第5話


あの頃のことを思い出すのはいつだって非常な努力を要する。 忘却の箱の中から目的の記憶を探し当てるのが難しいとか、そういう理由からではない。 思い出す度に、胸が引きちぎられそうな痛みに竦み上がるからだ。 痛み──大切な人を失った悲しみ、初めて不特定多数の”悪意”に触れた辛さ。 そして──そうとは知らずに深く傷つけていた、最も大切な人の心を想う時。 未だに、あたしは心臓から血が吹き出すような痛みを感じる。 そう。あの頃のことなら、あの頃の彼とあたしとの間にあった事なら、一言一句とまではいかないけれど、かなり細かい所まではっきりと覚えている。 あの時、高い窓から部屋の中いっぱいに差し込んでいた光の筋。 背の高い彼が作り出すもっと高い影法師が、壁のどの側に伸びていたか。 飴色に輝く夕日の眩しさと、その向こうに広がる黒々としたビルの影。 そして一向に静まる気配のない自分の心臓の鼓動──そのうち喉を突き抜けて外に飛び出してしまいそうなのを必死で堪えていた。 交わした、一言二言のやりとり。 いつもと変わらない、あたしの投げつけるような言葉に皮肉めいた笑みと共に応える姿。 あの頃のあたしは、事あるごとに彼に突っかかり、怒りと軽蔑の台詞を投げつけてばかりいた。 それが正しいことだと信じていたし、そうでなければあたしはあたしという人格を安定できなかったのだと今はそう考えている。 あの頃──『奇跡の人』のヘレン役で助演女優賞を受賞し、芸能界という世界に本格的に踏み出した頃。 ただ演技ができることだけが嬉しくて仕方なかった子供のあたしが飛び込んで得たのは、全力で演じることのできる喜びと、光の作り出す影の怖さ── あたしは大河ドラマで役をもらい、大きなCMの契約に映画の主演と、今までとは比べ物にならない程大きな舞台で活躍する機会を与えられていた。 全ては、月影先生があたしの所属を大都芸能に委ねたことによる── 彼、速水真澄の手腕がなければ、それまでほとんど芸歴のない、 後ろ盾も何もない平凡な少女に過ぎなかった北島マヤが1年足らずの間にスターになることなど有り得なかった。 だけど、あたしとあの人はいつだって敵対していた。 何といってもそれまでの彼は、『紅天女』の上演権を狙ってあたしと仲間の劇団を潰し、様々な手段を用いて月影先生を追い詰めてきたのだし。 大都に所属してからも、何かにつけあたしをからかい、焚きつけるような事ばかり言ってはあたしが怒り狂うのを楽しんでさえいるように見えた。 だけど全てはあの人の掌の中で動いていた事だった。 怒れる少女は、あの皮肉な笑顔の仮面の下で何としっかりと守られていたのだ。 あまりに子供だったあたしは、それを察することもできなかった。 親友だけがその予兆を与えてくれたというのに、理解しようとさえしなかった。 そして万事に抜け目のない彼にもミスはあった──全てをただ一人が掌握することなどできるはずもないのに、彼は自分の力をやや過信していたのかもしれない。 彼は更ににあたしを売り出そうとした──その思惑の本当の理由を誰に明かすこともなく。 彼自身も認めたくなかったという理由で。 ましてあたしなんかには想像もつかない程の理由で。

