのマヤにはまるで生気がなかった。 眼を開けてはいるが、何も見てはいない。 まるで人形の様に腹の上で両手を組み、顔は真正面を向いてやや顎を引き―― ドレスの深いスリットから、白い太腿が垣間見える。 襟は高く、伝統的な飾りボタンに縁取られた胸元の装飾もシンプルで禁欲的な雰囲気なのに―― 尻まで裂けているかのようなそのスリットと、常の彼女とは思えないほど濃い化粧がその上品さを掻き消し、娼婦のような姿に貶めていた。 ぱっと見た感じでは肉体的な虐待等は受けていないように見えるのにとりあえず安堵する。 が、その赤紫色のチャイナドレスの下には見えない無数の傷が覆い隠されているかもしれないのだ―― そう、既にあの異常な李照青の毒牙にかかっていない保障などどこにもない。 あの男ならば、マヤが妊娠していようといまいと―― いや、むしろその事実を知ったが最後、猶更酷い肉体的・精神的虐待を行い兼ねない事は容易に想像できる。 それを考えるだけで気が狂いそうだったが、最初に真澄の心を冷たくさせたのはマヤの眼の色だった。 こちらから向こう側が見えるのだから、マヤの方とて真澄の姿を認めて何らかの反応をしてもおかしくないはずである。 が、常にない程濃い化粧を施され、豊かな黒髪をうなじの上でゆるやかに結い上げたマヤの顔は、まるでよく出来た人形の様だった。 美しくはあるが、生気がない。 ――やはり照青によって何らかの辱めを受け、それにより心を砕いてしまったのだとしたら…… と、想像するだけで頭の奥がツンと鋭く痛み、猛烈な吐き気がこみ上げてくる。 マヤが心を失う―― 真澄にとってそれは照青への憎しみさえどうでもよくなってしまう程の恐怖に等しかった。 無駄かもしれないと思いながらも、呼ばずにはいられなかった。 「マヤ……マヤ、頼む、俺の眼を見てくれ――!  俺はここにいる――少しでいい、何か言ってくれ!!」 と――その時。 すっ……と、マヤの背後の闇に一筋の光が差し込み。 ドアを開けて入ってきた、純白の長袍に包まれた李照青の姿を認めて、ようやく真澄の内部に怒りの感情が沸き起こってきた。 が――そこに僅かばかりの切なさ…… 懐かしさ、といっていいかもしれない感情もまた含まれていた事に、真澄自身やや驚く。 昨日の昨日まで、彼の事などこれっぽっちも頭に浮かぶことはなかった。 小学校時代の1年間だけクラスに滞在していた留学生の記憶と、大都と因縁深い青道幇の幇主候補との間を繋ぐ線など、真澄の鋭い直観にも流石に触れなかったのだ。 「今晩は、速水――ちょっと遅かったじゃないか。  折角用意した料理がすっかり冷めてしまったよ――」 女性の様に優美な、囁くような声。 その声を耳にした時、限りなく白紙に近かった記憶がさあっと蘇ってきた。 真夏の海岸――海が嫌いだと呟く少女のような顔の少年…… いつでも下を向いて、誰にも見つからない場所で小さく歌っていた―― 「――昭……高瀬昭だな」 乾いた喉の奥で、掠れた様に呟いた。 互いに声は十分に通るらしく、その小さな声を聞きとめたのか李照青は僅かにその漆黒の瞳を瞬かせた。 「ようやく思い出してくれたのか――嬉しいよ、速水」 「ああ、覚えている――お前の名前は李照青。台湾マフィア李照洪の直系の孫で、3年前まで青道幇の次期幇主候補として活動していた男だ。 その更に20年前には高瀬昭という名で日本に留学していた――五年生の時に俺のいたクラスに転入してきた。 小さくて、女の子みたいで、綺麗な声をしているのにそれをからかわれるのを恐れて1年間ほとんど喋ったためしがなく、海が嫌いで、神経質で、 日本の『花』という歌は大陸の子守歌だと思い込んでいた、当時好きだった日本人アーティストは後で解散した「黒夢」だったな、確か。 先日の復活ライブは1分で中止に追い込まれたようだが、知ってるか?」 一気にまくしたてている一瞬、ふと真澄は李への憎しみを忘れかけている自分に気が付いた。 マヤに出会うまでの自分の人生など、灰色でほとんど無意味な時間に過ぎなかった――と思っていたが、忘れていただけで過去というものは思った以上に感慨を呼ぶものなのかもしれない、と。 