第5話


久しぶりにみる屋敷は相変わらずで、 周囲から完全に孤立し聳え立つ。 義父が死んで二年が経ち、昔から仕える使用人たちにも皆暇を出した。 今では屋敷と庭が荒れ果てない程度に 朝倉が指示を出し手入れしているらしいが 人が住まなくなった家というものは もはや家ではなくただの建造物だ。 そこに潜む過去や何かの断片は この三年ほとんど浮かぶこともなかったけれど 今背後にマヤを従え 踏み込むこの先にこそ全ての意味がある。 車は静かに門の前で止まり、 聖が回ってドアを開ける。 マヤは眩しそうに、その闇の中で佇む紫の影を見上げる。 何か話しかけた、その言葉に聖は軽く頭を下げ、 それでは、と一礼して再び車内に戻る。 そのエンジン音が消えるまで、 マヤは呆然とその姿を見送る。 俺は無言でセキュリティーを解除する。 重い鉄の扉が軋みながらゆっくりと開かれる。 マヤの気配を捉えたまま、 ひたひたと砂利道を進む。 裸足のマヤの、足裏にその音は吸い込まれ 俺の靴が踏みにじるジャリッという響きだけが この先の彼女を暗示しているようで、少し苦しい。 そしてそれ以上の…暗い悦びに胸が潰れそうだ。 「まあ 楽にしろ  君も、初めてじゃないだろうこの屋敷は」 カチ、 とスイッチを入れると 橙色の照明がすっと廊下を走ってゆく。 振り返ったマヤは、やるせなく俺を見つめる。 無理もない。 十年も抱えた紫の薔薇への想いを 俺は一向に口にしようとしないし、 祝福をぶち壊しにするその意図も おそらくこの子にはまるで理解できない。 か細いその思慕の情は あと少しで途切れて消える。 「足を洗いなさい」 言われて初めて気づいたように、 マヤはハッと視線を落とした。 部屋着姿のまま、携帯電話だけを持って飛び出してきた、か。 わかってるのか? もう帰るところはないんだぞ、マヤ… キイ、 とバスルームの扉を開ける。 その腕の下を、通れと俺は目で促す。 金と銀の金属が 淡い照明に浮かび上がる。 栓をひねると、クリーム色の湯船に湯気が立ち上る。 その水音を背に俺は振り返る。 突っ立ったままのマヤを尻目に、 壁に掛かったシャワーのコルクを回す。 柔らかな、熱い湯が指先を濡らし、程よい温度となったところで おもむろに蹲る。 マヤはビクリとその手を避ける。 やめろ、それ以上拒むと保障ができない。 ――だがそのまま、そう、いい子だ、そのままでいい。 汚れた足を湯で流す。 柔らかな湯は踝を流れ、甲を伝い、 小さな指先の間に滑り込む。 石鹸はつけることなく、俺の指で泥やゴミを払う。 三年どころか、もう何年も触れたことないこの肌。 ああ、はるか昔に 雨に降りこまれた梅の谷で 冷たいその肌を抱いたこともあったな、 だがお前は何も言わなかったし 俺も何も言えなかった。 それから後の言葉はすれ違ったまま 思いもすれ違ったままで、 それなのにお前はただ真っ直ぐに美しく、 天女の微笑で俺を祝福した。 その言葉に俺がどれだけ絶望したかなんて、 他の男と結婚しようというお前にはわかるはずがない。 ふいに苛立ちが過り、 シャワーを投げ出して俺は立ち上がった。 マヤは眼を丸くしてそんな俺を見つめる。 「…風呂に入るんだな、チビちゃん。  着替えは出しておく」 それだけ言い捨て、俺はその場を離れた。

これから何がおこるのか、 あたしにはまるでわからない。 あいたかった、 と呟いた時も、あの人の表情はまるで変わらなかった。 これから何を話してくれるんだろう。 そしてあたしは何を伝えようとするんだろう。 婚約は、破棄します。 貴方が、許可しないというなら。 そして…? 解決しない想いに頭を振って、 あたしは思い切って服を脱いだ。 静かな興奮と喜びが湧き上がる、 同時に計り知れない不安と恐怖。 そんなものを全部振り切って、 なみなみと熱いお湯の張られた湯船に飛び込んだ。 ふう、 と大きく息を吐き、 ゆらゆら白い天井に立ち上る湯気を見つめる。 さっきから今までのこと全てが嘘みたいだ。 あんまり想って想いすぎて、 性質の悪い夢でも見ているみたい。 でもさっきの感触は間違いなく両足に残る。 温かなお湯が流れ、速水さんの指が触れた、この足に。 両脚を丸め込み、そっと自分の指をあてがってみる。 ちょっと熱すぎるくらいのお湯の中で じんわりと呟いてみる。 「速水さん」 もう口に出しても大丈夫。 二度と幻に苛まされることはない、 あの扉の向こうには本物の彼がいる。 「速水さん…」 すきなんです。 本当にね、おかしくなるくらい、 大好きなんです。 十年分の疑問を貴方は撥ね付けますか。 それなら何も言いません。 だから、すきだと言わせてください、何も言わずに。

