第9話


「速水……さん?」 「──起こしてしまったか」 大丈夫。 いつもと変わらない俺の声、俺の仮面。 「何故、ここに?」 彼女の方もいつもどおり。 少し緊張して、じっとこちらを見据えながら口を尖らせる。 「大分疲れてる様だな。寝てるのか?」 「お陰様で、ここ暫くあまり眠れてません」 「君にしては上出来な嫌味だ。が、確かにこの所の君の働きは素晴らしい。  このままゆけば社会現象になるのは間違いない人気ぶりだよ、君の沙都子は」 「そ、それはどうも」 頬に張り付いた髪の毛を払いながら起き上がり、肩にかかる毛布に気づくマヤ。 そのままそれを身体の回りに巻きつけて座り直す。 俺から少しでも身を守ろうとでもいうようなその姿に、なぜか微笑みを浮かべそうになるのを自制する。 「そ、ういえば──この前、ありがとうございました」 「この前?」 「あの、あたしの部屋に誰かが入ってきた時に──泊めて、もらって」 「ああ、気にするな──仕事だからな」 「仕事」 「そう、仕事。社長として、大事な商品を守る役目がある。  何か他に気になることがあれば何なりと」 「──最低ですね」 「感謝した直後に罵倒か。難しい性格だな、ちびちゃん」 「出てって下さい。台詞の確認したいんで」 「了解」 改めて、ドアの外へと足を踏み出す。 入ってきた時よりも心が浮き足立っている自分にとっくに気づいている。 彼女の声を聞きたい、という今夜の願いは叶った。 その上──最低付きとはいえ、おざなりの台詞とはいえ、「ありがとう」という台詞まで。 ありがとう。 随分前になるのに、ほんのつい最近のような気がしてならない、出会った頃の彼女との会話。 ほんの気紛れで、彼女に劇団オンディーヌの見学を許可したあの時、興奮と感謝に満ちた声で俺に向かって叫んだ彼女の台詞。 ただ演技の稽古が見たいというだけで、寒空の下二時間窓枠に張り付いていた少女の名前を知ったのはその時が初めてだった。 ──バタンッ 数歩も進まぬうちに、背後のドアが勢いよく開く音が響く。 何事かと思わず振り返る。 そこにいたのは──顔面蒼白で、唇を戦慄かせたマヤ。 虚ろな眼が、恐ろしいものでも見るかのように俺を見つめている。 「どうした」 「……薔薇が」 「え?」 「薔薇が、届かないんです。紫の薔薇が──」