「嘘みたいだ……そんなに、覚えていてくれたのか――君みたいな男が?」 照青はふう、っと溜息をついたようだった。 ゆっくりと歩みを進め、無表情のまま立ち尽くすマヤの横をすり抜けてこちらへやって来る。 ガラスの前で向かい合わせになり、ようやく間近でその顔を見つめ合った。 記憶の中の「高瀬昭」は白い肌が印象的な小柄な少年だったが、基本的なイメージは変わらないな、と真澄は思った。 切れ長の一重瞼の目元は涼しく、漆黒の瞳は暗い影を帯びているとはいえその時はまだ澄んでいた。 絹糸のように柔らかな黒髪の襟足は長く、薄く引き結ばれた口元がやや神経質そうだが、内面の繊細さがそのまま形になったような、間近で見ても女性のように優美な姿だった。 「正直、忘れかけていた――名前もほとんど違うし。  昔の事は俺もあまり思い出したくはないから……義父の話も確かしたような気がする。  まさかお前が台湾マフィアの一族だとは知らなかったけど――  俺なんかの愚痴を聞いて、さぞ腹が捩れたんじゃないか?」 「私も――もう忘れたよ……お前だって忘れていたんだろう――?  でももう、どうでもいいんだ、そんな事は――」 どうでもいい――と言いながら。 ……つううっ、と照青の目尻から涙が一粒零れ、俯いた顎の先に滴をつくって消えて行く。 ふっ、と再び上げられたその顔には―― それまでの暗さを湛えた静けさから一転、嗜虐的なサディストの笑顔が浮かんでいた。 その鮮やかな変貌ぶりに、一瞬呆気にとられる。 それからゾクゾクと背筋に悪寒が走るのを感じた―― 照青は真澄から視線を離すと、背後のマヤを向き、虚ろなその顔を片手で捩じ上げた。 「速水――どうしても欲しいものがあるんだ。  ずっとずっと欲しくて、探していたものだ……  先日、遂に手に入れてね――それを、君に見せてやりたくてわざわざ此処に呼んだんだ」 言うなり、照青はマヤの真っ赤な唇に噛み付くように唇を重ねた。 いや――確かに、噛み付いていた。 上唇に立てられた歯がギリギリと摺り寄せられ、みるみるマヤの口元が鮮血に染まってゆく。 それまで茫然としていたマヤが僅かに眉を歪め、それでも拒むことなく腕を胸の前で強張らせるのを見て、真澄は身の内に滾る激情を抑えることが出来なかった。 無理に引き千切れば――と言った案内の少年の言葉も今は忘れ、夢中で手首の拘束を解き放とうと足掻きながら叫んだ。 「やめろ――お前は……お前が欲しいのは、俺なんじゃないのか!?  彼女は関係ない、やめてくれ……彼女を傷つけるな!!」 べろり、と、滴る血を舐め上げながら―― 照青は崩れかけたマヤの身体を後ろから抱き寄せ、ガラス越しの真澄に向かってさも愉快そうに笑って見せた。 「その通りだ――私はずっとお前の事を見ていた……  お前はいつだってよく目立ったし、人を引きつける魅力のある男だったから――  いつかお前のような男になりたいと、最初は単純に憧れていたんだよ。  だけど――ずっと見ているうちに、私たちはとても良く似ていると気づいたんだ……  それからはもう、ずっとお前のことしか考えられなかった。  いつかお前にふさわしい、絶対的な力を持って向かい合う……  その為だけに生きてきたのに――」 うわ言のように早口で呟き、抱きしめる、というよりも爪を立てながらマヤを締め付ける。 そんな照青を見て、真澄の脳裏に聖の言葉が過ぎる。 李照青の精神状態は非常に危険であり―― 今泣いていたかと思えば急に怒り狂い、子供のように笑っていたかと思えば老人のようにいつまでも呆けている事もある―― 崔の吐いた情報と聖の得た情報を突き合わせ、彼という男が並々ならぬ執念を自分に抱いている事を知るにつれ、洗うべきは自分自身の過去、それもかなり大昔の過去だと真澄は思い至った。 聖の依頼した「仕事人」はかなり使える男だったらしく、ほんの数時間で彼は李照青と高瀬昭、そして速水真澄を繋ぐ線を探し出した。 彼が重篤な病に冒されており、そのお蔭でただでさえ過敏だった感情の振れ幅が今や尋常ではない事、恐らくマヤの妊娠は知らない事、 彼女を誘拐したのは――自分に対する執着と表裏一体の理由によるものであろう、ということまでその男は示してみせたのだ。 