第4話


声を聞いても、まだ遠かった彼女が、 息せき切って闇の中に現れた。 その蟲惑的な情景に、ゾクリと鳥肌が背筋を駆け上がる。 三年ぶりの彼女だ。 艶やかな黒髪はそのままに、 闇夜のせいかそれともこの街灯のせいなのか 小さな顔、か細い手足…その肌が青白く浮かび上がる。 だがその内側に走る静脈や肉の柔らかさは 確かに、胸の奥で俺を苛む幻でも何でもなく、 生きた少女。 いや、もう少女ではない… マヤがいる。 マヤが俺を見ている。 紫の薔薇を送り続けた男の前に 今初めて立っている。 「婚約解消、おめでとう…」 そんな彼女の何もかもを 奪うために俺は舞い戻った。 速水真澄としてではなく、 彼女の思慕をただ一つに集める、 紫の薔薇の人、としてだ。 マヤは何も言わない。 大きな美しい瞳を見開いて、その様子は 失われた10年の情愛を何処にもってゆけばよいのか 図りかねているように…見えなくもない。 まあいい。 すまない、などという感情は3年間でとっくに消え去った。 お前が傷つけば傷つく分、 俺も一緒に壊れてゆくのだから…大丈夫… 「…わかりません。 どうして貴方がこんなことするのか」 僅かに震える、ふたひらの唇。 薄いその唇から、生の声が零れる。 思い出ではない、 映像の向こうの声でもない、 しかも俺自身に向かって投げられる マヤの声。 …最高だ。 この悦びからどうして三年も遠ざかって生きていたのか 昨日までの自分が不思議なくらいだ。 応える代わりに、 俺はそっと腕を上げる。 指先に、マヤの小さな顎が触れる。 一瞬、身を硬くするも、そのまま動かない。 紫の薔薇の蔓が、 もう10年も縛り付けている見えない繋がりが、 この子の身体を動かさない。 硬い小さな身体の下に、熱い血が通う。 その血の蠢きが俺の身体の血さえも熱く狂わせる。 冷たく凍っていたはずのこの身体なのに。 俺はそのまま指を離し、 くるりと振り返って、もたれかかっていた車のドアを開ける。 ぽっかりと開いたその暗闇の側に立ち、 ふざけた調子で腰を折る。 「さあ、どうぞお乗りください、紅天女様」 マヤは拒まない。 拒めるはずがないのは俺が一番よく知っている。

その声に導かれるままに、 暗い車内に潜り込んだ。 ふっ、と薫るのは、 カードの残り薫よりも鮮やかな この隣に座る人のものなのだ。 遮られた運転席との間から 聞き覚えのある、これまた三年間一度も姿を見せなかった 紫の影の声が漏れる。 「それでは参ります」 聖さんの一言と同時に 車はゆっくりと滑り出す。 長い沈黙。 だけどあたしは知っている、 すぐ側から向けられる、突き刺すような視線を。 何を考え、何を思っているのか 決して知ることのできない視線を。 「見るか?」 と、3年間の空白も それより前の時間も飛び越えて その声とともに長い手が伸びてくる。 一瞬緊張する目の前に、 差し出されたのは…数枚の写真だ。 黙って受け取る。 視線を合わせるのが怖くて、俯いたまま。 それは… 1週間前の、桜小路君との婚約披露パーティーのものだった。 一枚目、たくさんの関係者に埋もれた私たち。 あまり大ごとにしたくない、と言ったのだけれど あたしの頼りない決意を固めるためには必要だと思ったのか 桜小路君は大きなホテルの一室を貸しきって、 盛大な婚約披露宴をしてくれた。 記者会見がなかったから、よけいに事は大きくなって、 それでもあたしの周りに麗や「つきかげ」の仲間達を呼んで囲わせて、 あたしの緊張が少しでも軽くなるよう、 桜小路君は何から何まで私を気遣った。 二枚目、その輪の中心にいる二人のアップ。 あからさまな作り笑いが浮かんでいる、あたしの顔。 緊張と、不安で。 その隣の桜小路君の…柔らかな笑顔が胸を刺す。 自分のしたことの酷さを 突きつけられるような写真だ。 三枚目…に、思わず爪が白くなるほど緊張する。 ――マヤちゃん、ちょっと ふいに囁かれて振り返った、瞬間に交わした軽いキス。 一斉にたかれたフラッシュの光の中で 真っ白になったあたしの頭の中には しつこいほどのあの幻が過ったのだったが その、まさにその人に この瞬間を知られた、という事実に これ以上ないほど…緊張して指が冷たくなる。 やっと視線を上げる。 流れてゆく街の光に浮かび上がる輪郭に 今初めて正面から向き合う。 三年ぶりの…速水さん。 三年ぶりの…紫の薔薇の人。 変わらない、いや少し変わった、確実に。 ある瞬間に垣間見せた穏やかさがない。 硬く…もしかしたらあたしより緊張しているのだろうか 綺麗な唇は引き結ばれて その皮肉っぽい口角は相変わらずなのだけど、 その瞳の色の厳しさに あたしの思いも言葉も先に進まなくなる。 どうしてそんな風にあたしを見るのだろう。 どうして…何も言わないのだろう。 貴方のいない空白を、埋めるだけの時間と言葉は これから行く先にあるのだろうか。 と、その視線が窓の外に流れて、はっと光る。 「聖、止めろ」 ピタリ、と音もなく止まる。 速水さんは…ゆっくり振り返る。 それにつられて、あたしの首も動く。 後部座席のガラス越し、 人通りもまばらな歩行者道路の上を 足早に、来た方向へと歩いてゆく桜小路君の後姿が見えた。 クッ、という 呻きのような笑い声に驚いて横を見る。 「はは…いつだって、遅れてやってくるんだな、あいつは」 皮肉な唇が歪んで、 震える前髪の奥の瞳が細くなる。 その眼の端に、三年前にはみられなかった ごく薄い笑い皺が寄るのに気づいて、 そんな些細な変化さえ逃すまいと見つめている、 あたし自身はどう変わったのかな、なんて 急に頬が熱くなってしまう。 たぶんあたしの様子を見に向かっているはずの 桜小路君の姿はもう遠くに押しやったままで… 「あいつを愛しているのか」 「…それに、あたしは答えなきゃいけないですか?」 「いや、どっちでもいい。…もうどうでもいいことだ」 その言葉の意味が、心底わからない。 婚約は許可しない、というその意図がわからない。 10年の繋がりの、訳が知りたい、いやそれよりも… 手を伸ばした。 速水さんは、ゆっくりとしたあたしのその動きを ただじっと見つめていた。 冷たいシートの皮の上を滑るようにして 伸ばした指先がその指先にぶつかる。 少し躊躇った後、固いスーツの袖先を 握り締めて…お願い、何も言わないでと願いながら… あたしはありったけの思いを込めて呟いた。 「あいたかった…です」 と。 web拍手 by FC2

社長は嫉妬にとち狂ってるくらいが一番イイ!!オトメンな頬染めもいいけどさっ!!!(笑)
       

    

last updated/05/01/30

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