未だにあたしは、速水真澄という人のことがよくわからない。 優しい眼であたしを見つめたかと思えば、全く感情の読めない仮面で冷酷な台詞を操る。 少年のように悪戯っぽく振る舞ったかと思えば、悪魔のように狡猾な笑みを浮かべる。 彼は、彼の人生という舞台で完璧な仮面を被って”速水真澄”を演じているようにも見える。 あたしはその舞台でどんな役回りを演じているのだろうか── その他大勢の脇役の一人? それとも彼の運命を左右するような重要な役? ──『紅天女』がある限り、何らかの影響を与える役ではありそうだ。 だけど舞台裏で彼が仮面を外し、素顔を見せる相手はあたしではない。 でもあたしにとっては。 あたしの最大の敵にして、正体不明の紫の薔薇の人にして、いつしか狂おしい程の愛情を抱いてしまったあの人は。 あたしの人生の舞台においては、速水真澄は紛れもなく最重要人物だ── ただしこの芝居には台本がないので、次に彼がどんな台詞を呟くのかは全く読めない…… おまけに、主役であるはずのあたし自身が、あたしの心を掴みきれないでいるから厄介な事この上ない。 そう、あの頃のことを思い出すと、あたしの胸はいつだって。 例え眠りに落ちるその瞬間であったとしてもドキドキと勝手に鼓動のピッチを上げてゆき、どうしようもなくなる。 あの日の社長室は、どこもかしこも燃える火のように赤く染まっていた。 あたしの身体も、いつも冷たく取り澄ましたようなあの人までもが。 冷血漢だと罵りながら、その肌の下に確かに流れているはずの血の熱さを、あたしは想像した。 そしてそんな自分に狼狽して、更にきつい言葉を投げ出した。 思えば、あの日の彼は最初からいつもと少し様子が違うようだった。 いつもは憎らしい程余裕たっぷりで私の喚くのを笑って見ているのに、その日はどこか上の空といった感じであたしと視線を合わせようとしなかった。 それがあたしを更に苛立たせた。 「それで──君は一体、何が言いたいんだ?」 ようやく、あたしの眼をみて、彼は吐き捨てるように言った。 厳しいその視線にもあたしは怯まなかったし、むしろようやくこちらを見た彼に安堵するような気持ちにさえなった。 安心して、あたしは叫んだ。 「だから!意地悪にも程があるって言いたいんです!  いくら大都芸能の宣伝になるからって、あたしと亜弓さんの記者会見を同時に行うなんて──」 「それはさっきも聞いた。それの何がご不満だ?君は『紅天女』候補として亜弓君と共に注目を集めた──  彼女と違って君はほとんど無名だ、それが今や日本中が彼女と君を比較して興味を持って見ようとしている。それの何が悪い?  意地悪、何が楽しくて俺が君に意地悪なんてする必要がある?」 「だって──あなた、あたしの事嫌ってる。失敗すればいい、潰れてしまえばいいと思ってる!  だからあんな卑怯な事──」 途中で、あたしの言葉は途絶えてしまった。 気づいてしまったのだ。 あたしはただ怖いだけ──あの亜弓さんと自分が比べられてしまう事に、ただ怯えているだけ。 『紅天女』を目指すと公言しておいて、それを演じられるようになっても大都だけには絶対に出ないなんて大口叩いておいて、 いざその道に向かう途中であまりの壁の大きさに立ち竦んでいるだけ。 彼のやった事は卑怯でも何でもない、きっと当たり前の事なのだ。 「──怖いのか」 ぽつん、と投げ出された言葉。 カッとなって何か返そうと思ったのに、できなかった。 あたしの中で張り詰めていた何かが一瞬で弾けてしまった。 あの頃のあたしとしては有り得ない事なのに──あたしは、彼の前で弱さを曝け出したい誘惑にかられた。 この人はいつかあたしの事を金の卵だと言った── 大都にとっての金の卵なら、少しくらいは大事にしてもらえるのかもしれない……と。 「怖い、です──」 頷いたら、ついに涙が零れてしまった。 ぽたり、と、高そうな絨毯の上にシミが一つできるのを、滲んだ視界でじっと見つめながら呟いた。 「演じるのは、好きです──お芝居をしていると、生きてるって感じがする。  でも──北島マヤに戻った時は、もの凄く怖くなるんです……」 月影先生はもう離れていってしまった。 麗やつきかげの仲間、桜小路君とも会えない日が続く。 母さんもいない今、例えようもない孤独を分かち合う人なんてどこにもいない。 喜びや悲しみ、悔しさや辛さを訴えれば受け止めてくれる人なんてどこにも── 「なら、おいで。」 聞いたこともないような、暖かい声。 誰の声なのか、一瞬本気で考えてしまった程。 きっとあの人なら。 あたしの初舞台から見守ってくれている、あの紫の薔薇の人ならこんな声だろうかと。 でも、この部屋にはあたしと彼しかいないはずだった。 涙にボロボロになった顔を呆然と上げると、夕日を背にした彼は机に軽くもたれかかりながら、じっとこっちを見つめていた。 右腕を僅かに差し出しながら──微笑んでいた。 あの、速水真澄が。 そういえば…… 初めて劇場で出会った彼は、やっぱり微笑んでいた事を思い出した。 そうだ、出会ったばかりの頃の彼はいつだってあたしに微笑みかけていた。 そしてあたしも── 何かに導かれるようにして、一歩前に足を踏み出した。 その瞬間、差し出された彼の腕がさっと伸びたかと思うと、たちまち強い力で抱き寄せられる。 もはや忘れようもない感覚だった。 アカデミー賞受賞パーティーで踊った時、躓きかけたあたしを抱きとめた腕。 軽く、それでいて力強く、僅かに煙草と甘い香りのする──大人の男性の腕。 一度弾けてしまったあたしの感情は、強く暖かい彼の腕の中で完全に溶けきってしまった。 「大丈夫」   低く、穏やかな声──こんな声、やっぱり聞いたことない。 桜小路君とは違う、里見さんとも異なる、耳に届いた瞬間ゾクリと震え上がるような甘い声。 憎んでいるはずなのに。 大嫌いなはずなのに。 この人も、あたしのことなんて生意気で邪魔な小娘だと思っているに違いないのに。 なのに、どうしてこんなに優しく髪を撫でてくれるんだろう。 ずっと小さい頃、風邪をひいて母さんに看病してもらった時、背中を撫でてもらった心地良さを思い出した。 あの時の母さんの手とはまるで違う、大きくて骨ばった掌は、でもなんて柔らかくて気持ちいいんだろう── 死んだ父さんの事なんて何一つ覚えていないけれど、もしあたしに父さんがいたらこんな感じなんだろうか。 「マヤ」 今まで、彼があたしの名前をこんな風に呼んだことがあっただろうか。 いつでもチビちゃんと呼んでからかう、この人が。 「君は──この先何があっても前に進まなければならない。  俺を憎みたいなら憎めばいいし、それで前に進めるならいくらでも俺を憎め」 だが、と、彼は息を呑んだ。 「どうしても怖くなって、逃げ出したくなったら。  何もかも忘れたくなったら──もう一度、此処へ来い」 そして──彼は、あたしに初めてのキスをくれた。 それがキスだと気づくのには、だいぶ時間がかかったけれども。 web拍手 by FC2

last updated/11/03/04

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