『ですが――マヤ様の命だけは奪わないはずです。  あの方を貴方の目の前で、殺害よりももっと酷い目に遭わせる―― その類の事を考えているはずですから』 聖が暗い顔で報告したのは、「命だけは」という部分しか保証できないからに他ならない。 彼の狂気は性的な部分にも酷く偏っており、マヤの妊娠を知ったが最後、その身体から胎児を引きずり出す位のおぞましい行為は笑ってするだろう―― そこまでは流石に口に出せなかった聖だったが、手渡した報告書の全てに眼を通した真澄がそれを考えないはずがなかった。 この2年の間に昭青が行ったとされる所業は、どれもこれも鬼畜以下だった。 そしてその危惧を証明するかのように、今真澄の目の前で、間違いなくマヤは犯されようとしている。 唇から流れた血を人差し指に擦り付けた照青は、自ら着せ込んだマヤのドレスの深いスリットをすうっとたくし上げていった。 白く柔らかな太腿に赤い筋が走り、付け根で肉を掴み上げるように捩じり上げる。 その痛みと恐怖を、マヤは初めて表情に現した――真澄はようやく理解した。 彼女がまるで人形のように心を閉ざしていたのは、この恐怖に耐える為だったのだと。 「速水――お前が悪いんだ……お前も私も死ぬまで一人と一人、そう信じていたのに――  だからこそ、冷たい海の底で何も聞こえなくても――自由になれると信じてたのに。  お前は私を裏切って、こんな雌犬なんかに執着しやがった――  何が天女だ、魂の片割れだって……?  そんなもの夢に過ぎないって、思い出させてあげるよ。  そうすれば少しは昔のお前に戻れるんじゃないか――なぁ?」 「やめろ――照青、やめっ……マヤ!!」 悲痛は最早声にすらならない。 動かせる足を使ってテーブルを蹴り、ガラスに打ち付けてみたが罅ひとつ入らなかった。 床に固定された金具もびくとも動かない。 先程の眠気は一転、周りの全ての色彩がイライラと視神経を苛み、突然拡大したかと思えばぐにゃりと歪む――まるで幻覚でも見ているかのようだ。 幻覚――もしかするとあの薫りは……? ああ、だが目の前で繰り広げられる悪夢は、あれは夢でも幻でもない、恐ろしい現実だ。 照青の右手はスリットの下に深く潜り込み、もう片方の手が胸の飾りボタンを乱暴に引き千切った。 顕になった胸元に差し込まれた掌―― その冷たさに怯えるように、マヤは首を捩じって何事か……呟いたようだった。 (見ないで――) と、血にまみれた唇は確かにそう言っていた。 一瞬、深い悲しみをこめた眼がガラス越しの真澄を射抜いた―― (あたしはいいの――あたしは……でも、あなたの心が――) 泣いているのが、辛くて。 だから見ないで。 大丈夫、何があってもあたしの心は、身体は、あなた意外に有り得ないから―― そう、囁いている――声が聞こえる様だった。 マヤは泣かない。 涙は余計に真澄の心を傷つけると知っているから。 今は只人形であればいい。 この狂った可哀相な人――きっと心の中は空っぽで、自分や真澄への憎悪すら数秒後には忘れてしまうような人…… 自分が失われてゆく恐怖に耐えられなくて、何かに縋らなければ生きていけないこの人の、苛立ちの侭に打ち付けられる人形であればいい。 ただ一つ、怖いのは―― この身体に宿る小さな命が傷つきはしないかと、それだけが…… そしてこれから起こる事を目にした彼が――彼の心が壊れてしまいはしないかと。 自分の身に起こる事よりも、それを考えただけで暗い絶望の淵に突き落とされそうだった。 ああ、だけど受け入れる以外、今の自分に一体何が出来るというのだろう――? と、マヤが再び心を閉ざそうとした、その時。 「――阿古夜……玩具はどうしたんだ?」 ふと、差し込まれた指が抜かれ、照青の眉が鋭く歪んだ。 ああ――バレしてしまった。 ギリギリまで、「付けているフリ」の演技をしているように、と囁いたあの人。 その意図はわからなかったけれど、絶対に助けるから、それまで諦めずに「人形」でいろ、と言ったあの人の計画は、どうやら失敗してしまったらしい。 