「そうやってるの見ると…何であんたがマヤを離したのかわからんくなるね」
暫しの柔らかい沈黙の後、比嘉が呟く。
「この子が離れていったんだ…一度、俺の手で潰しかけたからな」
真澄は眉根を曇らせ、残った酒を一気にあおる。
そのグラスに、比嘉がカラカラ(陶製のデカンタみたいなもの)で注いでやった。
「この子は横浜の貧しい中華街の一角で生まれて、
何の取り柄もないと言われ続けて、自分でもそう思って育ってきた子だ。
ただ唯一、それしかないもの、演劇だけを生きがいにして家を飛び出して…13歳でだぞ」
「マヤが…?13歳か…俺は何してたかな…」
「俺は…ただ会社のためだけに生きていたよ。
今もそれは変わらない…本当は何がしたかったのか、考えることさえなかった。」
だから眩しすぎるのだ、ただひとつの生きがいを頼りに、
それだけでどこまでも強くなれるこのちっぽけな少女が。
目を離すことなどできようもない、だって彼女はあまりに真っ直ぐで――美しい。
「可能性というものはどこまでも伸びるものだと…この子を見ると思い知らされる。
だから君も考えてみたらいい、どこまで自分は進めるのか、何がしたいのか。
俺は道を指し示すことはせん…ただサポートするだけだ、俺なりの方法で」
「なんだ…金の卵とか言うわりに優しいじゃないの、社長さん」
「馬鹿言え、正直君たちアーティストは商品にしか見えなかったこともある。
損得で動くように仕込まれたからな…そういう思考が身についてしまってるんだよ。
現に彼女が離れたのは…」
喋りすぎたと思ったのか、ふと真澄は傾いだ姿勢を元に戻すと口を閉じた。
徐に腕時計を見やる。
「おい、八時何分の便だ」
「ああ、半だけど…」
「もう7時40分だ、まずいんじゃないか」
「いっ…嘘――!?まだまだこれからなのにい!!」
「ほら急げ、アクトスタジオの契約書だ。
それから仮契約でいい、こちらの書類にサインだけしてもらおうか」
「えーっあんたこんな時にまでさあ…」
「時間がないんだ、それともまだ信用できんか?」
「・・・」
差し出された契約書と真澄の顔を交互に眺めながら、比嘉はマヤに視線を落とす。
それから…何かを思い出したように、再びニヤリと悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「じゃあ…ひとつ、何でも俺のいうこときいてくれる?」
「…何だ」
何だか嫌な予感がして眉を歪める。
比嘉は一旦浮かしかけた腰を再び降ろすと、ゆっくりと、
うつぶせで微かに寝息すらたてているマヤの顔を覗き込んだ。
…その端正な横顔が、ふとマヤの髪の中に屈みこみ、唇が唇に触れそうになる。
…瞬間、上目で真澄を見遣る。
「…何の真似だ」
「あは…やっぱり…」
比嘉は半身を屈めたままで、そっとマヤの肩に腕を回した。
真澄はグラスを握ったままでじっとその様子を睨みつけている。
「白状しなさい、あんたマヤがスキでしょ」
「…は?」
「ほら、肩眉が上がる…器用だね〜てか最初からさ、
俺がマヤに触ったりするとあんたピクッてなるでしょ、ほらほら」
「ふざけるな」
「ふざけてんよ」
じっと見つめる比嘉の視線をかわして、空いたグラスに酒を注ぐ。
「あんたとマヤは…変だね、めっちゃ…わかり易いのに気づいてんし…」
「何が言いたいんだかハッキリしたらどうだ」
「それは社長サンでしょう。あんたがマヤのことがスキって認めたら…
仕方ないから今のところは諦めて〜それにサインしてもいいよってこと」
「だからなんでそうなるんだと…」
「ああもう、わじわじーするねこの兄さんはっ!!
時間ないんだから早くしてさ、もう…でないと…」
と、比嘉がマヤの肩に回した腕を引き寄せようとした時。
ふいに、真澄の右手がその手に重なる。
「あ、認める?スキ?」
「…馬鹿馬鹿しい…」
小さく吐き捨てながら、薄い肩に掛けられた比嘉の手を外す。
抵抗することなく、それは離れ、マヤの頭の上で二人の男の腕が宙に浮く。
すっ、と比嘉の腕が離れる。
反対側の手で頬杖をついたまま、穏やかな瞳でじっと二人を見つめる。
真澄は観念したように浅く息を吐き…それから…
…ポン、
と、大きな手がマヤの頭を軽く包み込んだ。
無表情を装った完璧な仮面が、一瞬揺らいだ瞬間を比嘉は見落とさなかった。
「それが…返事でいい?」
「…勝手にしろ」
「でーがんじゅうやっさ(超頑固だなオイ)…まあいいさ。
でもよ、俺が東京きたらどうなるか知らんからね〜マヤ可愛いし俺大好きだもんね〜」
比嘉は柔らかく微笑んでみせると、真澄は肩をすくめ――
それから手の中の愛しい少女に再び視線を落とした。
何も知らず、少し荒い浅い息をついて、マヤは穏やかな表情を浮かべている。
フラフラのマヤを比嘉が何とか起こしているうちに真澄が会計を済ませ、
外に出ると既に水城が待機していた。
そのまま三人はなだれ込むように車内に乗り込んだ。
雨足は店に入る前とあまり変わらず、テールランプやネオンがぼやけて滲む。
と、比嘉の唇から微かにハミングが流れ…そ静かな車内を穏やかに包み込んでゆく。
マヤはおぼろげな頭の片隅でぼんやりとその流れにたゆたっていた。
この優しい響きは何だろうか…とても懐かしいような、不思議な響き。
そしてこの暖かさはなんだろう…そっと髪を撫でるような…心地よさ。
ああ、まるで揺り篭の中にいるみたい、あったかくてゆらゆらした…
人知れず、微笑が浮かぶ。
(あい、かわいいねえ)
どこかでぼんやり声がする、だけど意味はわからない。
もう少し、このまま…そうだ、こんなに心ゆくまで眠ったのは久しぶりだから…
そして、記憶は白く遠く掠れてゆく。
最後に耳にしたのは――
「わじわじーする」→「イライラする」の意。
「8時の飛行機」の裏話。羽田〜那覇間の最終便はJAL、ANA共に8時ジャストなんですww
作中の台詞「8時半の便」は有り得ないんですね(笑 でもホントに8時にしちゃったら、飲み食いと移動のの時間考えると・・・流石に夕方4時スタートは早すぎるし、居酒屋そんな時間に空いてないでしょ?だから勝手に便数増やしてみた、という訳なのでした。
タクシー、居酒屋とマヤたんをでかい男に挟ませたのはこの「マヤの肩にかかった比嘉の手を外す」シーンが書きたかったから。
嫉妬王の癖にがんじゅー(頑固者)な社長の本音を比嘉君にひん剥いて欲しかったのでした^^
last updated/11/06/11