第3話




「言え、マヤ――本当に、俺の結婚式を祝ってくれてたのか?
 俺には……そうは見えなかった。憎まれてるのはわかってる、俺を邪魔だと思ってることも、出来れば関わりたくないと思ってる事も。でも少なくとも、無関心ではなかった――だろ?今までは。でも今日の君は……」

まるで、今までの二人の時間と距離を全く消去してしまいたいのだと言わんばかりに。
さり気なく差し向けた視線は全く絡む事なく、唯一交わした言葉は上っ面だった。
誰とも交わらず、笑顔一つ浮かべず、石のように冷たく、そんな彼女の表情など真澄は今まで見たことがなかったのだ。

――まるで、硝子の上に転げ落ちたまま、儚く消えてゆく氷の粒のようだと。

煌びやかな光と影、胡散臭い祝福の言葉を連ねて近寄ってくる数多の人垣の彼方に消えてゆく小さな後姿を認めて、そう思った。途端に、無性に苛々し始めた自分を自覚した。
どんな感情であろうとも、彼女からぶつけられる激情には常に血が通っていた。
だけど今、彼女との距離は決定的になったのだと思い知らされた。
意に沿わぬ結婚という何の言い訳も立たない理由もそうだったが、紫のバラがある限り彼女との密かな絆は切れないで有り続けるのだと思い込んでいた。
でも違う。今宵、「完璧な」花嫁を得ると同時に。彼女は永遠に手の届かない女となった。
そんな当たり前の事実に、よりによって結婚式のその日に打ちのめされるなどとは。

「……社交辞令も禄にこなせなくて……悪かったですね」

ようやく、ようやく零れ出た言葉は。
いつもの調子で、でも溢れ出る涙の筋が真実に覆い被された幾重もの膜を溶かしてゆく。
その溶けてゆく様を、真澄は息を潜めて見つめている――彼女を見守り続けた長い長い年月、時折心の片隅に浮かべては自ら打消してきた、ある期待を込めて。
思わずもう片方の掌も差し出す。
小さく冷たい彼女の頬を包み込む。
真実が、冷たい二人の肌と肌の間に染みわたり、捩じれた感情に火を点ける。

此処を逃しては駄目。

今、この瞬間に捕まえないと――もう二度とは手に入らない。

二人同時に、猛烈な愛憎の虜となる。

「祝えるわけ、ないです。幸せそうな速水さん見てたらあたし――もの凄く、イヤな事ばかり考えちゃって。結婚式なんか駄目になっちゃえ、とか、何で自分だけそんなに幸せそうなの、とか――速水さんの事、どんどん嫌いになっていって。本当に、このまま此処にいたら馬鹿なことしそうだなって思ったから、だから逃げたんです」

「最高だな――それ以上に嫌われたら、もう一生俺を忘れられないだろ」

「最悪ですよ……でも、そうですね。確かに――もう、無理っ……」

最後の言葉は嗚咽と共に消えていった。
白い息と、涙と交じり合って、真澄の唇の中へと。
驚くほど熱い舌が乾燥してひび割れた唇を割って侵入してくる。
冷え切った感覚がそこから徐々に緩み出す――熱く、切ない程痛く、全身を覆い尽くす。
そこでようやく、マヤは察することができた。
この有り得ない状況下で、彼がこうしている事の意味が。

「速水さんも――逃げてきたんですか?」

僅かに離れたその瞬間、マヤは呟いた。
不自然な程半身を傾けていた人が瞼を開いた。

「そうだ。式も花嫁も全部放り出して逃げてきた――お互い様の意味がわかったか?」

冷血漢だなんて、機械のような男だなんて、今まで自分も含めて一体彼の何を知っていたというのだろう。彼が、こんなに熱い、蕩けるような瞳で誰かを見つめることがあるなんて事――その瞳に映っているのが他ならぬ自分らしい、という事。都合のいい幻でも何でもなく、その熱を感じられる距離で触れている、触れられているという事実。
急速に心の中に広がってゆく充足感――なんて単純な人間なんだろう、とマヤは思わず身を竦める。
もっと考えなければいけない事が沢山あって、今すぐかぶらなきゃいけないはずの仮面だってあるはずだ。この人の幸せを、本当に願っているというならば。今からだって遅くはない、逃亡者は自分一人だけでいい。

「……でも、もう戻らなきゃ」

「戻る?」

「そう。もう12時過ぎちゃったんでしょ?おとぎ話だととっくに魔法の時間切れってやつです。大体、あたし速水さんの事嫌いなんですよ?なのに……どうしてこんな所まで逃げてこようなんて思ったのか、ちょっと変ですよ、速水さん」

怒らせるつもりで言ったのに、大してそれらしい感情がこもっていない事にマヤは自分で気付いていた。そんな上辺だけのセリフが、今の真澄に通用しないであろう事などわかっているはずなのに。案の定、真澄は唇の端に微笑さえ浮かべながら応えた。

「共犯者の癖に、冷たい奴だな。君にまで逃げられたら俺は完全に独りだ。
 戻る場所なんて最初から有り得ない男に、どこに戻れっていうんだ?」

唐突に肩を掴まれたかと思うと、マヤはぐるりとひっくり返された。
背後からすっぽりと抱きしめられたまま、先ほどより幾分水面の荒くなったような海を眺める。耳のすぐ脇に真澄の冷たい頬が重なる。自分で吐いた偽物のセリフに傷ついていた心がみるみる踊り出す。その動きを抑え込もうと伸びた両手の上に彼の掌が重なる。どこもかしこも彼によって覆い尽くされる――逃げることなど、もう不可能だ。

「飛び込むつもり――だったのか?」

「……飛び込んだこと、あるんですよ。昔、ここで。
あの時は――チケットを取る為に。『椿姫』の……」

「『椿姫』?」

「あ――速水さんに初めて会ったのも……あの舞台、でしたね」

あの時は舞台への情熱しかなかった、他には何も。
気が違ってる、とまで言われながら手にした、濡れて今にも破れそうな紙切れ一枚。

「君らしいな。その情熱がなければ俺たちは出会わなかった訳か」

「そうかも……しれませんね。皆に、頭がおかしいって言われました」

「俺にも経験はある――子供の頃に、生き延びる為に飛び込んだ。
 以来夜の海はあまり好きじゃないんだ――冷たくて、何の希望もない。
 例え君と一緒でも、わざわざ飛び込んでみたいとは思えない」

何それ、心中ってやつみたいですよ、と言いかけてマヤは口をつぐんだ。
この場合、ちょっと悪趣味な冗談のように思われたから。
だが次の瞬間、全く冗談とは思えない囁きが耳の中に飛び込んできた。

「その代わりに君に抱かれたい。今すぐ、此処でもいいくらいだ。
 このまま凍え死んで欲しくなかったら、俺を抱いてくれないか?」

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last updated/10/11/21

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