「勝手に外す時間などなかったはず……郭琳、あれが裏切ったのか――  いや、それも計画の内、か――?成程、本当に時間がないようだな……」 何を言っているんだ、と睨み付ける真澄の視線を無視して―― 唐突に、照青はマヤの身体を突き放した。 バランスを崩し、マヤが床の上に倒れ伏す。 ふざけるな、と叫びながら真澄は椅子を立ち上がる――完全に身体を上げることは勿論できないが、足首までは固定されなかったので腰が僅かに浮いた。 だがそれまでで、どうしたってガラスの向こうの彼女を助け起こすことは出来なかった。 と、真っ暗だったマヤと照青のいる側の部屋がぱっと明るくなる。 壁際のスイッチを押したらしい照青がこちらに戻って来るのが見えた。 その右手に銃が握りしめられているのを認めて、真澄はただでさえ熱い脳の奥がガンガンと割れるように揺れるのを感じた。 「やめ……てくれ、照青、頼む、何でもする―― お前の望む事なら何だって、俺を殺したいというなら好きにしていい――」 「――そんな情けないお前の姿を見る為に、私はこの国に来た訳じゃない……」 カチッ、と撃鉄が上げられる音がする。 銃口はマヤではなく、真澄の額にむかってぴったりと向けられていた。 「お前をそこまで腐らせたこの女も、ただの男に成り下がったお前も許せない。  お前たち二人ごと私の手の内で、一生檻の中で飼い殺しにしてやろうと、そのつもりで来たんだが――なかなか優しいだろう?――だが、計画変更だ。  望み通り殺してやるよ、速水。  二人一緒に、絶頂と同時に殺してあげる。まさに究極の愛情表現だな」 一瞬、何を言っているのかわからなかった。 が、その顔が興奮に赤く歪んでいるのを目の当たりにし、意図を察すると、真澄の背に冷たい悪寒が走り抜ける。 マヤはまだわからないらしく、ようやく起こした身体をガラスにもたげたまま、真澄の顔を見上げていた。 と、ウイイン、と鈍い機械音と共に、部屋が僅かに振動する。 二つの部屋を隔てていたガラスの壁がゆっくりと天井に吸い上げられたのだ。 それ以上我慢できなかったのはマヤも同じだった。 それまで固く強張っていた身体は、真澄と同じ空気を吸った瞬間、細胞の隅々まで彼に向かって蠢き出す様だった。 「速水さん――!!」 喉から絞り出すような声を上げて駆け寄ろうとする―― 照青はその髪を後ろから乱暴に引き掴み、無理矢理自分の胸に引き寄せた。 マヤの苦痛の悲鳴と真澄の苦悶、そして照青の引き攣った笑い声が重なり、狭い部屋の中は不穏に歪み始める。 「駄目だよ、阿古夜――お前が勝手した報いは、片割れである彼に償ってもらうんだから。  君はそこで黙って見ていなきゃ。  しっかりその眼に焼き付けて――私の代わりに、絶対に忘れちゃいけない」 「お願い……お願い、やめて。何でもする、あたしなら―― 何だってするから、だから速水さんに酷い事しないで……お願い!!」 「マヤ、黙っていろ――!ああ、好きにしろ照青、お前の気が済むようにしたらいい。  ほら、俺が憎いんだろ?こんな馬鹿馬鹿しい行為の為に一族の全てを敵に回して此処に来たんだからな――  折角のチャンスなんだ、犯したいならさっさとやれよ。でないととんだ横槍が入るかもな――ほら、聞こえるだろう?」 照青の注意を自分に引くため、真澄はわざと挑発するような口調で言った。 確かに、建物の外から何か怒声のような声と、パンパンと威嚇するような銃声が聞こえ、静寂に満ちた地下フロアが騒然となる気配が広がっていた。 姿が見えないだけで、あの広い庭園内にもこの邸内にも、照青の配下の者やその他の人間は大勢紛れ込んでいたようである―― その中にいるはずの聖と、彼の依頼した「仕事人」の存在に全てを託しながら―― 真澄は、最後の賭けに出た。 「何だ――そのつもりで俺を呼んだんじゃなかったのか?  お前の高尚な趣味に付き合ってやってもいい、と言ってるんだ…… ご覧の通り禄に身動きなんてできやしないし、積年の想いってやつを果たすチャンスなんじゃないか?それとも案外口先ばかりで――」 「黙れ……黙れ、黙れ――ああ、では望み通りにしてやる!!」 