背筋が凍る、というのはこの場合おかしな表現かもしれないが。 だが確かにその台詞は俺の度肝を抜いたのに間違いない。 「マヤ、一体どうしたんだ」 慌てて近寄ると、さっと扉の影に身を隠す。 中途半端に開いたままの隙間に苛立ちと共に手を差し入れ、強引に開いた。 薄暗い部屋の入り口で、頼りなく俺の目の前に立ち尽くすマヤ。 「や──その、あたし、今は舞台に立ってないし……いつでももらえるとか、そんな風に思ってるわけじゃ、ないんですけど。  けど──何でかな。ふ、不安になっちゃったっていうか」 「君のテレビでの活躍は、その人も十分わかっているだろう──ファンなら、尚更」 「──そうだと、いいんですけど」 何故それを俺に訊く? という台詞を必死で飲み込み、項垂れる彼女の首筋から眼を逸らす。 「何なりと、とは言ったが。いくら俺でも君の紫の薔薇のひとにはなれないぞ」 「……当たり前です」 マヤはきゅっと唇を噛み締め、床に広がった台本と毛布を拾い集めようと身を屈めた。 先に腕を伸ばして台本を取り上げ手渡してやると、指が触れないように慎重に受け取られた。 俺が曲げた脚を完全に伸ばして立とうとしたその瞬間、交差した顔の横、耳元で彼女が早口に呟いた。 「海に行きました──里美さんと。二人で」 「──何」 「海岸でお弁当を食べて──砂遊びしたり、走り回ったり。  知ってますか?砂浜って、耳をあてると海の音が聞こえるんですよ」 「……よく水城君の眼をかい潜ったものだな。  だが、少々調子に乗りすぎだ。今まで控え目な交際だからと眼を瞑っていたんだが」 「あたし、今までお芝居の世界しか知らなかったんです──あんな楽しさは、本当に初めてでした。  とても楽しかったんです……本当に。」 だから。 だから何故、そんな話を俺にする。 既に我慢は限界を越えて、もうすぐいつものように君の怒りを最大限発揮させる台詞を投げつけてやろうと身構えているというのに。 楽しかった、と、口元を緩めながら、でも何故そんなに切迫したような苦しい顔をするんだ、マヤ。 「キス、も、しました」 「キス」 「──おでこに、ですけど。ちょっとだけ」 蒼白だった頬に少し赤みが刺す。 見えるはずもない里見の唇の跡を追って、俺の眼はその一点に焼け付くような嫉妬を込めた視線を集中させる。 そんな視線に気づくこともなく、少女は残酷な台詞の続きを探そうと赤い唇を半開きにさせたまま項垂れている。 「ますます自分の首を絞めた、という訳か」 「え?」 「いや──それで、俺にどうして欲しいんだ?」 「べ、別に、どうしてとか。ただ──」 ふと顎を上げて、小首を傾げるようにして俺を見上げる。 その何気ない仕草がいちいち俺の心臓を締め付けのだると、彼女に理解させるつもりは毛頭ないが。 「ただその時──ああ、でもこれってファースト・キスじゃあないんだなって。  思ったら、ちょっとだけ……」 ……ああ、そういう事か。 投げつけようと構えていた様々な辛辣な台詞が急速に萎んでゆく。 何せこの子の”初めてのキス”、はよりによってこの俺に奪われてしまったのだし。 こうも素直に少女らしい嘆きを前に出されては、さしもの速水真澄も普段の彼らしくもない言葉を零してしまう、という訳で。 「──すまないな」 そんなに意外そうな顔をするな。 今の言葉には嫌味も企みもない。 心から、申し訳ないと思うよ、”大人”として。 紫の薔薇の影としては、怒りと罪悪感すら感じている程で。 でも過去を取り消すことなど不可能だ。 「が、俺を利用することはできるぞ、ちびちゃん」 「利用?」 「そうだ。前にも言っただろう、キス一つで俺を買ったんだと。  女の子のファーストを奪った罪は海より深い──  というわけで、今夜は俺が君の運転手になってやろう」 「な、なんでそういう事になるんですか」 「なんでもそういう事になるんだよ──じゃあ、時間になったら呼びにくる。  念のために、俺が来るまでここから出るなよ」 最後はあくまで軽い調子で言い放つと、自制心の砦として片方の爪先で半開きにしていたドアを広げ、再び外へと出た。 彼女の何気ない言葉によって締め付けられる胸の痛みは、息苦しさと共に微かな歓びを与えてくれる。 ――それなのに、自分の紡ぎ出す言葉といったら、ただただ形ばかりで、冷たく、痛みばかりだ。 その痛みに傷つくのが自分だけならまだしも、意図的に彼女を巻き込んでいる所が余計に罪深い。 ……それにしても、何故紫の薔薇のことを俺に漏らしたのだろう。 届かないことをあれ程までに不安に思っているとは──もちろん感慨深くはあるが、彼女の寄る辺ない孤独を示しているようでこちらまで不安になってくる。 (何を言っている──その孤独を押し付けているのは、他でもないお前自身の癖に) 自嘲の微笑みならいつもの事。 ただ、次の紫の薔薇の事だけを考えながら。 俺は今度こそ静かに、ドアの前を離れた。 web拍手 by FC2

last updated/11/03/10

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