扉の下に、バスタオルと共に服が用意されていた。 白くすべすべとした素材の、 ふんわりしたワンピース。 そっと被ってみると、 ぴったりとあつらえたように身体に纏う。 すとん、と落ちた端を軽く引っ張って、 鏡の前に立ってみる。 冷たかった皮膚は温かく血が通って、 ちょっと痩せすぎだと桜小路君にもみんなにも言われたけれど やっぱりそうだろうか、子どもっぽく見えてしまうだろうか。 もうチビちゃん、と呼んでくれる人もいないのだからと 何も気にしていなかったけれど。 溜息をついて、 湿った髪をもう一度撫で付けて、 未知の扉を押し開けた。 テーブルの上には 蝋燭の照明に キラキラ瞬く透明なグラスやお皿が並ぶ。 速水さんはその奥に腰掛けて 眼で座るようあたしを促す。 長いテーブルの、その横の席に、恐る恐る座った。 「どうした、もう夕食は済ませてたか」 手があまり動かない私をちらりと見て 速水さんが呟く。 「い、いえ…そうじゃないです、けど。  なんか…なんかへんですね…」 「…まあ、冷めないうちに早く食べてしまえ」 長い睫を伏せて、 無言で食事を進める速水さんの指先。 迷いなく動き、時々立ち止まり、グラスに向かう。 飲むか、 と眼で問われたので、こくりと頷いた。 赤い液体が、とくとくとあたしのグラスに注がれる。 「…違う」 カチャン、と音がして、 速水さんがお皿の上にナイフを置いた。 「手、持ち方」 と、そのまま椅子を立ち、 くるりと私の後ろに回る。 「ナイフはこう持つ…そう、こんな風に」 背後から腕が回る。 ギクリと身が縮むけれど、 心臓がぐるぐるして口から飛び出しそうだけど、 何とか抑えこむ。 でも指先は震えている。 その指に、速水さんの指が伸びる。 冷たい指。 「…何故震える?」 声が耳元で囁く。 「…速水さん…あたしは」 ずっとずっと想ってました、 馬鹿みたいに。 「君は変わらないな…  俺はこんなに変わってしまったのに」 まだ湿ったままのあたしの髪に、 唇が触れそうで触れない、 でも声は耳の中にするりと滑り込む、 生暖かい息と共に。 す、 と身体が離れる。 ほっとして、その顔を見上げる。 側に立ったまま、やや俯いたようなその顔を。 諦めたような、疲れたような、 こっちの胸が潰れそうな眼で見つめられる。 白いテーブルクロスの上に軽くのった手が するりとあたしのグラスをつかむ。 くっと一気に流し込む、赤い液体が喉を伝う。 そして… ぷちゅ、 と湿った音をたてて唇が重なる。 絡まる。 赤い液体の痺れがあたしの舌に移る。 やっと…我に返る。 「は、や…!」 ぐっと腕を伸ばして突き放す。 被さった上半身はすぐに離れる。 乱れた息を整えながら、あたしは唾を呑んだ。 「わかんない…!」 「何が」 「速水さんが何考えてるか、  ぜんっぜん、わかんない…!」 「薔薇の理由が?  今回のカードの意味が?」 「全部…!もう、ほんとに…どうして…  どうして、あ、貴方が…」 「どうして俺が…?  その理由が…知りたいか、今すぐに」 最後の言葉を言い終わるより先に 椅子から腰を浮かせたあたしの 腕に向かって速水さんの腕が伸びた。 桜小路君に捕まれた時とは 比較にならないほどの握力で あたしは引き寄せられ、引きずられてゆく… web拍手 by FC2

当時のフェチズムの頂点、それが「裸足」であったとさ。
       

    

last updated/05/01/30

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