「きゃああっ」 ガシャアアン、とけたたましい音と共に、テーブルの上の料理が全て床にぶちまけられる。 暴発する怒りのままにそれを背後に蹴り寄せ、マヤの髪を引き掴んだまま、照青は真澄の前へと立ちふさがった。 真澄はわざと椅子の上に浅く腰掛け、挑むように彼を見上げた。 その注目と手がマヤから離れることを必死に願いながら。 「一応、男は経験ないんでね――優しくしてもらうと有り難いんだけど」 くすっ、と微笑みを浮かべながら照青を見上げるその顔は。 まるでどちらが拘束され、どちらが犯そうとしているのかわからなくなる程の憎らしげな余裕に満ちており―― こんな状況にも関わらず、恐ろしく扇情的、に見えた。 普段の照青ならば、針の振り切ったその狂気はまず肉体的な暴力へと向かうのが常だった。 何も言わず実直な痛みでもって相手に死への恐怖を与える。 それから言葉で嬲り、徹底的にその自尊心を傷つけ、神経を疲弊させた所で―― 有り得ない程の快楽を与えてやる。 それは睡眠であり、食欲であり、歪んだ愛情であったりもしたのだが―― その行為の巧みなさ匙加減によって対象は難なく照青に心酔もしたし、同じ狂気の底へと突き落とされたりもした。 真澄をここまで案内してきた少年や、彼を拉致した崔暁などが前者にあたる。 郭琳のような人物は稀な例といってよかった。 だが今、照青の心を支配していたのはそのどちらの欲求でもなかった。 彼には真澄の意図が手に取るようにわかった。 自分を挑発し、まんざらでもないように振る舞いながら、その実自分の事など特に何も感じていないのであろう、彼の心の内。 わざと目線をずらしながら、その集中力の全ては、自分の腕の中にいるちっぽけな女に向けられている。 くだらない猿芝居で人を惑わせ、舞台を降りれば禄に会話もできないような頭の悪い女。 こんな女の為に、あの全てに於いて人を圧倒する男が、その好むと好まざるとに関わらず人を惹きつけてしまう様な男が―― そのプライドも命も何もかも放棄して、ただこの女の命だけを考えている…… 「――っ、あ……!」 ぐっ、と、マヤの顕になった胸が捩じり上げられる。 真澄が眉根を歪め、口を開きかけた――その口の中に、冷たい銃口が突き刺さる。 「……!」 「い、やあああっ、あああ!!駄目、駄目、駄目――!!!やめて、やめてえっっ――!!!」 マヤの狂ったような悲鳴。そのこめかみに、何故か優しく口付ける。 左手で捩じり上げられた手首が軋むように痛む、が、その痛みすら感じられなかった。 堪えていた涙が遂にマヤの頬を濡らした。 その涙を見ても、何一つ照青の心を動かさなかった。 ドスッ――と、肉を打つ鈍い音と同時に真澄の意識は一瞬途切れた。 白い長袍が翻り、照青の靴がその鳩尾深くに抉り込んだのだ。 口の中から引き抜かれた銃口で、二度、三度、細い腕が左右に動く度に骨の軋む様な音――と共に、鮮血が飛び散る。 すぐ目の前で激しい打擲を受け、無残な姿に変わり果ててゆく真澄に指一本触れられない。 マヤは狂った様に身体を捻じ曲げ、腕を伸ばした。 もう何のお芝居もできない、演技なんてできない。 このまま彼が死んでしまったら、きっと自分の心も死んでしまう―― 演技なんてする必要もない、心は人形同然に干からびて朽ちてしまうだろう。 そうやって――どれ程の時間が経ったのだろう。 三者三様の心の内で、その瞬間はまるで悪夢のようなスローモーションとストップモーションの連続。 ふっ、と、無表情で続いた打擲の嵐がぴたりと止む。 腕の力を緩めた瞬間、震えているだけだったマヤは崩れ落ちるように―― 椅子の上で項垂れる真澄の身体を抱きしめた。 髪はバラバラに解け、唇や額、首筋といったあらゆる箇所に照青の赤い歯型がこびり付き、所々破れたドレスの隙間は捩じられて痣になったような姿―― 破れた唇から滴る血も顧みず、マヤは真澄の顔を両手で挟み込み、深く口付けた。 動かせない腕のもどかしさに身を捩りながら、真澄も飢えた様にその口を吸い上げる。 ようやく得るべきものを得た身体と心が、求め合って痛い程だった。 差し迫った命も、すぐ傍の照青の存在も、二人を取り巻く全ての最悪の状況も―― その一瞬は、どうでもいい事だった。 永遠に続くはずもないその一瞬を、全身全霊で抱きしめていた。 その奇跡のような光景を見守りながら―― 照青は分裂した意識の中の「自分」が孤独な雄叫びを上げるのを、聞いたような気がした。 「――いや……」 ぐっと、背後からマヤの身体を抱きすくめる細い腕。 真澄の身体に縋るように腕を絡めながら抵抗する――が、強い力で引き剥がされる。 真澄の抵抗は、今度はマヤの額へと向けられた銃により阻まれる。 血走った眼と眼が火花のようにぶつかり――一方が、そっと瞼を伏せて呟く。 「あの男が――好き、なのか?」 「そうよ……ええ、好き。大好き。死ぬほど好き―― 彼がいないと、息ができなくなるくらい、好き」 「じゃあ……私が、あの男を犯すのを見るのは――辛い、わけだな」 マヤは苦しそうに息を吐き、縋るように照青を見上げた。 「あたし――あたしじゃ、駄目なの?  あたしの事……キライ、なんでしょう――それなら、あたしを……」 「やめてくれマヤ――何でそんな……」 「じゃあ――私がそんなに嫌なら、お前がやれよ、阿古夜」 「え――?」 ドン、っとマヤの身体を真澄の膝の上に投げ出す。 切なさと怒りがない交ぜになったような奇妙な表情で、照青は淡々と言った。 「お前も私も、この男がいなければ生きていけない、って点では全く等しい――  お前とあの男が魂の片割れだというなら、私とお前だってそうに違いないとは思わないか?」 「……わからない、何――言ってるの?」 「これだから頭の悪い女はお手上げなんだ――さあ、もう愚図愚図している時間がない。  今すぐやらないと――私が直接犯してしまうかもしれない、それでいいのか阿古夜!?」 緊張と興奮――そしてすぐ傍にある照青の狂気と孤独…… ここ数日間に連続した出来事のひとつひとつが、マヤの心を揺らがせる。 が――その瞬間、ふと思い出した。 あの時現れた不思議な男が囁いた言葉――告げられた約束。 あたしは女優で――幕が下りるまで、やりかけたお芝居は続けなきゃいけない。 仮面を外してしまうのはいつだってこの人だ。 だけどこれは――この行為だけは、違う、お芝居じゃない。 仮面を外したままで、あたしは自然に振る舞い、笑うことができる。 「……いい、マヤ――そんな事は――やめろ」 何が起ころうとしているか。 その予感に背筋を震わせながら、真澄は首を振る。 マヤは何を考えているのか、泣き笑いのような顔でうっすらと微笑む。 まるでこの状況なんて関係ない、といった愛しいものを見る顔で。 「いいから――あたしの事だけ、考えていて」 そっと、膝の上に小さな両手が重ねられる。 その途端、真澄の全身に弱い電流でも走り抜けるかのような衝動が突き抜ける。 もしかすると照青の狂気が知らず自分に感染してしまったのではないか―― と、真澄はそんな風に思った。 自分とマヤをこんな状況に叩き落としている男の存在もふと掻き消えるような。 この際どい衝動のままに、彼女と思うが儘に交わってしまえたら――と。 「好きよ――速水さん……こんな事、おかしいってわかってるのに――  でも、駄目……離れている間、ずっと――こうしたかった」 真澄の喉の奥が乾いたように張り付いている。 下腹が鈍く唸り、ゾクゾクと突き上げてくる衝動に対して最後の悪足掻きを試みる。 すっ――と、剥き出しの白い腕が真澄に向かって伸ばされる。 動けないのは、照青の持つ銃や、それによって殺されるかもしれないといった恐怖によるものではない。 どんな状況であろうとも、自分がマヤから眼を離すことなど出来る筈がないのだ。 彼女が求めるのならば――それがどれ程捩じれていても、狂っていても…… 拒む事など、出来ようもない。 突然強く立ち込めてきたかのような蓮の薫りに突き動かされ―― ただ、求められるがまま、求めるがままに不自由な身体を解き放つ。 舌と舌が絡み合い、互いの傷口を舐め合い、深めてゆく。 動けない身体の全てをマヤに委ね、真澄の意識はゆっくりとマヤに向かって蕩けてゆく。 既に剥げ落ちた化粧の下の、彼女本来の滑らかな肌が、じっとりと妙に汗ばんだ真澄の頬に重ねられる―― ずるりと、撫で上げ、そこかしこの傷と痛みに不器用に触れてゆく。 その痛みさえもが、あまりにも心地いい。 「ん……あ、マヤ……」 「ふ――っ、ん……すき……速水、さん――」 深い海の底で奇跡のように巡り合い、溺れないようにと互いに息を継合うように。 ぴちゃぴちゃと、水音を立てながら二人は混じり合ってゆく。 傷だらけの真澄の額をそっと撫で、血のこびり付いた髪の毛を掻き上げながらその裂けた皮膚に舌を這わせてゆく。 チャイナドレスの破れた襟元から、白い胸元が垣間見える。 照青により赤く痣のついたその肌が、露わになった真澄の胸に摺り寄せられた。 自由になる腕さえあれば、それを存分に好きな形に変えるのに――と、思ったその瞬間。 ようやく、真澄の意識が二人の世界からほんの一瞬、乖離した。 ――何を思うのか、それまでぽかんと二人の睦み合う様子を見守っていた照青が動いた。 誰に訴えたところで認めてもらえるような理屈などなかったし、そのつもりもない。 だが確かに――照青の想いもまた、愛情の一つの形には違いなかった。 捩じれたそんな方法でしか求め得ない自分の惨めさは十分理解していたが、彼にはそれしかなかったのだ。 「え……あ――?」 真澄の頭を抱きかかえるようにしていたマヤの、ドレスの裾が後ろから掻き分けられる。 ずるっ、と照青の指先が滑り込んだ其処は――役立たずの玩具などなくとも十分に濡れそぼり、熱く脈打っていた。 冷たい照青の指先を覆い尽くし、たちまちそこから全身に広がるかのような―― かつて女の身体、というものにこれ程感動した事はない、と照青は思った。 自分が女ならば(女みたいだと散々揶揄され続けてこの年まで生きてきたが)、女の身体であったならばこんな風に―― まるで温かな海のように、男を受け入れることができたのか、と。 中途半端な”半々“の自分とはまるで大違いだな……と。 赤紫色の肩越しに、悲痛の表情を浮かべる男の顔を眺めながら、小さく笑った。 「あ……ぁあっ、や――っ、いやっ――み、さん……速水さん!!」 こんなにも空しくて切ないのに―― どうして肉欲だけはこんなに熱くて……惨めなんだろう―― 白く円い双丘がガタガタと震える、その隙間に照青は自らの屹立を激しく突き入れた。 快感はほとんど感じられなかった。 ――意識は、完全に爆ぜ散った。 「……あれ、何、もう片付いちゃった?」 緊迫した空気が嘘の様な、間の抜けたその声に。 泣きじゃくるマヤの髪を撫で続けていた真澄は僅かに視線を上げた。 バタン、と勢いよく開かれたドアから顔をのぞかせた郭琳――の顔をした安浦は、素早く部屋の内部を確認すると、構えていた銃口を下へ向ける。 と同時にその背中をかきわけ、緊張した面持ちの聖が飛び込んできた。 「お前は……郭成貴――生きてたのか?」 「いやいやいや、まさかでしょ、悪いけどもうちょっと男前ですよ俺は――」 と、二人から少し離れた場所に横たわる白い塊―― 血にまみれた純白の長袍を身に纏った照青を眺め、眉をしかめる。 「――死んだ?」 「心は――多分ね」 あの瞬間――マヤが安浦により手渡され、隠し持っていた鍵によって真澄の腕の拘束器具は外された。 照青がマヤの身体に覆いかぶさり、腿の隙間に挿入するのとほぼ同時に―― マヤの身体を引き寄せ、バランスを崩した照青の華奢な身体を真澄は思いっきり突き飛ばした。 彼に取り落した銃を拾い上げて抵抗するだけの気力は既になく、そのまま力なく倒れ伏すと、動かなくなった。 暫くして様子をうかがってみたが―― そこにいるのは、先程ガラス越しに初めてみたマヤと同じような眼をした、よく整った人形でしかなかった。 心は既にバラバラで―― 最後の最後まで、彼の名を呼び、その腕を抱きしめる者は現れなかった。 その孤独は―― 一歩間違えれば自分の姿そのものであったと思い知らされるようなその姿は―― やはり、今は憎しみよりも憐憫に似た感情しか、真澄には思い当らない。 (照青……昭、お前は――本当のお前、は一体、どこにいたんだろうな――) ふてくされた顔で海を睨み付けていた少年―― 誰とも交わらず、周りの者全てを憎み、恐れていた様な気弱な顔。 でもふとした瞬間、その小さな綺麗な声が異国の歌を口ずさむのを…… 身勝手な記憶が、今頃思い出したのを、真澄は静かに受け止めた。 ――聖が素早く二人の傍に駆け寄ってきた。 「申し訳ありません、思った以上に手間取ってしまいまして――マヤ様にお怪我は」 「外傷は大したことない、外は片付いたのか?」 「はい。警察が嗅ぎ付けるまでまだ少し余裕はあるでしょう――動けますか?」 「どこかにヒビの一本くらいはあるだろうが――まあ、大丈夫だ」 ようやく落ち着いたのか、マヤがゆっくりと真澄の胸から顔を上げた。 ふと、聖の後ろで照青を見下ろす安浦の姿を見て、「あ」と声を上げる。 その声に気づき、安浦はにっ――と、郭琳の無骨な顔で笑った。 「はあい、マヤちゃん――うまくお芝居、できたみたいね」 「ううん――できませんでした……あ、あれ、バレちゃったんです――  手錠、も速水さんに使われてしまって――」 マヤはカッと頬を赤らめながら、しどろもどろで呟いた。 あの悪趣味なローターの本当の意図――小型の爆破装置まで装着されていたその機械を利用し、マヤを苛もうとするのが照青のその時の「気分」だったのだ。 マヤの「演技」により救出までの時間を引き伸ばし、僅かな隙をついて救出しようとの計画は途中までは万全だった。 狂い始めたのは、マヤに使われると思われていたあの拘束器具を、照青が真澄に使用した事による。 あれはマヤに使用されると踏んだからこそ、安浦は手に入れた鍵をこっそりマヤに手渡していた。 不器用な彼女が照青に気づかれずに鍵を開けて逃げるなどあまり期待できなかったが、万が一の場合に備え、ないよりは安心だろうと渡しておいたのが結果として真澄を助ける事になったのである。 が――ガラスの向こうの部屋の存在も把握しておらず、三人が最初に同じ部屋で面会しなかった事で聖と安浦の計画は大きく変更せざるを得なかった。 更に、予想以上に照青の手配した配下の者たちの数は多く、台湾本国から送り込まれた李照洪の選んだ精鋭部隊はもっと厄介だった。 彼らは照青の抹殺の為なら、真澄やマヤの安否など全く意に介さない。 その彼らをも欺き、内部に侵入するのは至難の業だったのだ。 「俺たちの計画も狂いまくったし、タイミングも最悪だった。  あんたらが助かったのは結果論で――この仕事は失敗だな。  あーあ、ホントにもう、この稼業も潮時かもなあ……」 安浦は肩を竦めると、首元からべりべりと特殊メイクのように張り付いていた顔を剥ぎ取った。 中から出てきたのは、けばけばしい金髪に細い眉の、いかにもチンピラ風の男。 だが、男の能力が決して見た目に比例するわけではない事は、この場にいる誰もが理解している。 安浦は再び照青を見下ろすと、その顔の傍に腰を降ろして呟いた。 「お久しぶり――ボス。  もう二度とあんたの顔を拝むとは思わなかったよ……  遅かれ早かれそうなったんだろうけど、最後まで可哀相なヤツだったよね、あんたも」 と―― 真澄の制止を柔らかく拒み、マヤがそっとその傍に並んで膝をついた。 「私が……呼んであげれば、よかった――名前」 「え?」 「この人の孤独に――あたしは、もっと向き合うべきだった。  だって、彼も――照青さんも、あたしも、愛するってことを知った時、初めて怖くなったの……  今までの自分が、どうして生きてきたのかわからないくらい、怖くて――  だから夢中で手を伸ばしたの、溺れるってわかってたのに……」 そっと、冷たい頬に手を寄せる。 虚ろな瞳はマヤの哀しげな顔を映し返すだけで、何も反応しない。 ふわりと、赤紫色のドレスの裾が広がり、照青の白い長袍に重なる。 どうしたことか、真澄にはその光景が舞台の一場面のように思えて仕方なかった。 『紅天女』で、阿古夜が眠る一真を抱きしめる――時に赤子のように――全てを包み込む、あの場面に、狂おしい程似通っていた。 web拍手 by FC2

last updated/02/02/

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